第3話 音桐一真


 ジトっとした重い空気が立ち込めている教室に不似合いな明るい声が響く。


 クラスメイトたちの注目が集まる中、沢山の視線を気にすることなく堂々と教室に入って来る人物がいた。


 音桐おとぎり一真かずま


 僕の大切な幼馴染の一人だ。


 つんつんしているブラウンに染められた髪が目立つ。鼻が高く、綺麗な肌をしていて、他のパーツも整っている一真は男から見ても羨ましくなるくらいのイケメンだ。


 整っているのは顔だけじゃない。一真は細身だが鍛えられた体つきをしていて、スマートなカッコよさを感じさせる肉体も持ち合わせている。


 そんな見た目の一真は当然みんなの人気者だった。


 その外見から女子の人気はもちろん高いし、気さくで明るい性格が上手くかみ合って男子の友達も多い。


 周りからいつも注目されている人気者で、僕をテニス部に誘った張本人。


 つまり皆から応援されて期待されていたテニス部のエースが一真だった。


 そう、僕は一真の活躍を無駄にしたからこんな状況に陥っている。


 けれど僕が一真を怨むことはない。むしろ感謝しているくらいだ。


「優人、今日早いな」


 笑いながら近づいてくる一真。


 僕は返事をしようとして開きかけた口をすぐに閉じた。一真と僕の間に一人の女子生徒が立ちふさがったからだ。


 僕の姿を隠すようにして、まるで一真を近寄らせないように立った女子が一真に声をかける。


「一真君おはよう!」

「ん? あぁ」

「ねぇねぇ、こっち来て皆でお話でもしない? 皆一真君の話が聞きたいんだって」

「優人に用があるからいいや」


 はしゃいでいる女子とは対照的に無愛想な返事をする一真。


 それでも女子が笑顔を崩すことはなかったけれど、一真の口から僕の名前が出た途端、彼女の声色が変わった。


「……あんな奴無視した方がいいよ!」

「はぁ?」

「だって、アイツのせいで一真君はインターハイに出場できなかったんだよ? マジムカつくよね。せっかく皆で一真君の応援してたのにホント最悪。学校に来ないで欲しいのに図々しく毎日来てるし」


 まくしたてるように喋り続けた女子は肩越しに僕を一瞥した。


 その瞳にはありありと侮蔑の感情が込められている。


「だからあんな奴気にする必要ないよ! 一真君が優しいのは知ってるよ。でもその優しさが、ああいうバカをつけあがらせるの。このままじゃ一真君、一生あいつに寄生されちゃうよ」


