#19 脱出

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生誕祭の会場を、武装グループが襲撃する。ダーギルの仕業だった。マームーンの情報からすべてを予期していたカーミル王子は事前の計画どおり、マームーンの助けを借りて会場からの脱出を図る。


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 王宮を出発した車列は、郊外にあるパダーン競馬場へと向かっていた。たった1人、ゲスト用のリムジンに乗っていたエフィは、車窓に流れる風景を見るともなしに見ながら、あの日、2000ギニーの取材に出かけて以降の激動の日々を思い返していた。始まりは偶然に過ぎなかった。なのに、あまりにも多くのことが起きた。わたしの人生は大きく変わってしまった。それどころか、あと少ししたらわたしは死ぬかもしれない。故国から遠く離れた、この砂漠の国で……。そのとき、カーミルの笑顔が思い浮かんだ。あの美しい目が。〈心配するな〉と力強い声も聞こえてくる。「カーミル……」エフィは祈りのようにつぶやいた。

 競馬場は、数多くの車輛と人とでごったがえしていた。王家の車列に気づいた人々が、笑顔で手を振っている。まえを行く2台のリムジンが右折したとき、窓を開けて笑顔で民衆に応えているカーミルの姿が見えた。

 あの笑顔の奥底で、カーミルはどんな気持ちでいるのだろう。祖国と国民に永遠の別れを告げるのは、とてもつらいことにちがいない。

 でもそうしてまで、わたしを選んでくれた。命を賭して、わたしをここから連れ出そうとしている。その思いに、わたしも応えなくては。弱気になってしまってはダメだ。絶対に生きてここから出るのよ。たとえどんな邪魔が入ろうとも、わたしは愛する人とともに必ず生き延びる。父さん、わたしたち2人に力を貸してね……。

 王家専用の駐車場にたどりつき、車が止まった。あちらこちらに、銃を構えた守衛たちの姿があった。ドアが開けられ、エフィは外に降り立つ。国王らが先にスタンドへ消えていくなか、カーミルがマームーンとともに近づいてきた。

「行こうか」カーミルの表情は引き締まっていた。エフィがうなずくと、そばにいたマームーンがささやく。「エフィさん、心配ないよ。準備万端だから。きっとうまくいく」どこかカーミルを思わせる言葉に、エフィの頬が少しだけ緩んだ。

 王家用の天覧室はスタンド最上階となる3階の中央にあった。

 カーミル、マームーン、エフィの3人が入室したとき、ちょうどライード国王とシャルジャーン国のハナーン王女が挨拶を交わしていた。王女は全身、黒のアバヤに身を包んでいたが、袖や胸のあたりにはシルバーを基調とした刺繍が施されており、シックな雰囲気のなかにも上品な華やかさがあった。

「ハナーン王女、わざわざお越しくださってありがとう」カーミルが声をかける。「元気にしていたかね」

「お目にかかれることを楽しみにしておりました、カーミル王子」

 エフィは気品溢れる王女のたたずまいに目を奪われた。細くありながらも濃いしっかりとした眉、アイシャドウとアイラインの効いた色香漂う目、ローズブラウンでくっきり彩られたシャープな口もと。

 そのとき、エフィは胸の奥がぎゅっと締め付けられるような痛みを覚えた。もしかしたら、これが嫉妬なんだろうか。カーミルの愛を信じていながら、まさかこんな感情を抱くなんて。それ以上に、エフィはいま置かれている状況のなかで嫉妬に胸を痛めている自分に驚いていた。差し迫った恐怖に対する防御反応なのか、それともカーミルへの思いの強さから来るものなのか……。

「カーミルよ、王女にミス・ベレスフォードを紹介してあげたらどうだ」ライードの声に、エフィはわれに返った。

「王女、こちらはミス・エフィ・ベレスフォード。イギリスの新聞記者だ。わたしの密着取材をしてくれている」カーミルが穏やかに言った。

「お会いできて光栄です、ハナーン王女」エフィが軽く頭を下げると、ハナーンはまぶたを閉じながらかすかに頭を下げた。

 ライードが口をはさんだ。「王女はカーミルの婚約者なのだよ、ミス・ベレスフォード。似合いのカップルだとは思わんかね」

 エフィの心がずきんと痛んだ。この期におよんで、どうして嫉妬なんかするんだろう。そんなこと思いながら返答しかねていると、カーミルが割って入った。

「生まれるまえから婚約が決まっていたのですから、似合いも何もないでしょう、父上」

 ライードの陰湿な攻撃をさらりと交わすと、カーミルはエフィに笑顔を向けた。「そうだ、ミス・ベレスフォード。競馬場を見てくれないか。私が設計したんだ」

 カーミルはエフィをバルコニーに導きながら、「イヤな思いをさせてすまない」と小声で詫びた。エフィは小さく首を振り、「平気よ」と答えた。

 カーミルは目で〈ありがとう〉と伝えると、「どうだね、すばらしい設備だろう」とわざとらしいまでに声を張り上げた。「これから私の生誕を記念した3つのレースが行われる。その後、私がスピーチをして、最後は花火の打ち上げだ。場内では、王宮お抱えのシェフたちが腕を振るった軽食やドリンクが無料で振るまわれる。みな、この日を楽しみにしているんだ」

