第2話

 3月2日

 東海旅客鉄道(JR東海)は、愛知県春日井市西尾町にあるリニア中央新幹線「西尾工区」のトンネル内でコンクリート片が剥がれ落ち、作業員1人が重傷を負ったと発表した。


 岸田文雄首相は、ロシアによる軍事侵攻でウクライナから第三国に逃れた避難民の一部を受け入れる考えを表明した。まずは親族や知人が日本にいる人々の受け入れを想定しているとした。


 外務省は、キーウの在ウクライナ日本国大使館を一時閉鎖し、同大使館業務をリヴィウに開設している臨時の連絡事務所に移転すると発表。


 防衛省は、午前10時23分頃に北海道根室半島沖の領海上空でロシアのものと推定されるヘリコプター1機が領空侵犯したと発表。航空自衛隊の戦闘機が緊急発進して対応した。政府は外務省を通じて、ロシア側に厳重抗議した。

 

 宇田川エミが殺された。

 犯人は、エミの部屋の玄関ドアの外側にドアストッパーを置いた上で、ベランダに梯子をかけて登り、ベランダの窓を割って侵入した。犯人はエミをバールで殴ったり包丁で刺したりし、120カ所以上の刺し傷や切り傷を負わせた。エミの悲鳴を聞いた大山が110番通報し、エミは病院に搬送されたが、後頭部の粉砕骨折と左太ももの動脈損傷により失血死した。室内はトイレにまで大量の血痕が付着していたという。


 箱根署刑事課の鬼沢國男きざわくにおはエミの身元を洗った。

 被害者は中学では美術部に所属しており、クラスの中心的人物だったという。学級委員長なども兼任しており、皆から好かれる性格だったと同じ中学に通う同級生は話す。その一方で上から目線な一面があり、命令口調で物事を頼むなどトラブルの原因になりかねない言動があったと話す同級生もいた。


 鬼沢は蛇骨川を隈なく調べた。

 木製の棒(長さ約60cm)の先に包丁を固定した手製の槍のようなものや、バールが川底から発見された。

 それから民宿にもう一度赴いた。

 室内はエミが逃げられないように、ドアの外側にはドアストッパーが差し込まれ、接着剤で止められていた。


 大山はエミが死んで打ちひしがれていた。

 ファミレスで昼ご飯を食べてから、大山は仙石原に出かけた。

 箱根火山カルデラ内の北部に位置し、湿原や草原が広がる。総面積は約16ha。これはかつてこの地域がカルデラ湖の一部だった名残りである。富士箱根伊豆国立公園に指定されている。現在は一部が別荘地やゴルフ場として整備されている。現在は2005年にオープンした箱根ラリック美術館をはじめ、ポーラ美術館、星の王子さまミュージアム、箱根ガラスの森等の美術館が点在し、美術館目当ての観光客も多い。


 仙石原のことを、古くは「千穀原」とも書いた。地名の由来については複数の説があり、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名、豊臣秀吉の最古参家臣仙石秀久に由来する説や、源頼朝が雄大な原野を眺めて「この地を開墾すれば米千石はとれるだろう」と言ったのを由来とする説などがある。

 

 紀元前1,000年ころに、神山の北西斜面で水蒸気爆発が起こり、これが引き金となって崩壊が起こり、大量の土砂が神山岩屑なだれとなって仙石原に流れ込んだ。その後、神山北西斜面の崩壊跡に地下からマグマが上昇し、冠ヶ岳ができ、冠ヶ岳火砕流が繰り返し北西斜面を流れ下り、このとき崩れた土砂が仙石原をつくった。弥生時代中期には、多量の土砂のせき止めによって、古芦ノ湖の仙石原部分が湿地化し、農耕民が住み始めた。

 

 1626年(寛永3年) - 箱根裏街道監視のため、関所が設置された。これにより、周辺の山々は御要害山として立ち入り禁止になり、薪・カヤの伐採も禁止された。

 1670年(寛文10年) - 駿河国駿東郡深良村へ芦ノ湖の水を落とす箱根掘貫工事が完成する。

 1736年(元文元年)ころ - 大涌谷からの引き湯が始まる。

 1872年(明治5年) - 江川英武が、村民共有地を300円で買い上げ県有地とする。

甲斐国から人を入れて開墾するも、成功せず。

 1880年(明治13年) - 渋沢栄一と益田孝へ県有地の原野750町を払い下げる。渋沢と益田は、牧場「耕牧舎」を経営し、従弟の須永伝蔵を責任者として開拓に着手する。

 

 渋沢か、去年の大河ドラマ『青天を衝け』は面白かったな。

 

