掌篇 覚えたての恋の美しさ

月の出ない夜に歩く人

覚えたての恋の美しさ

 女の喘ぎ声を聞いても胸の内側に少しの情動も沸いてこなかった。

 腰を動かすと女は苦しそうな吐息を漏らしつつ、僕の名前をしきりに呼んだ。透という呼び捨ての名前がうわずって、どういうわけか「フォニィ、フォニィ」と聞こえた。

 暴れる彼女に抱き寄せられ耳元に彼女の息を感じながら無感動に動き続けた。

 快感が下から上へこみ上げてくるのがわかった。マットのスプリングが不規則な音をたてる。いつ聞いても不快な音がどうでもいいことのように思えた。

 腹の中を真綿で撫でられるような感覚があった。ざらざらとした、快か不快かも判然としないあいまいな感覚が全身を襲う。やがて僕の体からどろりとしたものが溢れた。


 ベッドの上で乱れた呼吸が再び元通りになるのを待ってから、女は私のことは好きかと訊いた。これまで幾度となく繰り返された質問に対して、僕は答えを一つしか持たなかった。

 僕の答えを聞くと、女は嬉しそうにしていた。


  *


 死んでいないことと生きていることは違うのだと、はじめて理解したのは小学五年生の頃だった。まだ都心部の地下鉄を襲った無差別殺人事件が人々の記憶に新しく、世間がひどく混乱していた時勢だった。


 テレビ番組のコメンテーターはたびたび『犯罪の凶悪化』『低年齢化』『混沌』という語彙を使っていた。それを見て(あるいは耳にして)、世間が新しい時代の幕開けを『混沌』という単純な言葉で形容することの歪さを幼いながらに思った。

 大人による言い訳めいた言葉はどの世代に責任をなすりつけるかを議論しているようにしか思えなかった。幼い頃はそれが大人たちの見え透いた邪悪さを垣間見たような気がしたのだった。


 それからしばらくして、遠い地方に済む同じ学年の小学生が同級生を殺害したというニュースを見た。そのとき僕は事件を他人事とは思えなかった。

 たぶん僕は人殺しはしないけれど、それでもいま見ている世界に不安を感じ、憤り、ずっと消化しきれない感情を抱えているという自覚があった。


 感情は自分のなかで静かに燃えるように思えた。

 それは漠然とした先行きの見えなさだった。あるいは生きることへの不快と言ってもいいかもしれない。

 生きているだけで思い悩むなら、いっそ死んだ方がマシだと思った。抱えきれないほどの苦痛を、取りこぼしながらも抱え続けて生きることに意味などないように思えた。

 そのことを母に話すと、母はただ生きているから生きるのだ、と言った。


 母の言った言葉を憎く思った。それからまた、友人を殺害したという同い年の子どものことを考えた。


 それで報われる感情があるようには思えなかったが、大人たちの言うほど奇妙なことだとは思わなかった。

 友人を殺そうと思ったことはないけれど、それが特別に、特殊なことだとは僕は思えなかった。


  *


 人間同士の関係はいつでも特殊で、普遍的な関係性など何もないということを僕は事件から八年も経過した頃にようやく理解した。同時に、対人関係のなかで学んだことの多くが、後に何にもならないということを知った。

 多くの人にとって、その何にもならない経験ほど大切なものはないということもわかった。


  *


 僕は母との関係の悪化の最中にそうした一種の思い入れ深い屈託を消化していった。

 幼い頃にわからなかったことを少しずつ自分のものにしていくことは大きな絶望をともなったが、このとき感じた絶望を僕はいまだに忘れられずにいる。


  *


 鬱屈した精神が醸成されるのは無理もない話だということを僕は人よりも遅く理解したのだと思う。生きる意味を持たず、生きているという実感の湧かない生活を、世間では普通の生活と呼んでいる。ただそれだけだった。


