#08 王子の優しさ

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話し合いが済んだシンガポールの夜。カーミルはエフィに、消えた父親に関する情報があまり得られていないことを伝える。心の重荷を取り除き、自分を押し殺しているエフィを解き放ってやりたい。カーミルはそう思っていた。


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「こういう堅苦しいのは苦手でね」アンセルはデザートを食べ終えると、立ち上がった。「せっかくシンガポールくんだりまで来たんだ、マーライオンにでも挨拶してくるよ。エフィ嬢ちゃん、、、、、、、もいっしょにどうだい?」

「遠慮します」エフィは即答した。

「きみひとりで行ってくるといい、アンセル。私はエフィと話があるから」

 アンセルはカーミルとエフィの顔を交互に見た。「オレを追い払って、いちゃつこうって魂胆か?」

 エフィの顔が赤くなる。まったく、何を言ってるの、この人は? 王子に会えて浮かれている自分の心を見透かされたような気がして、急に居心地がわるくなった。

「エフィのお父さんのことだ」

「どうだかな。まあ、いいさ。今晩だけはふたりきりにしてやる。ここじゃ酒を飲んでも酔える気がしないしな」アンセルは着慣れないシャツのボタンをふたつほどはずし、「ドレスコードなんてくそ食らえだ」と悪態をつきながら出ていった。

「おもしろい男だ」ディナーを共にし、利害関係のない話に興じたことで、カーミルとアンセルの距離は少しだけ縮まっていた。

「あの品のなさには辟易しますけれど」エフィは顔をしかめた。

「だが、そんな男のためにきみは私との間を取り持った」カーミルはエフィの目をじっと見つめた。「女はときとして野蛮な男に惹かれるものだ」心なしか口調にとげが感じられる。

「あの人には、まったく興味ありません。王子の知らないところで騒ぎになることだけは避けたかった。ただそれだけです」エフィはそう言いながら、これは告白みたいなものではないの? と自問した。

 カーミルはそれを感じとっているのかどうか、小さくうなずいただけだった。「きみの判断は正しかった。アンセルを信用したことも、真っ先に私に知らせたことも」

「王子に出会ってすぐ、こんな形で連絡することになってしまって……ごめんなさい」

「謝る必要はないさ。むしろ感謝している。国王もおそらく同じだろう。それに、きみとこうして再会することもできた」カーミルはゆったりとした笑みを浮かべた。「きみは心のなかがすぐに表情や態度に出てしまうほど、素直で正直だ。それに美しくもある。きみのような女性はわが国にはいない。帰国してすぐ、きみのことを恋しく思ったぐらいだよ」

 わたしのことが恋しかった? その言葉は恋愛経験のほとんどないエフィを思い切り動揺させた。慣れない言葉があまりにも気恥ずかしかった。ようやく顔をあげると、カーミルの目が笑っていた。

 砂漠のオアシスが、いまは魔法の泉に見える。そこからあふれ出る不思議な力が、いままでずっと閉じ込めてきたあらゆる感情を一気に解き放ってしまいそうだった。油断してはだめよ、エフィ。胸の奥底にある檻の鍵が開いてしまうから。

「ところで、きみのお父さんのことだが」カーミルが口を開いた。「大臣たちに確認してみたところ、そういった情報をつかんでいるものはいなかった」

 エフィは一瞬にして現実に引き戻された。居ずまいを正し、浮き立つ心を叱りつけた。

「事件に巻き込まれた場所が国境付近だとすると、まあ、やむなしというところだ」カーミルが残念そうに言う。「わが国は都市部こそ急激に近代化しているが、辺境はまだまだ昔ながらの集落がある。実際のところ、政府が掌握しきっていない部族も少なからずいる。有力な手がかりを知っている人間がいるとすれば、彼ら以外にない。だから、きみといっしょに彼らのもとをたずねようと思っている」

「ありがとうございます」エフィは新たな希望の光が見えた気がした。「でも、どうしてそこまでしてくださるんですか」

「今回の一件に絡めて言えば、口止め料代わりと言いたいところだが」カーミルはそこで言葉を切ると、真剣な面ざしでつづけた。「私としては、きみに真実を見つけてほしいと思っている。お父さんに会えれば、きみは自分のいましめから自由になれるだろう。楽しんだり、心の底から笑ったりすることは、人として必要なことだ。そうすることに罪悪感を覚えなくても済むようになるべきなんだ。きみは、きみの人生を生きるべきだ」

 その言葉が、先ほどの言葉よりもさらに強くエフィの心を揺さぶった。ふいに目から涙があふれた。さまざまな光景や思いがいっしょくたになって頭のなかをかけめぐる。なんの涙なのか、自分でもよくわからなかった。「すみません、わたし……」

 カーミルはエフィの手をとり、もう片方の手の指先でやさしく頬の涙をぬぐうと、エフィの目を見つめて静かに言った。

「私は、自分を厳しく律することを止めたきみを見てみたい」

 私のためにも。そうつづけたかったが、カーミルは言葉を飲みこんだ。なぜか、軽々しく口にしてはいけないような気がした。

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