 旅館に戻ってきて夕食を食べながら、歴史書の続きを読んだ。

 

 江戸時代 - 徳川家康が江戸幕府を開くと、東海道を足柄峠経由から箱根峠経由に変更させ、現在の箱根町に当たる芦ノ湖畔に箱根関所を設置し、「入鉄砲に出女(武家の妻女)」を厳重に監視した。箱根宿三島町・芦川町は韮山代官所直轄の天領、箱根宿小田原町・新町・新谷町およびそれ以外の箱根町域のほとんどは、小田原藩領となる。

 

 1868年8月17日(慶応4年6月29日) - 箱根宿三島町・芦川町の民政一般が神奈川府の管轄となる。ただし一部事務などは韮山県が扱った。

 明治初年 - 箱根宿が箱根駅に改称。

 1869年7月25日(明治2年6月17日) - 版籍奉還により、明治政府の行政区画としての小田原藩が成立する。

 1871年8月29日(明治4年7月14日) - 廃藩置県により、小田原藩が廃止され、小田原県となる。

 1871年(明治4年9月) - 韮山県廃止により、箱根駅が全面的に神奈川県の管轄となる。

 1871年12月25日(明治4年11月14日) - 小田原県は廃止され、神奈川県管轄地域を含めた足柄下郡の全域が足柄県に属す。

 1876年(明治9年)4月18日 - 足柄県を分割し、これ以降は神奈川県に属する。

 1884年(明治17年) - 箱根駅、元箱根村および芦之湯村が「箱根駅外二ケ村」連合戸長制を敷く。

 1886年(明治19年)7月 - 函根離宮(現在の恩賜箱根公園)が竣工する。

 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行で箱根駅、湯本村、温泉村、宮城野村、仙石原村、元箱根村、芦之湯村の1駅6村が発足する。箱根駅、元箱根村および芦之湯村は、「箱根駅外二ヶ村組合」にて行政を行う。

 1892年(明治25年)10月29日 - 県治局長による内翰により、箱根駅が箱根町に改称する。箱根駅外二ヶ村組合は、箱根町外二ヶ村組合となる。

 1904年(明治37年) - 七湯経由の人力車道が足ノ湖畔まで開通する。

 1927年(昭和2年)10月1日 - 湯本村が町制施行し、湯本町となる。

このころ、箱根山戦争が起きる。

 西武グループと東急グループは長野県軽井沢地区および群馬県草津地区でも、箱根土地(コクドを経て現:プリンスホテル)および傘下の西武高原バス(現:西武観光バス軽井沢営業所)と、東急傘下の草軽電気鉄道(現:草軽交通)による観光地でのシェア争いを繰り広げていたことでも知られる。


 西武と東急の2社は今でこそ鉄道車両の製造や直通運転などを行っているが、当時はこの輸送シェア争いに関する裁判や代執行、大臣による仲裁が絶えなかった。西武陣営はその資金力で土地を押さえ、小田急陣営の背後についていた東急陣営はそれに対抗する行動を繰り返した。それらは五島慶太の名をもじって「強盗」と称されたほどであった。


 戦後の好景気により観光需要に湧く箱根地区の路線バス相互乗り入れ協定に両社が調印する事で、箱根山戦争は終結した。


 一連の権力とカネの対抗は兜町や霞が関、最終的に永田町に波及し、多くの裁判や代執行の末、最終的な両陣営の調停・和解は運輸大臣(現在の国土交通大臣)のもと数回にわたって行われることとなった。

 箱根における交通機関は、芦ノ湖において1909年ごろに定期航路が開設されたものが最初とみられている[2]。元箱根村の村会議員であった大場金太郎の家は、ハコネダケを使用した製品を作っていたが、大場は1909年に仕入れと出荷を共同で行うべく「篠竹組合」を設立していた。ちょうどこの時期に、芦ノ湖を訪れ、舟によって対岸へ渡ったり周遊したいという観光客が増えていたことから、大場は「篠竹組合」の利益金で各戸に舟を持つことを勧めていたのである。当初はすべて和船による運航であったが、1917年頃には既にモーターボートが導入されていた。この頃には箱根渡船組合と箱根町渡船組合が芦ノ湖の航路を運航しており、互いに観光客を奪い合っていた。


 1919年6月1日に小田原電気鉄道(当時)が登山電車(鉄道線)を開通させ、富士屋自働車が乗合自動車(路線バス)の運行を開始すると、多くの観光客が訪れるようになった。


