2.苗字

 眠い。とにかく眠い。

 昼食を食べた直後の五時限目、しかも科目が現代文ともなれば、この生理的欲求もいたしかたない。


「次、吉沢」


 担当の館山先生に名指された生徒が、文章の該当箇所を棒読みするのが微かに聞こえる。席順で進行しているから、わたしの番はまだまだ先だ。

 順番が来ないでほしい。いやむしろ、読むだけ読んで、さっさと甘やかな睡眠に専念したい。

 際限ない欲と戦っているうちに、音読はかなり進んでいた。えっと、今どこまで来たんだっけ。ああ、ここか。


「次、居田。文章読んで」


 おぼろな意識で、"いだ"という音を耳にしながら、文を読み始めた生徒を確認する。

 あっ。

 誰かと思えば、昨日バッタリ会ったひとだ。


「……『老人が席を外しているあいだ、私はまた絵はがきを漁った。しかし』……」


 歪むことのない静かな声が、すらすらと流れていく。なんというか、安眠導入に最適な波長だった。けれどわたしは、奇妙な符合に驚いてすっかり目が覚めてしまっていた。

 よくよく考えれば、あのひと……居田さんが同じクラスの生徒であろうことはまったく想像にかたくない。いやはや、自分がこれほど他人に無関心だったとは。さみしがりが聞いてあきれるものだ。

 いったん注目してしまうと、なかなか視線を離せない。とはいえ、居田さんは背筋を伸ばして座っていて、先生の板書に合わせてときどきノートを取るくらい。面白みは皆無だ。


「……谷。おーい、刈谷かりや


 先生ののんびりした声が、誰かを呼んでいる……って、わたしだ!


「は、はいっ」


 慌てて教科書を手に持ったものの、どこまで文章が読まれていたか、さっぱり分からない。追跡失敗である。


「四十二ページの四行目だぞ」


 ほかならぬ先生が助け舟を出してくれた。優しさが身に沁みる。

 小さくお礼をして、わたしは当てはまる部分をそそくさと読んだ。


「……『たぶん、そちらのほうがあなたの捜しものに近いはずだから。』」


 なんということはない。すぐに音読は終わった。

 ほっと息をつく。まさか睡魔ではなく、クラスメイトに見惚れて内容を忘れるとは。

 反省するべくもない反省をしていたら、居田さんがこちらを向いているのに気が付いた。でもそれは一瞬のことで、すぐに彼女の頭は黒板に戻ってしまった。

 なぜだか目をつけられている、ように思う。ついさっき同じことをしていた自分が言うのもおかしな話だけれど。

 考えていても謎が解決することはなく。

 秋の終わりにしては朗らかな陽気のもと、授業はもう少し続いていく。

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