いもうとの目がしんでる

人生

プロローグ

 怪奇!幼女を見た!!




 ある日、和庭わば貴緒たかおに妹が出来た。

 いつもと変わらない、ごくありふれた休日の出来事だった。



 それは突然やってきた。



 ピンポーン――と。



「はーい」


 場所はマンションの一室、日曜の昼下がりのことである。


 玄関から聞こえたインターホンに反射的に答えながら、和庭貴緒はソファから腰を上げた。

 直前まで観ていたテレビを振り返りつつ、玄関へ向かう。そんな風に気もそぞろだったからか、相手を確かめもせずにドアを開いていた。


 マンションの通路に、知らない女性が立っている。

 キャリーケースを手にした、若い女性である。


 男子高校生の平均的な身長をしている貴緒よりも背が低く、全体的に小柄だ。ともすれば中高生くらいに見えるものの、醸し出す雰囲気は「少女」よりも「女性」が適切だろう。丸みを帯びた顔に大きな眼鏡をかけていて、ふんわりとまとまった黒髪のセミロングがよく似合っている。「美人」よりは「可愛い」が似合う、そんな若い女性が申し訳なさそうな表情を浮かべ、貴緒を見つめていた。


 えっと……。声にならないつぶやきをもらしながら、貴緒は気圧されるように一歩、家の中へと後ずさる。てっきり宅配か何かだろうと思っていたのだが――どちら様だろう。部屋をお間違えではあるまいか? 思うことはいろいろあるが、喉が詰まったように言葉が出ない。


 人付き合いは出来る方だと自負しているが、初対面に加え不意打ちのこの状況にはさすがに思考がフリーズ。しばし謎の女性と見つめ合う。


 休日めったに外出しない父親が、珍しく出かけていった。ついさっきのことだ。なので、家の中には他に誰もいない。母親はずいぶん昔に亡くなった。自分が応対しなければ。しかしこういう時、どうすればいいのか。とっさには浮かばず、沈黙が長引くほどに喉の奥が干上がっていく。


「えっと……、」


 と、先に口を開いたのは女性のほう。


「和庭……貴緒くん、だよね?」


 名前を知られている。誰だろう。ここ最近の出来事を軽く振り返ってみるが、これといって変わったことはない。誰かが訪ねて来るような覚えは皆無。

 疑問や警戒心よりも漠然とした不安が立ち上ってくる、と――


孝広たかひろさん――お父さんから、話は……?」


「?」


 とりあえず、首を横に振る。「孝広」というのは貴緒の父の名前だが、その父はついさっき珍しくもどこかに、


(あ、そうか。入れ違いにでもなったのか――)


 ふと、閃いた。

 以前、父が「交際している女性がいる」と報告してきた。再婚も考えている、と珍しく真剣な親子のトーク。ずいぶん前のことで忘れていたが、なるほどそうか、この人が。我ながら名推理。貴緒の緊張も氷解するが、別の懸念から言葉を濁す。


「親父なら――」


 ここは「父さん」とか「パパ」と呼んで、育ちの良さをアピールするべきかと父親を気遣うのだが、


「おーい、道ふさいでないでこっち手伝え、タカオ」


 と、女性の横合いから声がかかった。玄関から顔を出してそちらを見れば、大荷物を抱えていて顔は窺えないが、貴緒の父・孝広である。腕に袋を下げながら段ボールを抱えつつ、通路を歩いてくる。


 事情はいまいち飲み込めないが――とにかく、言われた通り貴緒は謎の女性に道を開けた。玄関のドアを身体で押さえつつ道を譲ると、彼女は「おじゃまします」と小さく頭を下げて足を踏み出した。なんとなく直視できず、なんとなく視線を上に向ける。女性が横を抜ける時、香水か何かの良い匂いがした。

 視界の隅を黒い影がよぎった気がしたものの、貴緒は家の中を振り返るより先に父親に向き直る。事情を問いただす。


「……何ごと?」


 一応、推測は出来る。父親の交際女性が家に来たのだ。それはまだ分かる。何やら大荷物を持っている。まあ、分からないでもない。問題は、父親から何も聞いていないことである。


