第29話 長い一日
「じゃぁ、始めましょう お願いしまーす 」
佐倉さんの一言で始まった午後からの時間。
私的には悩みの大きかった 組合を一時抜ける手続きは、書類への自筆署名と佐倉さんのPCからの処理で滞りなく終えた。
意外に呆気なく あっさりと済まされたのは、既に私たちが了解することを見通していたのだろうか、そしてそこに副社長からの 鶴の一声 が加わったおかげかもしれない。
ま、そんなことは、心を決めた今の私にとっては どうでも良いことで、とにかくこれで後には引けなくなったのだ。
私はこれからプロジェクトワークという大海に放り出されるわけだけど、この件については昼休憩に大樹と話をして、もう開き直ったこともあって、随分と気持ちは軽くなった気がする。
そして、いよいよこれから 具体的に「私たちは何をする」ということについて、引き続きモニター画面に映し出された内容をもとに佐倉さんから説明を受けた。
◆商品を知ってもらい、触ってもらい、気に入ってもらえるように、ショールームにエンターテイメントやアミューズメントの要素を取り入れて、誰もが来場しやすく、集って滞留してもらえるような開放的で楽しい場に変える。
◆ショールームは本社だけではなく、国内3支店、海外3支店にも展開する。
◆関連グッズや附帯施設での売上も見込む。
◆プロジェクトの責任者は副社長だけど、実質は佐倉さん、私たちの役割は、夕奈が外向けの展開や情報発信を、私はどんなショールームにするのかを考える(内側)を担当する。 他2名は海外支店での窓口担当で現地に駐在の若手外国人。
◆来年夏には改築に着手できるように、冬には国内外で同時にオープンが目標。
午前の時もそうだったけど、佐倉さんの 丁寧で ゆっくりとした、それであって強弱と抑揚をつけたテンポのある説明は、おおげさかもしれないけれど、私たちに時間が経つのを忘れさせてしまうくらいだった。
そのことは、ひと通りの業務説明が終わって、一旦 休憩となった時に16Fのパウダールームで夕奈も同じことを言っていた。
ただ佐倉さんの説明はそれで良いとしても、肝心なその内容は、圧し掛かるボリュームのある仕事であることがわかっただけで、実は私はまだはっきりと自分事のような気がしていないのが本音で、戸惑いや狼狽えすらも浮かばないくらいに、頭も体も気持ちもフワ~っとしている感覚だった。
「私、会社辞めなくてよかったよ~ 」
「やっと天職に巡り合えた感じかな 」
「がんばるしかないねー 」
立て続けにポジティブな言葉を連発する夕奈は、私とは全然違っていた。 目を輝かせて、前向きに捉え、意気込んでいるのは明らかだったから。
こういう人こそ、このプロジェクトが求めていた人だ。 なのに、どうして私なんかが? そう思ってしまうくらい、モチベーションの差がありすぎる。
そんな夕奈に、とりあえず私は「そうよねー」と、口元に笑みを作って返しながら、スマホを見るとLINE着信が。 大樹からだ!
こんな時に大樹が登場してくれると、意外に嬉しいというか、安心するというか、なんとなく今の私の この場を和ませてくれたのは確かだ。
送受信のタイミングも良くて、もしかして私の気持ちが彼に伝わっているのかな? そんな都合の良い 有り得ない おバカなことを思うだけでも、ますます和んでしまう単純な私。
「日曜日は水族館! イルカショー 見まショー」 メッセージとスタンプで。
せっかく大樹のLINEに気がついたことで和み 気持ちが温かくなっていたのに、彼らしいダジャレのメッセージで冷気を感じてしまった。
(これでプラマイゼロになっちゃった!)
