24.出航

 シーラはやや後方に戻ると、しかしまだ船首寄りの場所で足を止めた。

 シーラの前には、子どもの胴体くらいの太さをした金属の円柱がある。


 そこにシーラは左手を置いたのだ。


 改めに際して役人たちがこの円柱について何の指摘もしなかったのは、何をどう見てもただの金属柱で、マストから伸びたロープが一本、ゆるく回されていたからには、これは帆を張るためにここに建っていると考えたからである。

 それに船上ではこうした柱のようなものは、よく散見されるものだった。



 だからまさか。




「みんな、揺らさないから、怖がることはないけれど。勝手に落ちた人は知らないからね!助けてあげないんだからね!」 



 シーラからの突き放した注意喚起が終わると、急に全員の足元に小さな振動が伝わった。


 ぐぐぐ。ぐりゅん、ぐりゅん。


 船底に設置されていたスクリューが回り始めたのだと、誰もが気付く。




 まもなく、船はゆっくりと後退し、岸壁から離れ始めた。


 また岸側で「おぉ」という歓声が発せられ、守り人と警備兵たちは共に感動を共有しようと、会話に賑わっている。

 彼らはもう怖いものを忘れたのだろう。

 いや、その怖いものが離れていくことに、こんなにも喜んでいるのかもしれない。

 その恐ろしいものは、すぐに帰ってくるというのに。


 一方船上は感嘆を忘れ、緊張感に包まれていた。

 揺れない。揺れないから、足場を固める心配も手摺りに掴まる焦りもないが、それでも陸から離れたことが言い知れぬ不安を誘う。



「帆は張らないのか?」


 役人の一人が、独り言かも分からず呟く。


「まだ帆は早いんだ!もう少し待っていて!」


 叫ぶように声を張り上げなければ伝わらない距離にいて、どうしてシーラには皆の声が届くのだろう。

 彼の側にある同僚でさえ、彼の声は聞こえていなかった。

 当然、シーラの最も近くにあったイルハにも聞こえていなかったため、イルハはシーラの大声が誰に対してのものか、役人らの反応を見て判断するしかない。

 当の役人はここで下手なことは言えないと悟ったのか、手で口を押えていた。




 岸壁から十分な距離を取ったところで、船は進行方向を改める。

 シーラは立った状態でその場を動いておらず、相変わらず金属柱に左手を添えていた。



 船首側が先頭に変わると、次第にスピードが増していく。



 この日は比較的穏やかな波であったし、堤防の内側だからそう大きな波が立つことを懸念する必要はないのだが。

 試乗には持って来いの日和とは言えよう。



 それにしては……



 イルハは理由を考え、リタは只管に感動していた。

 スクリューの振動が確実に足から伝わる環境で、海らしい揺れを感知することがない。

 これで酔えという方が無理な話。



 それでも船は静かに静かに、そのスピードを上げていく。

 ついに頬に当たる風が、心地好いところから、目を細めるくらいに変わった。




 それは突然だった。

 シーラが空いていた右手を高く上げたのだ。そして同時に叫ぶ。


「みんな、少しの間動かないでいて!一歩もだよ!」


 一同は言われた通り、その場で固まり、これから起こるであろう分からぬことに身構えた。





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