(6)蘇双の野望

 洞穴を出ると、日は中点を超えていた。

 ここから近隣の街までは一〇里(約四km)ほどでたどり着けるという。

 洞穴から出たときに、周辺の地図は渡されなかった。情報漏洩を防止するためだと理解するのに、張世平はさほど時間を要さなかった。だから街のある方角を、大ざっぱに教えてもらっただけだった。


 確かにその方向に少し歩くと、道に出た。人も、何人か行き来しており、更に行くと、田畑が広がっていた。

 のどかな風景だと、張世平は心底思った。思わず、あくびが出てしまうほどに、のどかだった。


「のどかな景色ですね、蘇双殿」

「だな。だがよ、張世平、農民の顔を見てみな」


 蘇双に言われてみると、思わず、眼を細めた。

 遠くの方で、役人が農民を暴行し、その果てに、食料を強奪していった。

 それを、遠目でしか自分達は見ることが出来なかった。いや、見て見ぬふりしか、出来ないのだ。

 力がない。そのことは、よく分かっていた。


「あれが今の世の中だ。確かに、太平道にすがる気持ちも分からないでもねぇさ」

「はい……」

「だがな、俺はそうはならねぇ。お前の評も聞いておきたいからな。宿に行くぞ」


 少し、蘇双が歩を早くした。自分もまた、それに合わせる。

 少しして街に入ると、蘇双はすぐに、宿を手配した。小さな何処にでもある平屋の宿だった。


 宿に入る直前に風が吹いた。突風だ。

 何かが起ころうとしている。張世平に、そんなことを予感させた。


 宿に入ると、客はまばらだった。しかし、何処かのどかな雰囲気が流れる、そんな宿だ。

 幸い部屋は二人部屋が空いていたので、そこを一室確保した。


 夜になってから、市場に買い物に行って、食事を買った。宿の方から食事は出ないので市場で買ってきて部屋の中で食べるか、ないしは街の食堂で食べてきてくれと言われたからだ。

 それに対し、宿で食べると、蘇双が所望した。蘇双は留守番をして金勘定を確認し、一方で自分が買い物に行く。時々これが逆になることもあるが、大概の場合は行くのは自分だった。

 もっとも、そうやって町中を歩いて行けば、何か面白い出会いがあるかと思うから、進んで引き受けているのもあった。


 饅頭をいくつかと肉の香草焼き、魚の蒸し焼きに水を買った。

 酒に関しては、蘇双はあまり飲まないので、いつも買わない。得てして、蘇双は水を所望していることが多かった。


 宿へと入る。

 少し買いすぎたかと思う反面、正直腹が減っている。

 考えてみれば三日も寝ていたのだ。それまで食事をしていなかったのだから、当然とも言えた。だからこんなに買いすぎてしまったのだと、張世平は自分で自分に言い聞かせた。


 部屋に入ると、蘇双が神妙な顔をしていた。

 重要な話がある、ということだろう。

 張世平は、すぐに蘇双と机を挟んで対岸に座り、食事を置いた。


「でだ、張世平、お前は張角をどう見た?」


 饅頭を、蘇双が一口頬張ってから言った。肉入りの饅頭だった。肉汁が、蘇双の口角から少し出てきたが、それを蘇双が吸った。

 なんだ、互いに食い意地張ってるではないかと、張世平は少し呆れた。


「そうですね。張角殿は、確かに『いい人』、という意味では当てはまります。気の量も多い。英雄と呼ぶには相応しいでしょう」


 それで、と、蘇双が少し身体を前に出した。


「しかし、私はあえて口にしませんでしたが、あの人の気の中に、陰りが見えました。何の陰りかは分かりません。ですが、野心でないのは間違いないかと」

「野心家ではない、か。なるほど、俺もそれは思った。しかし、その気の陰りなんだが、なんとなく想像が付く」

「と、言いますと?」

「恐らくあの癒やしの術だ。あれをお前に施した後、相当張角は疲れていた。これは俺の想像だが、あれは桁外れに体力を消耗するんじゃないか?」

「だとすれば、命をすり減らしている恐れもあります」

「だろうよ。お前の言う陰り、ひょっとしたら、病魔か何かかもしれねぇぞ」


 病魔。そう言われると、すとんと何か腑に落ちた。

 あれは己の気をも消耗するものだとすれば、その隙間に病魔が忍び込むことは、十分に考えられる。

 気が弱くなると、病魔はいつの間にか進行していくものだからだ。


 しかし、それを張角自身が知らないだろうかと、頭に一瞬疑問が浮かんだが、すぐに答えは否と達した。

 あの達観した態度や、極端すぎる自己犠牲心は、そこから来ているのではないかという気もしてならなかった。

 だが、そこまで蘇双が理解していたとすれば、なおさら疑問が出てくる。


「蘇双殿、どうして、張角殿にあのような商談を持ちかけたのです? 張角殿は身体がそれ程持つと思いませんが? あの方の気は大きいし、英雄としての素質は十分です。しかし、今が頂点、これから先、病魔にむしばまれれば、気は縮むでしょう。それを分かっていないあなたでもありますまい。なのに、どうしてです?」

「ああ、それはだな」


 蘇双が、不敵に笑った。

 だが、その不適さに、何処か冷や汗が出た。こんなことは、初めてだった。


「あいつが乱世を呼び込むからだ」

「乱世、ですか」


 一つ頷いた後、蘇双が肉の香草焼きの切れ端に手を付けた。

 自分も、饅頭を食す。そうやって、無理矢理に上がっている心臓の高鳴りを押さえ込もうとした。


「信徒百万、それを全部結集してみろ。今の漢軍でも相当手を焼く数になる。更に張角がその気じゃなくても、恐らく弟の張宝や張梁が担ぎ出す。あいつらは大規模な反乱を起こすだろうよ。そうなりゃ世の中は大乱世に突入だ。そうすりゃありとあらゆる物が動く。人も、金も、物資もな。それこそ絶好の商売の好気になる」


 肉を頬張った後、今度は魚に手を付けた。

 そして、嚙み切った後、より不適に笑った。


「言っただろ、張世平。俺達商人にとっては、金が全てだ。そしてお前も言ったはずだ。出会いは商機の一つだと。まさにそれが訪れたとみろ」


 確かに、その通りだ。

 銭に善悪はなく、そして売る物にも善悪はない。

 商人はただひたすらに、儲けを追求する。それが全てだ。


 だが、自分の中にもう一つ、何か妙な感情がある。

 張角以上の英雄が、まだ世の中にはいるのではないか、という感情だ。

 そういった者がいれば、世の中は変わるだろうか。そんな感情が、いつの間にか芽生えたことに、少なからず張世平は驚いていた。


 その後、これからの打ち合わせを行いながら、食事を行った。

 大量に買ってきたつもりだったが、結構食べてしまった。それだけ腹が減っていた、ということだろう。

 腹が減っては戦は出来ぬ、という言葉もあるくらいだ。

 これから忙しくなる。そう思いながら、寝台に入り、寝入った。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 三匹の竜が、空で暴れ回っている。

 その空も、晴天ではなく曇天で、嵐と、雷が吹き荒れている。

 だが、その三匹の竜は、交わることなく、互いに争い続けている。

 その闘争は、まるで収まる気配がない。


 何なのだろう、この夢は。


 張世平は、そんなことを想いながら、もう少し、夢を見ることにした。

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