私は 訳のわからない算数を思い浮かべながら、それでもやっぱり嬉しくて「OK」のスタンプを返すしかなかった。
それにしても、今日は私的には激動の長い一日だ。 でも、それもあと少し。
もう一度、気持ちを切り替えて、私なりに頑張ろう、仕方がない。
休憩直後に1605室に入ってきた情報システム部門の担当の人から、この部屋のカードキーと業務用スマホ、そして軽量薄型のノートPCとポケットサイズのWi-fiが夕奈と私 それぞれに手渡され、そのまま起動の確認やパスワードの設定をした。
そして…… ふたたび 佐倉さんからの説明が始まる。
どちらかというと 対外担当の夕奈の領域に近い内容だったので、私は気を抜いているわけではないけれど、やっぱり少しでも気楽にはなる。
俄然 張り切る夕奈の隣で、そんな私を悟られないように、淀みがなくて理解がしやすい佐倉さんの説明を、それなりに聞いて 配布されたノートPCのキーを叩く。
何気に彼女を見ると、丸みのあるシルエットに どこか上品さが感じられるショートヘアの似合う佐倉さんは、実身長はおそらく私とほとんど違わないはず。
それでもスタイリッシュなパンツスーツや履いているヒールの高さ、凛とした立居や姿勢は彼女の存在を大きく見せて、そして彼女から発せられる耳触りの良い声だけではなく、両手や指先までも上手く使って、聴覚と視覚に興味を惹きつけていくプレゼン手法はとても魅力的だ。
そんなふうに佐倉さんを好意的に見ることができるということは、もう嫌悪感とか、近づきたくないとか、苦手意識とか、そんな感情は消え去ったということ、ま、でも、これからは同じチームになったわけだし、実質は私と夕奈の上司にあたる人だ。
(たしかに、女性が憧れる女性って、佐倉さんみたいな人のことなんだろうなー)
今、私は人間観察ができるくらいに気持ちに余裕があった。 あった?
(えっ?)
やばッ 不意に? 佐倉さんと目が合ってしまった。 しっかりとガッツリと。
鋭くて何かを射抜くような視線、それでも淡々と説明をしながら 忙しなく動く口元は、薄ら笑みさえ浮かべているかのよう。
私は、油断していたこともあって、ビックリと同時に ドキッとして、急に脈が速くなってくるのが自分でもわかるくらいになっている。
(やばっ)(どうして?)(やばいよ)(どうする?)
これって…… 以前も感じた彼女に対する変な感覚が、お腹の真ん中あたりから滲み出してくるような気がして、急に私の気持ちは困惑し錯綜し始めた。
(ヤバい ヤバいよー)
なんとか私は視線を外して、PCに目を落とし、キーボードを叩く。 そして今、佐倉さんが説明している内容を全力で巻き戻し、整理をし直して、無理にでも頭を切り替えると、さりげなく静かに息を吐いた。 ヨシッ! これでなんとか滲み出ようとする感情は制御できた。
(余計なことを考えずに、仕事に集中しなさい!)
まるで佐倉さんに言われているような気がして、一瞬 気持ちがシュンとなってしまった自分を笑ってしまった。
まだまだ続く佐倉さんからの話、だんだんと私たちに向けた、より具体的な部分へと進む。
◆毎週金曜日午後に1605室で集まって、情報を共有するミーティングがある
◆業務の基本はフルリモート、金曜日以外は、時間も場所もフリー
◆パスポートの確認と準備 (特に夕奈は近く海外出張があるらしい)
◆社外やマネジメントとの接点が多くなるために、スーツで出勤が必須
◆制服は総務に返却 尚、3F更衣室のロッカーはそのまま使用可能
◆他業種や異業種との打ち合わせはもちろん、食事会やパーティへの出席もある
◆早速、来週の金曜日にローカルFM局のスタッフと懇親会がある。
◆日常会話程度、プラス ビジネス英語の能力を身に着けること
◆その他、私たちの処遇や経費の処理の仕方、出張に関係すること など
私個人には、
◆全国規模であらゆる業種業界のショールームを観察して特徴をまとめる
午後からの私は、開き直って というか、決心して気持ちを切り替えて、これからの私に課せられる役割を受け入れようとポジティブに話を聞いていた。
もちろん不安は大きくて、だけど もう決めたこと、あとには引けない。
そんな不安だけではなくて、現実的に焦りが生じてしまうことが、この時間の佐倉さんからの説明で明らかになった
正直、ミーティングやリモートワークとか、他業種とか、そして処遇とか、そのあたりは全くと言って良いほど気にならなかったのだけど……
