64 アルバートの憂鬱②

 わたくしの身体は階段に投げ出され――、



「ロッティーっ!!」


 階下からわたくしの名を呼ぶ声が聞こえる。何度も聞いた安心する声……。


 ガクンと身体に衝撃が走った。わたくしの肉体は球のように弾かれて、次の瞬間、頭にバチリと星が走る。それから上から押し潰されたような重たい振動。胸を突く。そして誰かにがっしりと掴まれたような感覚。


「くっ……!」


 またもや衝撃。なにかにきつく身体を固定された状態のまま、わたくしは床に転がり込む。

 脳内にズンと鈍い音。



 制止。




 ――景色が真っ暗になった。






◇◇◇






「シャーロット……」


 もう何度目かも分からないため息を、僕は漏らす。学園での妹の事故を知らされてからずっと眉間に皺が寄りっぱなしで、こめかみが打撃されているようにズキズキと傷んだ。


「アル様……。きっとシャーロット様は大丈夫ですわ。医師も命に別状はないと言っておりましたし」と、隣にいる婚約者が震える僕の手を優しくさすってくれた。


「そうだね……」


 上の空で返事をしたものの、血を分けた大切な妹が階段から落ちてまだ意識が戻らないとなると、やはり気が気ではなく……。僕は暗澹たる気分で目の前の眠り姫をぼんやりと見つめていた。


「済まない……。僕がちゃんと彼女を受け止めきれなかったから……」


 ソファーの背にもたれかかるように力なく座っていたヘンリー第二王子殿下がポツリと呟いた。頭には痛々しく包帯が巻かれ、捻挫した手首を庇うようにダラリと腕を垂らしている。


「そんな……謝らないでください。むしろ、ヘンリー殿下が助けて下さったから妹は軽症で済んだのです。こちらこそ、王族の方に怪我をさせてしまって、なんとお詫びを申し上げたら良いか…………」




 妹は階段で足を滑らせて落下した。


 そのとき、階下にいたヘンリー第二王子殿下が受け止めてくれたのだ。殿下は妹と第一王子の騒ぎを耳にして、現場へ向かっている最中だったそうだ。


 お陰様で妹の怪我は強い打撲だけで済んだ。下手をすれば王族の婚約者どころか、どこにも嫁げないくらいの傷を負った可能性もあるところだった。ヘンリー殿下には感謝してもしきれない。


 しかし、殿下が受け止める直前に頭を打ったらしく、妹は未だに目が覚めないままだった。


 頭を強打したので、どうなるか分からない。医師は命には別状はないと言っていたが、いつ目覚めるか定かではないし、起きたら起きたで記憶状態に問題を抱えているのかもしれない。