  *


 考えることが億劫だと言った人をこれまで何人見ただろう。惰性でしか生きようとしない人に何人出会ったのだろう。


  *


 子どもの頃、大人たちは必死になって、世界は美しく平和で素晴らしいと言い聞かせてきた。

 けれど、あの言葉の一つ一つに垣間見えた偽物っぽさの理由をいまなら少しは理解できるように思う。


 女に対して言った言葉も、予定された調和を保つための茶番劇に過ぎなかった。

 つまるところ偽物なのだ。


  *


 予定調和を乱さないことだけが、生きるうえで大切なことなのだと世間では信じられているらしかった。


  *


 はじめの頃はわざと偽を振る舞うというのが受け入れられなかった。


 人と人とが何らかの関係を結ぶことに興味を失ってからは何も思わなくなった。畢竟人間は、人生という舞台で与えられた役を演じるだけの存在なのである。

 そう割り切ってしまえば、なんてことはなかった。


  *


 これまでの人生も、世界もくだらないものの連続で出来ていると知った。


 大学を卒業しても就職先を決めなかったのは、くだらない世界に対する抵抗だったのかも知れない。

 いわゆる敷かれたレールを避けるためではなかったが、結果として同じことだった。


  *


「梨穂子さん、怒ってたぞ。『ホテルに置いていくなんてあり得ない』って」

 まだ夏の名残りのある目黒川沿いのテラス席で友人が言った。友人の言う『梨穂子さん』というのはこの間まで僕が付き合っていたの女の名前だった。

 友人とは大学時代からの付き合いだった。高浜睦十という名前で、これまでの交際歴を互いに知っているくらいには仲が良く、卒業後もこうして時々会って話をする関係が続いている。

 大学の頃の知り合いでいまだに連絡を取るのは高浜くらいなものだった。

 彼は決して善人ではない。友人関係に種類があるとすれば、僕と彼は紛れもなく悪友というべき関係だった。


 彼のいうとおり、僕が梨穂子をホテルに置いていったのは事実だった。

「予定が詰まっていることは事前に伝えておいたんだ。時間がない、と何度も言った……それでも会いたいっていうから会いに行ったんだ。結局三回もするはめになって……。予定には間に合わないし、髪はボサボサなままだしで最悪だった」