 一方、軽井沢において広大な土地の取得に成功していた堤康次郎は、箱根に着目し、1920年3月に箱根土地(後にコクド、2006年にプリンスホテルに吸収)を設立し、別荘地の分譲などを中心とした観光開発を行なっていた。堤康次郎は大場のリーダーシップに着目し、大場と手を組む形で1920年4月に、それまで競合していた箱根渡船組合と箱根町渡船組合を合併して箱根遊船を設立した。これが、堤康次郎が箱根で最初に手がけた交通機関である。1921年12月1日に小田原電気鉄道の鋼索線が開業すると、早雲山まで登山電車とケーブルカーを乗り継ぎ、そこから徒歩で芦ノ湖まで歩いて、湖尻から元箱根まで船で渡る観光客が増加したことを受け、小田原電気鉄道と箱根遊船は提携して1922年5月から「箱根廻遊切符」の発売を開始した。


 この時点で、堤康次郎は既に箱根において889ha.(ヘクタール)の土地を買収しており、その後翌年までに湯河原と箱根町を結ぶ鉄道や、強羅から仙石原を経て箱根町に至る電気鉄道の建設を出願しているが、いずれも着工に至らず、1924年に駿豆鉄道(当時)を買収した。また、小田原電気鉄道は堤康次郎の仲介によって1928年に日本電力に売却され、同年8月13日に箱根登山鉄道として発足した。

 その後、駿豆鉄道では自社の路線バスの運行を目的として、1925年に熱海峠と箱根峠を結ぶ、延長9.9kmの自動車専用道路(十国線)の建設を内務省に出願した。この道路は1930年7月に建設が許可され、1930年11月には着工となったが、これと並行して、箱根遊船によって小涌谷から早雲山と大涌谷を経て湖尻に至る自動車専用道路(早雲山線)と、湖尻から元箱根に至る自動車専用道路(湖畔線)の建設を進めることとした。この早雲山線の建設においては、一部の土地が箱根登山鉄道の所有地であったため、1931年11月30日、箱根遊船と箱根登山鉄道の間で土地の貸借契約が結ばれた。箱根登山鉄道ではこの契約において、小涌谷から早雲山までの間の土地に関しては有償で貸与しているが、早雲山から湖尻までの間にある土地は無償貸与とした。これは、ケーブルカーの早雲山駅から芦ノ湖までの間はそれまで徒歩による手段しかなかったため、この間にバスが運行されることは箱根登山鉄道側にとってもメリットがあったためである。また、箱根登山鉄道と箱根遊船のどちらにとっても、富士屋自働車は商売敵であった。


 自動車専用道路十国線は1932年8月に開通、さらに1936年1月には早雲山線が、1937年10月には湖畔線が開通した。


 その後、1933年1月に箱根登山鉄道はバス事業全てを富士屋自働車に譲渡し、富士屋自働車は社名を富士箱根自動車に変更した。また、1938年には箱根遊船と駿豆鉄道が合併して駿豆鉄道箱根遊船となったが、戦時体制となり「遊船」という社名が問題視されたことから、1940年に駿豆鉄道に社名を変更した。また、国が推進した電力国家管理政策により、箱根登山鉄道・富士箱根自動車の親会社であった日本電力は、やはり日本電力傘下にあった箱根観光が運営していた強羅ホテルとともに箱根登山鉄道と富士箱根自動車を他社へ譲渡する意向を示した。


 この当時の堤康次郎は「箱根の交通機関を西武だけが独占するのは好ましくない」と考えており、また当時は東京横浜電鉄の五島慶太との関係も比較的良好であった。そのため、堤康次郎は五島慶太が箱根の観光開発に着手することを期待して、五島慶太に対して「箱根登山鉄道を買収したらどうか」と勧めていたのである。五島慶太は武藤嘉門の仲介によって、1942年に箱根登山鉄道・富士箱根自動車・箱根観光の株式一切を日本電力から購入し、箱根登山鉄道の社長に就任した。


 しかし、五島慶太は1945年12月に、強羅ホテルを運営していた箱根観光を500万円で国際興業に譲渡した。これは、当時の労働攻勢によって資金繰りのために売却したものであったが、これは堤康次郎の期待に反することで、「五島慶太は観光事業に取り組む姿勢がない」と解釈されたのである。これ以後、堤康次郎と五島慶太との関係は疎遠化していった。

 大山の祖父はかつて、強羅ホテルで働いていた。あとで詳しいことを聞いてみよう。

 

 1935年(昭和10年)2月 - 同年、横浜市で行われた「横浜復興記念博覧会」の第二会場として「箱根観光博覧会」が開催される。温泉館、水族館などがあり、今なお続く箱根の大名行列はこの博覧会のイベントとして始まった。

 1945年(昭和20年)- 1月以降、ドイツやソビエト連邦、満州国などの大使館が連合国の空襲から避けるべく東京より疎開する。


 明日は湯巡りしようかな?