スーツで出勤が必須、ということは 少なくとも金曜日の出勤時の着用はマスト、そのほかにも食事会やパーティへの出席、社外の人たちとの打ち合わせもある。
普段の私はわりとカジュアルなルックスで会社通勤をしているだけに、スーツに限定されると、正直 どうしよう~ という気持ちになる。
外見で仕事の良し悪しが、というわけではないし、スーツだって自宅にないわけではない、だけど佐倉さんや夕奈をイメージすると、この際、しっかりとした良いものを数着新調するしかないなー と。
そうなってくると、仕上がりまで何日かかるの? 来週の金曜日の出勤に間に合うの? どこで買おうかな? とにかく、明日土曜日は百貨店やスーツ専門店を巡るしかない。
私は頭の中をグルグル回しながらも、焦る気持ちを抑えるようにした。
そして、もうひとつある…… そう、それは英語のこと。
受付に入っていた時にも外国人の来客がないわけではなかった。 そんな時はペアになった夕菜や後輩が積極的に応対をしてくれて、正直、私は彼女らにまかせっきりだった。
特に夕奈は、英文科出でスキルも高い、しかも海外旅行が大好きで、外国にも 外国人にも慣れているし、普通の会話くらいなら大丈夫!とは、彼女自身の言葉だ。
佐倉さんからは英語力を身に着けるようにと言われたこと、もちろん大事なことだとは理解している、だけど大変だ という認識もある。
ただ問題はそれだけではなくて、むしろそれ以上に私を悩ませていること。 それは日曜日の15時からのビジネス英語教室と19時からの英会話スクール、それぞれの受講をすすめられたことだ。
早速、明後日からの出席も可能だから、と言われ、費用も会社負担となっている。 佐倉さんからは「できるだけ」とか、「もし良かったら」と言われたものの、抗えない圧をビンビンに感じてしまう。
どうしよう、どうしたら? と悩んでいる私の横で、得意気というか満足気な表情を浮かべている夕奈は、当然と言わんばかりに 早速スマホから出席の手続きをすすめていた。
そして私も、その勢いに飲まれてしまい、いつのまにか? 仕方なく? スマホ画面に表示された出席のタブを ためらいながらもタップしてしまった。
日曜日は大樹とのデート、もちろん それはわかっている、だけど今の雰囲気の中でそんなことを持ち出すのはどうにも憚られてしまう。
大樹には、このことを正直に話して、早めに切り上げてもらうしかない。 ううん、このことだけではなくて、プロジェクトのことも、これからのことも、もう一度 話しておかないと。
「おつかれさまー 今日はこれで終わり じゃぁ また来週、ココで 」
ニッコリ笑みを浮かべた佐倉さんは、副社長室に行くからとモニターをOFFにし、ササっと机上を片付けて、PCを小脇に颯爽と姿勢良く会議室を後にした。
彼女の その決して忙しなくない、自然で流れるようなスマートな一連の所作に、ついつい見とれてしまっていたのは、私だけではなく夕奈も同じ。 何にせよカッコ良すぎる。
(とにかく終わった~!)
私は席からそのまま立ち上がって背伸びをして、まずは深呼吸。
その時、微かにフワァ~っと佐倉さんの残り香が私の鼻についた。 でも佐倉さんの存在は、今 あまりにも近づきすぎたために、以前のような よくわからない変な感覚を抱くことはない。
それでも やっぱり、微妙に どこか何か違った意識をしてしまう香りには違いない。 夕奈はその微香に気がついていないみたい。
ふと視線を移すと窓の外は夕暮れていて、私は思わず窓際に近づいてみる。 ここにきて、ドッと疲労感に全身が包まれた。
それでも雨上がりというのもあってか、目に映る濃いオレンジ色の景色が本当に鮮やかで、満杯になっている頭の中を、ほんの少しだけ解してくれる気がした。
「なんか、すごいことになったねー 」
疲れ切った私は窓際で景色を眺めながら口を開く。
「うん 大変。 でもこういう仕事がしたかったんだよねー 」
まだ座ったままでPC画面を睨んでいる夕奈は、疲れを全く感じさせないくらいの活きた声。
残ったペットボトルのお茶を飲みながら、夕奈とこれからのことについて まったりとリラックスして語り合いが始まった。
夕奈は、自分が選ばれ 認められたことが とても嬉しかったと言った。 それは隣に座っていた私にもその熱が伝わってきていたくらい。