 僕を罵倒する時は激しく、一転して一真には優しく諭すような口調を使い分ける女子。


 散々な言われようだと思った。


 自分がこういう状況にいることは理解していたけれど、心のどこかでは皆は面白がってふざけているだけだと信じたかったのかもしれない。


 だが今の言い方を聞くに、僕はどうやら本気で嫌悪されているみたいだった。


 どうして部に直接関係ない人にここまで言われなきゃいけないのかが分からない。


 部が負けたのは自分のせいだという事は認めている。部の仲間になら何度でも土下座する覚悟もある。けれど部に関係のない人には別だ。


 一真が人気者なのはもちろん知っていたけれど、ここまでの影響力があるなんて少し異常だった。


 皆はただ誰かを悪者にして叩きたいだけ、体のいいストレスの発散に使われているようにしか思えない。


 それでも向けられている悪意は本物だ。


 胸のあたりがむかむかしてくる。こみ上げてくる何かを押さえ込むため、僕は慌てて口に手を当てた。


 こちらに背を向けている女子の顔は見えない。きっと顔を歪ませて僕への感情を吐露しているのだろう。


 だが一瞬前まで肩を怒らせていた女子のその背中が、不意に小刻みに震え出した。


「どけよ」


 ただ一言だけ聞こえた恐ろしく冷たい声。


 一真が怒りを露わにしていた。


 絞り出したような低い声だった。別に一真は大声で叫んだわけでもないけれど、その声は少なくとも教室中に聞こえたようだ。


 女子の言葉に同調して僕を嘲笑っていたクラスメイトたちが、一瞬にして凍り付いたように静まり返る。


 一真に話しかけていた女子は消え入りそうな声で「す、すみません」とだけ言って友達の元に戻っていった。


 少しの間その女子を睨みつけていた一真だったが、すぐに興味を失ったようでこちらに振り向いた。


 僕に向けられたのは先ほどまでのゾッとするような無表情ではない。心配されているのが痛いほど伝わって来る温かい顔だった。


「優人、大丈夫か?」

「平気だよ。ありがとう一真」


 笑ってみせる。


 一瞬驚いたような表情をした一真は、やれやれと頭をかいて前の席に座った。


 一真がいてくれるだけで、あんなにも心細かった気持ちはどこかに行ってしまった気がした。


「さっきの気にすんなよ。あんな奴の言うことなんて聞く価値もねぇよ」


一真がわざと声のトーンを上げる。


 視界の隅に映っていた女子の背中がビクッと震えたのが見えた。


 一真としてはさっきの意趣返しだったのだろうけど、見ているこちらが不憫に思えるほど女子は震え続けていた。


 一真は人気者だ。かっこよくて運動もできる。皆から期待されるような人物。


 必然的に知り合いや友達は多いし前から僕のクラスによく来ていたこともあって、ここのクラスの人達とはかなり仲がよかった。


 それでも一真は、僕のためにこうして怒ってくれている。


 僕を虐めている人たちは一真のためと言っているけれど、一真はそんな人達に敵対するような姿勢を貫いていた。「オレはそんな事望んでない」そう言ってはっきりと僕の側についてくれた時は思わず泣きそうになった。


 そんな一真だからこそ周りの人間はよかれと思って暴走してしまうのかもしれない。


 一真がこんなにも頑なな姿勢を貫いているというのに、収まらない周りが異常だということがはっきりと分かる。


 今ではもう単純に僕を叩いてストレス発散に使っているだけなのだろうけれど、望んでもいない事を勝手に発端にされた一真もある意味被害者の一人だと思う。


「か、一真、僕は気にしてないから、ね?」

「……まぁ優人がそう言うなら」


 そうは言いながらも一真はまだ根に持っているのか、鋭い視線を先ほどの女子に送っていた。が、すぐに何かを思い出したのか教室を見渡し始めた。


「神奈はまだか?」

「うん、今日はまだ来てないみたい」

「何やってんだアイツ。教室では優人の事は任せてぇ、とか言ってたくせによ」

「あはは、僕は気にしてないから、むしろありがたいよ」


 一真が言った『神奈』という人物も僕の幼馴染の一人だ。


 一真と神奈の他にも幼馴染は二人いて、皆幼い頃から僕たち五人はずっと一緒だった。


 出会ってからかれこれもう十年以上の付き合いになる。


 僕にとって何よりも大切な繋がり。


 そのうちの一人が今目の前にいてくれる一真。


 言い方は悪いけれど、僕がこういう状況にいるのは一真の存在が影響している。


 皆が期待していた一真の活躍を台無しにしたことを発端にして今の僕の状況がある。


 けれどそれは周りが勝手にしている事。当の本人である一真は僕を虐めてはいない。むしろ庇ってくれて心配してこうして教室まで様子を見に来てくれる。


 少し前一真は「オレのせいですまん」と頭を下げてくれた。


 けれど僕は一真のせいでなんて一度も思った事はない。こうなったのはすべて自分のせいだ。


 むしろ一真は僕のせいで負けてしまった。熱が入っていた団体戦で負けてしまったことが大きかったのだろう。


 個人戦でも調子が上がらなかった一真は、あんなに頑張っていた部活動の最後の大会で何の成果も残せなかった。


 それなのに僕を責めることもせずに、今まで通りこうして一緒にいてくれる。それがどれだけ嬉しかったことか。僕は感謝の気持ち全てを一真に伝える語彙力が自分にないことを悔やんだ。


 一真が一緒にいてくれるだけで僕がどれだけ救われたことか。


「ありがとう一真」

「な、なんだよ急に、いいんだよ感謝なんかしなくて」


 真顔でお礼を言うと一真は照れたのか顔を赤くしていた。


 その様子がなんだかおかしくて僕は自然と笑う事ができていた。


 僕が笑ったのを見て、一真もつられたように笑ってくれた。


「教室出るか?」


 ひとしきり笑いあったあとで、一真がそう切り出して来た。


 居心地の悪さを感じたのかもしれない。


 僕たちが話しをしている間も、クラスメイトたちからの無言の視線は常に感じていた。


 不躾なものだったけれど視線だけならもう慣れてしまった。ただ一真は僕とは違ってどこか気持ち悪そうにしている。


 もうそこまで時間があるわけじゃないけれど、一真の事を考えれば外に出た方がいいかもしれない。そう考えた僕が腰を浮かしかけた時、


「おはよう優人」


 孤立しているはずの僕に声をかけて来る人物が現れた。


 それはもう一人の大切な幼馴染だった。

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