第18話 四谷大木戸

国破れて

山河あり 城春にして 草木深し

春望 杜甫より


 幼稚園から小学校低学年の頃のことだ。夏休みに1週間ほど、神楽坂の叔母の家に預けられた。

田舎で育った私には、街の中の暮らしは退屈で、朝から裏の小さな公園で遊ぶほかはすることがなかった。昼間体を動かさないせいか、深夜になっても寝つけずにいた。


二日目の晩に、車が行き交う音に混じって、なんとも奇妙な音が聞こえてきた。

ガランガランジャリジャリと重たいものを引きずるような音だ。


「おばさん、起きて、叔母さん」

家の周りを徘徊している音に我慢できずに、横に寝ている叔母を起こした。


叔母は2階の窓を少し開けて、外を見ていた。

「ちょっと見に行こうか。金棒引きだったら大変だ」

叔母は好奇心旺盛で、とても活発な人だった。

神楽坂で食堂を営んでいた。小料理屋の体裁だったが、なぜか食堂だといいはる。


叔母に手を引かれ、深夜の神楽坂を下った。すると、あたりに薄い煙が流れている。

「いいかい、公園までいくよ、すごいものが見えるかもしれない」


公園に1mほどの小山がある、叔母が山のてっぺんに膝を抱えて座った。

「金棒引きってのは、火事を知らせる合図なんだ。だけど、今どき金棒引きなんてのはいないよ」

「ほら、あっちが燃えてる、そっちが四谷大木戸の方角だ」

叔母は夜着の浴衣姿に毛糸のショールを巻いていた、私はパジャマに半纏を着せられていた。深夜の寒さの中、叔母は目を輝かせ、あたしは息を詰めている。


半鐘が鳴り出した、火消しの纏が走ってゆく、馬が土埃をあげて、その間をどこから湧いて出たのか人々が右往左往し始めた。大八車には山積みの家財道具が積まれている。


「叔母さん、怖い、逃げよう」

「これは幻だよ、騒ぎは聞こえない。よく見てごらん、ビルの風景と、江戸の風景が重なっているんだ、火事は江戸を焼いている、お前にも見えるのかい、そうかい、そうかい」

叔母にもたれて、頭を撫でられながら、町が火事で真っ赤に燃える様を眺めた。


「あの日は、大木戸が閉められて、みんな木戸が越えられず、きっとこのあたりも死人が出たよ。死人だけじゃない、馬や牛も死んだんだろう、あの火事で江戸は10万人の死人が出た」

回り灯籠の影絵のような風景を、夜が白むまで眺めていた。


「あっちが赤坂、向こうがお城」

叔母は、ひときは赤くなる方を指差した。

なんとも不思議な夜だった。


早朝の町はいつもの風景で、叔母はシャラシャラと石畳に下駄の歯を滑らせて「あら、早いじゃないか、おはようさん」などと、何事もなかったように歩いている。


「他の人は知らないの?」

「わからないよ、あたしも20年も昔に迷っただけだから。高みの見物をしたと思いな」と諭された。


私は大人になるにつれ、あれは『明暦の大火』と言われる大火事の風景だったのではないかと、しだいに見た風景の正体を知るようになった。

あれから、何年かに一度、住まいを変えて、幻想的な風景を探す。


江戸の町は、百鬼夜行に出会った話もあるし、刑場跡もある。土地の昔を知ることだ。


人気がない町の散歩は欠かさない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る