そして待遇のことも嬉しかったみたい。 週明けからは、田中副社長はプロジェクト担当、佐倉さんは室長、そして私たちには室長補佐の肩書となり相応の手当ても付いてくることになる。
もちろんお給料に繋がることだから悪い話ではない、だけどやっぱり…… というか ますます私は戸惑いのほうが強くなってしまう。
「どうして私なんかが?」とか、「絶対に無理よ!」 とか、今更だけど 私はネガティブワードを小出しにする。
「そんなのすぐに慣れちゃうよー」 「できなくて 当たり前なんだし」「楽しめばいいよ」 夕奈は簡単に私のワードを一掃する。
社交性があって語学力があってフットワークも軽くて、なによりもモチベーションの高い彼女と私は正反対だ。
私は私で、さっき開き直ったのに、決心したのに、ようやく割り切ることができたのに、再び ウジウジして、本当に諦めが悪すぎる。
夕奈は こうしよう、こうしたい、私は どうしよう、どうすれば? という話をしているうちに、気がつくともうこんな時間。 え?もう9時前? いつもなら家でまったりしている時間だ。
「とにかく がんばるしかないねっ 」 と夕奈が明るく会話を閉めて席を立つ。
「うん まっ がんばろっか 」 結局、諦めて切り替えた私も笑顔で会議室を出た。
急ぎ帰り支度をして従業員出口から本社ビルを出て、駅に向かう途中にある24時間営業のクリーニング屋さんに制服を持ち込んだ。
コツコツと隣を歩く夕奈のヒールが奏でる音さえも、私は小さな圧を感じる。
(来週からは私もこの音を出さないといけないのかー)
そう思うと、やっぱり面倒臭いし、今 履いているローファーに愛おしさを感じてしまう。 ということは、まだ私はネガティブということ? 揺れすぎだしブレすぎだよね。 あぁ、夕奈が羨ましい。
「晩ごはん、一緒にどう? 」 と夕奈に誘われた。
「ごめん、もう用意してあると思うし 」
金曜日の夜、いつもならYesと返してお店に直行するのだけど、さすがに今日は、疲れもあるし、なによりもテンションの高すぎる彼女と、とことん最後まで一緒にいることに、正直ためらいもあった。 どうせ また仕事の話になる? そんな気もしたし。
「あと、やっぱり疲れ果ててしまった~ ごめ~ん 」 私は苦笑いを浮かべると、
「そりゃそうよねー んじゃぁ、日曜日! 来るよね? おつかれさーん 」
まだまだ元気な夕奈と別れると、ここから一気に私は疲労感と空腹感に襲われながら、何とか家にたどり着いた。
途中、電車の中で寝落ちしそうになって、気がつき慌てて下車したというプチエピソードも付いて。
…… 虚ろな目をして電車のシートに座っていた時、なにげに頭を過ったのは、さっきのクリーニング屋さんのこと。
24時間営業なのは、利用する側からすると便利だとか、駅の近くだから あらゆる業種や年齢層にも対応できるとか、でも運営のコストは? とか、こんなこと今まで一度も考えたことはなかったのに。
こんな思考になっている自分って、ものすごく単純すぎて可笑しくて、それで気分まで良くなって、ついウトウトしてしまった、ということだ。
「遅かったねー 会ってた? 」 となんとなくだけど、嬉しそうな?母に聞かれたから
「仕事―残業―! なんか大きなプロジェクトチームに入らされたよー 」
いちいち説明をするのも面倒だし、返事はそれくらいにして、それよりも早くおなかを満たしたかった。 とにかく何かを胃の中に入れるのが先。
プロジェクトの話をしたところで母もわからないであろう。 それに、あの1年という期間だけが母の頭の中で独り歩きをして、また結婚云々に結び付けられてしまうリスクもあったから。
私はすぐに今日の天気とか違う話題にすり替えて、ガツガツと晩ごはんを頬張った。 案の定、母から仕事について聞かれることはなかった、まっ 想定内だ。
お風呂から出て自分の部屋に入るころには足元さえおぼつかない感じに。
目はトロトロで、なんとか髪を乾かし、大樹に「おやすみ」のメッセージだけを送信すると、もうベッドに横たわるしかなかった。 身も心も本当に疲れた、今日くらいはストレッチをサボっても誰にも文句は言われないよね。
また明日に備えなきゃ。
でも、ここにきて水族館ことも気になる。
とりあえず明日、明日 彼に話そう。 今日は寝させてー! 眠い!
私の長い長い激動の一日が終わった☆
おつかれさまー
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