 友人は飲み終わってしまったアイスコーヒーのグラスに残った氷を口に含み、それをかみ砕きながら「せっかく付き合ったんなら、大切にしてやれよ」と言った。

 取り澄ました調子が鼻についた。

「よく言うよ。お前、この間も女の子を泣かせたって?」

「あれは彼女が悪い」

 高浜は白い歯を見せた。悪びれない表情が彼に合っていた。それでかっこうがつくのだから始末に負えない。彼は背も高く、ハマるとまずい男性の典型のような顔をしている。

 僕はささやかな反撃を続けた。

「十代だって聞いたぞ」

「たしかに若かった」友人は物憂げな視線で遠くを見た。視線の先はいましがた店に入ってきた若い女性二人組のテーブルだ。「けど、さすがに十代ではない」

「いくつだったんだ?」

「二十歳になったばかりだった」

「屑だな。それで、お前は何歳になったんだ?」

「今年で二十八、君と同い年だ。俺が屑ならお前も屑だよ。なんだよ、ホテルに置いてくって。聞いたとき笑っちゃったじゃんか。梨穂子さん、すっごい怖い顔してたんだぞ」

 高浜を睨みつける梨穂子の顔は容易に想像できた。

 きっと彼女はほんとうに高浜を睨みつけていたのだろう。彼女からしてみれば、高浜睦十は僕と同じ人種のはずで、彼に笑われたことは彼女のプライドを傷つけたに違いない。

 自分は奔放な生活をするくせに、他人の奔放さを許容できない潔癖さが彼女にはあった。それ故に彼女自身が苦しめられているのは、いまに始まったことではなかった。


 友人が訊いた。

「本当に、別れるのか?」

「別れ話をしてきたのは向こうだけどね。正直にいえば、僕はもっと早く別れたかった」

「あんな美人と付き合って、別れるなんてね」

 友人は足を組み直した。

「美人でも不安定な相手は嫌だよ」

「不安定? 女はみんな不安定だろ? いつだって褒められたいし、他人の言った褒め言葉を信用しきれない。そういうものじゃないか」

「いつの時代の話してる?」

「変わらない人間の話だよ」

 会話はここで途切れた。

 僕はテーブルの上のコーヒーカップを手に持ち、中に入った黒い液体を飲んだ。

 入店時に注文したホットコーヒーはもう冷め切っていた。僕がちまちまと飲みながら、コーヒーカップの底が透けて見えるくらいの少量を残していたせいだった。

「沙希さんとは、最近どうなの」

「どうって?」友人は足を組み直した。「別にいつも通りだよ。時々通話するくらい」

「ふーん。旦那とは上手くいってんのかな」

「さあ? 俺に何も言ってこないってことは、上手くいってんだろ」

 友人はかみ砕く氷がなくなると、今度はストローをかみはじめた。

 それが精神的に不安定な人間の兆候であるという話で盛り上がったのはもう何年も前のことだ。


 店を出るとき、友人は熱いのか寒いのかわからない季節は苦手だと言った。そういって持っているコートを着ようとしないのが友人らしいと思った。


  *


 一日の気温が低くなるにつれて、街でカップルを見かけることが多くなった。

 肌を押しつけるような勢いで互いに触れ合い、二人だけの世界を作るところを見たら、普通は恥ずかしくなったり、人前でベタベタとすることに嫌悪を示したりするのかもしれない。けれど僕は胸の透く気持ちになった。幸せを見せつけるように歩く彼らを見て、幸せな気持ちになる人が増えるような気がするからだった。


 見せつける幸福があるうちはそれでよし、路上で喧嘩をはじめるようになったら別れたほうがいい。簡単なことじゃないか。そう思った。

 梨穂子との関係に亀裂が生じたのはいつだっただろう。

 少なくともこの数週間の出来事ではなかった。分かち合ったものの積み重ねが関係をより複雑にした。二人に関しては、それが関係を破壊する方向に働いただけのことだった。


  *


 昔を思い出そうとしても、よくわからなかった。

 最初から彼女のことが好きではなかったのではないかとさえ思えた。それくらい僕たちは相性が悪かったのだ。仲が良かったのなんて、最初の数ヶ月だけだった。

 それでも間違いなく僕はたしかに彼女のことを愛していた。


  *


 別れ話をするとき、彼女は僕にされて嫌だったことをいくつも上げた。

 僕は彼女の言葉に相槌を打ちながら、上げようと思えば切りがないものをわざわざ列挙することの意味を思った。


 思うだけ思い、考えあぐねたが、そのことを口には出さなかった。

 別れ話が早く終わったのはそのためだった。


  *


 僕たちの関係ははじめから壊れていたのだといまでは思う。

 僕たちは互いに別々の思想の元に、正反対の理想を押し付け合っていた。叶わないことだと知ると、今度は互いに罵り合った。


 そこに美しさはなかった。あるのは人間の醜悪さだけだった。僕も彼女も、恋愛関係という甘く美しい言葉の響きに引き寄せられただけだったのかもしれない。


  *


 日が落ちた後、渋谷の街並みはまるで愛し合う二人のために存在しているみたいに彩られていた。ネオンやホテルの看板照明だけじゃなく、オフィスビルの明かりも、交差点に灯る信号機さえも、愛し合う二人という役を引き立たせるための演出だった。


 二年間で色々なことがあった。幸福ばかりではなかった。恋愛とは元来、そういうものなのだ。


 もうすぐ冬が来る。ひとの冷めた肌の温もりを恋しく思った。

 いくら痛い目にあっても、恋い焦がれようとしてしまうのは、覚えたての恋の美しさというものをいつまでも忘れられないからなのだといまでは思う。


 了

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