 開湯は738年(奈良時代の天平10年)とされ、釈浄定坊が発見した「惣湯」が湯元とされる。この源泉は現在も使用されている。


 箱根温泉が知られるようになったのは、豊臣秀吉の小田原征伐がきっかけである。広大な小田原城を攻めるため、各地から武士を集め長期滞陣したが、その無聊を慰めるため温泉を利用したと言われている。


 江戸時代には五街道の1つである東海道に沿った温泉として繁栄し、「箱根七湯」として知られた。この頃の箱根七湯は、湯本、塔之沢、堂ヶ島、宮ノ下、底倉、木賀、芦之湯だった。開湯は古いものの、東海道から大きく外れていた姥子の湯は外された。ただし、これも加えて「箱根八湯」と呼ぶ場合もあった。徳川家光、徳川綱吉の時代には、将軍への献上湯も度々行われている。なお、江戸時代の温泉番付では、芦之湯温泉が前頭上位であった。


 明治以後、箱根は保養地、観光地としての開発が進んだ。1919年には箱根登山鉄道鉄道線が山上まで達し、さらに太平洋戦争終戦後まもなく小田急電鉄が箱根湯本駅まで乗り入れ、東京方面からのアクセスが便利になった。直通運転開始後は、西武鉄道グループと小田急グループの箱根山戦争の舞台して乗客の誘致合戦が行われた結果、多くの観光客が訪れた。また新たな源泉の掘削開発も行われ、歴史ある「箱根八湯」に加え、明治以降に開かれた大平台、小涌谷、二ノ平、強羅、宮城野、仙石原、湯ノ花沢、芦ノ湖、蛸川の9つの温泉を合わせて「箱根十七湯」と称した。さらに早雲山、大涌谷、湖尻の3か所を加えて「箱根二十湯」と称する場合もあった。


 箱根町内には、かつて温泉が引かれ、入浴をカリキュラムに組み入れた小学校もあった。一般の温泉と同じように全裸で入浴し、低学年では男女混浴の場合もあったが、2008年3月を以って廃校となった。


 2004年に、マスコミで温泉偽装問題が大きく取り上げられ、造成温泉を「天然」と表示したり、水道水に鉱石を通すだけで温泉と表示した旅館が有ると報じられ、問題になった。さらに箱根町の職員が従来は問題にされなかった事だと開き直った結果、騒動は大きくなった。なお、その「温泉を作る施設」は、2005年には台風11号により、湯の花沢地区の造成温泉施設に被害が発生した。配湯できない旅館向けに、別源泉からの引湯および温泉スタンドが設置され、源泉販売が行われた。


 2015年4月26日から箱根山で火山性地震が増加し、5月6日に箱根山が気象庁により噴火警戒レベル2に引き上げられた。これを受けて、箱根温泉付近の観光業に深刻な影響が出始めた。特に、 立ち入り規制の対象となった大涌谷周辺の温泉と、そこから温泉の供給を受ける温泉への影響が大きく、仙石原温泉の業者の1人は、6月の始めから宿泊予約が激減した事を「死活問題」と語った。また、箱根湯本駅前から観光客が消え、タクシー運転手の1人が「商売にならない」と語った。大湧谷周辺の規制地域から離れた地域にも影響が及び、「元祖箱根温泉まんじゅう」を販売する丸嶋本店は、売り上げが以前の4割にまで減ったという。強羅温泉でも、業者の1人が、火山活動を理由に宿泊予約をキャンセルされた件数が1ヶ月で「2割程度」と語り、「灰が降っていますか」という問い合わせも有ったと言う。こうした状況を打開するため、箱根温泉旅館協同組合が、2015年6月に、5000円で購入し箱根町内で1万円分の宿泊券として利用できる「箱ぴたプレミアムクーポン」を発売した結果、1200枚を5日で完売した。このクーポンは、国の地方創生交付金を活用した物で、当初は神奈川県が企画して実現した物だった。火山活動の観光への影響が懸念される中で実績を残した事について、組合では「火山活動により箱根が話題となったことで、むしろ関心を引くことになったのではないか」とコメントした。ただし、このクーポンについては地元の旅館に詳しい説明が無い状態で販売が開始され、旅館側から組合に問い合わせて「初めて内容がわかった」という事態も発生し、県と地元の業者との連携不足も露呈した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

箱根ハザード 鷹山トシキ @1982

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る