「あれだよ、あれ」


 孝広は荷物を抱えているからか適当に、


「突然の方が自然体ありのままの我が家を見せれるだろ? んで、今日から一緒にここに住むから。お前ちょっと下の車から荷物持ってきて。カギ、父さんのポケット」


 と、要領を得ない返事をしながら、ズボンの尻ポケットのカギを示す。キーホルダーの鈴が鳴る。両手が塞がっている父親からそれを回収する。父はそのままうめき声をあげながら家の中に荷物を運んで行った。


「…………」


 車のカギを見下ろす。家のカギもついている。それ自体は別にどうでもいい。他に目のやり場がなかったというか、ともかく落ち着いて状況を把握したかった。


「……いや、確かに交際してる件については了解したけども。うーん……」


 多少、というかけっこう煮え切らないのだが……。


 突然のことに、まだ心が追い付いていない。変に心拍数が上がっている。とりあえず、まずはやるべきことを終えて落ち着いて、それからちゃんと話を聞こう。


 地上三階の通路から駐車場を見下ろせば、父の車が見える。後部のハッチドアが開けっぱなしだ。だからというわけではないが、足早に通路を進み階段を駆け下りて駐車場へ向かった。


 荷物は大きな段ボール箱だった。抱えると、けっこう重量がある。車から降ろし、ドアを閉めてカギをかける。それから気合を入れて荷物を持ち上げると、そのまま一気に来た道を駆け戻った。


(明日、筋肉痛になるかもな……俺も親父も)


 気分的には一瞬で駆け上がってきたが、家の前までくる頃には腕も脚もぱんぱんに張っている感じがした。心拍数は上がり続ける一方だが、しかし今はどうでもいい。

 苦労しながらドアを開けて家に上がる。荷物で足元が見えない。サンダルを脱いで、運んだきた荷物を廊下に積まれている段ボール箱の横に置いて、やっと一息。


 奥からは点けっぱなしのテレビの音声と、孝広たちの話し声が聞こえている。


自然体ありのままの我が家は人様に見せてもなんら恥ずかしいところはないが、)


 さすがにちょっと、個人的には心の準備が必要だ。

 寝ぐせなどなかっただろうかと、今さら髪を整えたりしながら、玄関から入って右手にある洗面所兼トイレのドアに手をかけた。毛先をいじりつつ、ドアを開く。



 ――女の子がいた。



 幼女だった。


 お人形のよう、というのが第一の印象。この近所ではまるで見かけない格好で、さながら海外からやってきたお嬢様、あるいは絵本の世界から飛び出してきたお姫様――小さな体に大人びたブラウス、スカート、黒いケープを羽織っている。

 お洒落な黒いてるてる坊主。それがふと浮かんだイメージ。どれも派手さはないが可憐な刺繍に彩られ、まさにお人形の衣装ともいうべき服に身を包んでいる。

 黒髪は腰まで届きそうなくらい長く、前髪も桜色の頬に触れるほどで、顔の傾きのせいなのか、片目が薄絹の向こうに隠れている。

 じっと、大きな両目が貴緒を見つめていた。


「――――」


 ――驚きには、二種類あると思う。あまりの驚きで思考が停止し、完全に硬直して何も出来なくなってしまう場合、と――



「うわあぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――っっっ!?」



 堰を切ったように、驚きが悲鳴となって部屋中に響き渡った。


 マジでビビったのである。

 認識、その直後に絶叫。腰が抜けて倒れるように座り込み、そして息が切れて声が途切れると、代わりに膝が笑い出す。総毛立って歯の根が合わない――そこまでの衝撃は初めてだった。

 まるで死体か幽霊でも目撃したかのような恐怖体験だったのである。


 しかし、実際そこにいたのは、


 我が家のトイレに、知らない幼女がいる!


 どうしたどうした何ごとだ、とバタバタやってくる父親とその彼女にも構わず、尻餅をついたまますっかり腰の抜けてしまった貴緒は、ただただ呆然と目の前の幼女を見上げていた。


 開いた口が塞がらない。


 幼女はこちらを見つめている。

 その目は大きく見開かれているが、責めるでもない、咎めるでもない。まして驚くでもない――黒々とした瞳は果てのない暗黒宇宙だ。ハイライトすら呑み込むブラックホールは一切の感情を窺わせない、虚無を閉じ込めたガラス玉。

 見るものを、見つめられる側をただただ圧倒する、心をざわつかせる――そんな目の前で、貴緒はつぶれたカエルのようにうめくしかなかった。


(目……目が、しんでる……)


 そして、幼女は静かにパンツをはいたのである。


 

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