 それ以前に、妹は本当に目覚めるのか…………。

 脳裏には最悪なことばかりが浮かんできて、僕の胸は酷く締め付けられた。





「まだ寝ているのか。この女は」


 にわかに、入口の扉から聞き覚えのある声がした。人を小馬鹿にしたような神経を逆撫でする不快な声だ。

 声の主を見やると――案の定、第一王子だった。


「……なにをしに来たのです、兄上!」


 僕が儀礼上の挨拶をする前に、弟であるヘンリー殿下が声を荒らげた。まるで親の仇のように、憎悪の燃える瞳で兄を睨め付けている。

 剣呑な空気が水をぶちまけたように一気に広がった。


 第一王子はそんな弟に対して冷笑を浮かべて、


「なにって、見舞いに決まっているだろう? 大事な婚約者が大怪我をしたからな」


「大事な婚約者だって!?」ヘンリー殿下は興奮した様子で立ち上がる。「誰のせいで彼女がこんな目に遭ったと思っているんだ! お前のせいだろっ!」


「転落したのはこの女の自業自得だろ」


「だからっ! お前が彼女を追い詰めたからだろうっ!!」


 ヘンリー殿下の身を切るような叫び声が部屋中に響いた。普段は優しさと高潔さが内包された澄み切った碧い瞳も今は血走って、激しい怒りで身体全体が打ち震えていた。


 僕は身じろぎ出来ずにこの嵐の前ぶれのような空間に身を任せる。

 なんだか全身が脱力していた。自分が第一王子に言おうとしたことをヘンリー殿下が代弁してくださって、逆に今は不思議と落ち着きを取り戻したみたいだ。


 第一王子はうんざりした様子でため息をついて、


「この女の婚約者は俺だ。部外者は黙ってろ」


 刺すような冷たい視線を弟に送る。


「つっ……!」


 ヘンリー殿下は、唇を噛み締めながら固く拳を握る。全身から怒りが湧き立って、少しの刺激で爆ぜそうだった。


 確かに第一王子の言う通り、今のヘンリー殿下は妹とは殆ど関係がない。せいぜい将来の義姉だ。

 第一王子のその歪んだ正論が殿下を大変苦しめているようで、妹との事情を知っている僕もズキリと胸が痛んだ。


「殿下、腕が……」


 居た堪れなくなって、思わず声を掛けた。殿下の捻挫した手が酷く震えていて顔を強張らせていたからだ。

 妹と比べて軽症とはいえ、殿下もかなりの衝撃を負ったはずだ。本来ならば安静にしていないといけない身体なのだ。


「どうか、お掛けください。殿下もまだお身体が宜しくないのでしょう」


「あ、あぁ……。悪い……」


 ヘンリー殿下は吸い込まれるようにストンとソファーに座った。

 ふらつく身体を我慢して兄君と対峙したのだろう。青白い顔をして額から汗の粒が滲んでいるのを離れた場所からでも目視できた。


「……なんで、そんなに平気な顔をしているんだ。婚約者が目覚めないのに…………」と、殿下が掠れた声でポツリと呟く。


「医師は問題ないと言っている。そのうち意識も取り戻すだろう」


 第一王子がため息混じりに冷淡に言い放つとヘンリー殿下は矢庭に気色ばんで、


「頭を打っているんだぞ! 仮に目覚めたとしても、どうなっているか分からないじゃないか。もし、彼女の記憶に支障が――」


「それこそ好都合じゃないか」


「「は……?」」


 第一王子の突拍子のない発言に、僕とヘンリー殿下の声が重なった。

 こいつは……婚約者が一大事なときに何をふざけたことを言っているんだ……?


「怪我の影響で記憶が曖昧なうちに、この女に誰が己のご主人様か躾直しておけよ。二度と今日のような真似を起こさせるな。兄貴だろ」


 第一王子の冷たい視線が今度は僕に落ちた。

 途端に、かっと身体の芯が燃えたぎる。


「兄上! 公爵令息になんてことを――」


「第一王子殿下」


 僕は無礼だと承知しつつも、ヘンリー殿下の声を遮った。

 そして眼前の甚だしく傲慢でいけすかない輩に向かって満面の笑みを浮かべて捲し立てる。


「仮にも将来のあなたの義兄になる可能性の高い男に、王族に対する不敬罪で投獄させたくなければ、すぐにお帰りいただけますか? 殿下自身も縁類に王族に暴行を働いた人間がいるとなると、面倒でしょう? それこそドゥ・ルイス公爵家に付け入れられる可能性が起こり得る」


「…………」


 一拍して第一王子は聞こえるように大きく舌打ちをしてから、侍従に指示を出す。すると、鉢植えの植物が三つ、ローテーブルの上に置かれた。


「見舞い品だ。ドゥ・ルイス家などに隙を見せるなよ」


 怒りの帯びた乱暴な足取りで出て行った。




「あいつ……なんて奴だ!」と、ヘンリー殿下が悪態をつく。


 婚約者のダイアナも「お見舞いの品に鉢だなんて……」と、不快そうに眉根を寄せていた。


「いや……一応は心配してくれているみたいだよ」と、僕は呆れたように苦笑いをする。


 第一王子からの贈り物はなんと、僕が求めていた毒草だったのだ。王子も妹の異変に気付いて、手配してくれたのだろう。

 妹に対する扱いは前回の人生を含めて絶対に許さないが、今回だけは感謝だ。


「アル様、そちらの植物はなんですの?」


「なんだか毒々しい見た目だな」


 ダイアナとヘンリー殿下が目をぱちくりしながらテーブルの上の植物を見る。


「あぁ、これは以前話した僕が第一王子から言われて研究していた植物だよ」




 妹の様子は心配で名残惜しいが、僕はやるべきことを始めた。

 有難いことにヘンリー殿下が数人の王宮の侍医を派遣してくれて、妹の側に二十四時間体制で看病してもらえることになったので、作業に没頭できた。



 それから三日後、ついに妹が目覚めたと知らせが来たのだ。

 

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