 ニューマーケット競馬場とくらべたら規模は小さいが、設備ははるかに近代的だった。コース内には巨大な防壁のような液晶モニターが鎮座し、大きな噴水やテラス席がある。楕円を描くコーストラックが一望でき、まるで平原のようなニューマーケットとは何もかもがちがっていた。

「3コーナーから4コーナーにかけてパームツリーが立ち並んでいるだろう。あの向こうに厩舎がある。そこから脱出する」カーミルは声を潜めた。

 と、場内に溢れる人波のなかから、歓声が上がった。バルコニーのカーミルに気づき、みな手を振っている。やがて「カーミル! カーミル!」という大きな声がわき起こった。

「いい口実ができた」カーミルはつぶやくと、エフィを連れて室内に戻った。「ちょっと下へ降りて、わが民に挨拶をしてきます」

「僕も行く!」マームーンが目で合図を送りながら声を上げる。と、いつのまにか部屋にいたダーギルが「それは願ってもないことだ」と口を滑らした。「その、国民にとっては」

 エフィとマームーンが先に部屋を出ると、カーミルはライードと王女に向かって言った。「しばし失礼します、父上、ハナーン王女」丁重に頭を下げながら、心のなかで〈お世話になりました、国王〉と謝意を述べた。

 心の中で永遠の別れを済ませ、展覧室から廊下へ出ると、エフィとマームーンが待っていた。

「挨拶は済んだ?」マームーンが静かにたずねた。

「ああ」カーミルはそれだけ言って2人の肩を叩いた。「よし、行こう」


     ―    *    ―    *    ―


 中央の階段を使って2階まで降りると、マームーンは護衛に向かって「ここからは僕たちだけで行く。あとは計画どおりに」と告げた。護衛を残し、3人は建物の奥へと廊下を走った。端までたどり着くとふたたび階段で1階に降り、スタンドの裏側に出て、厩舎のあるほうへと急ぐ。

「おそらくダーギルは武装グループに連絡を入れたはずだ。われわれがいつまでたっても場内に姿を見せないとなれば、すぐに探し始めるだろうな」

 そう言った直後、3人のやや前方の地面にぽっと土煙が立った。「気をつけろ!」カーミルの叫びに、エフィとマームーンはさっと身をかがめる。カーミルが振り返ると、スタンドの屋上にスナイパーらしき人影が見えた。

「あれはダーギルの息のかかった衛兵だな。おそらく足止めすることが狙いだろう」

「どうしてわかるの?」とエフィ。

「銃声が響かないのはサイレンサーを付けているからだ。襲撃犯ならそんな小細工はせずに堂々と撃ってくる。それに、その気があるならわれわれはとっくに撃たれているはずだ」

 事実、カーミルが話しているあいだに撃ち放たれた3発の銃弾は、地面にあたって土煙をあげるばかりだった。

「とにかく急ごう。もうかがむ必要はない、全力で走れ!」


 厩舎にたどりつくと、マームーンはなかに入り、2頭の馬を引き連れて出てきた。

「アラブ馬だよ。サラブレットよりは遅いかもしれないけど、丈夫だしスタミナが豊富だから」

 マームーンはふたたび馬房へと消え、すぐに麻袋を持って出てきた。なかから2丁の小型機関銃と弾倉を取り出し、カーミルに手渡す。カーミルはひとつを斜めに背負うと、もう1丁をエフィに渡そうとした。「きみもだ」

「銃なんか撃てないわ」エフィが怯えていると、カーミルは笑みを浮かべながら「きみには撃たせない。とりあえず持っていてくれ」と伝え、彼女に機関銃を背負わせた。

 そのとき、パンパンパンという乾いた銃声が轟いた。

「始まったな」カーミルは急いで1頭の手綱をもう1頭の手綱に括り付けると、まず自分が乗り、エフィをそのうしろにまたがらせた。「途中で馬を交換する。いきなりきみに馬を御せと言っても無理だろうから」

 カーミルは馬上で体を斜めに倒し、片腕でマームーンを抱きしめた。「廃墟で落ち合おう」

「死なないでよ、兄さん」

「誰が死ぬものか」

「絶対に廃墟までたどり着いて。秘密兵器を用意しておいたから」マームーンがウインクする。

「そいつは心強い」カーミルは笑ってみせると、「しっかり私につかまって」とエフィに命じた。エフィはカーミルの体に腕をまわし、背中に頬を押しつけた。

 カーミルが馬の脇腹を軽く蹴ると、2頭のアラブ馬はゆったり並足で走り始めた。厩舎のまえをとおり過ぎ、裏門から外に抜ける。目のまえには、不毛の大地が広がっていた。

「振り落とされるなよ、エフィ」カーミルは言うやいなや、馬の脇腹を強く蹴った。2頭の馬は、全力で走り始めた。

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