第11話 後編「それで、わかったんです。この気持ちは、兄さんにしか抱けないんだって」

 遊園地で様々なアトラクションを楽しんだ俺と火花ひばなは、現在――暮れゆく茜色の空を見ながら、そろそろ帰ろう、という言葉を互いに飲み込んでいた。

 できることなら、もっと火花と二人、ここで遊んでいたいけど……それをそのまま行動に移せるほど子供じゃなくなってしまった俺はだから、彼女に言った。


「そろそろ、最後のアトラクションにするか」

「……夜のパレードは見ないんですか?」

「お前は明日も学校だろ? 電車で二時間かかるんだから、パレードまで見てたら帰る時間が遅くなりすぎるって」

「…………兄さんはもう帰りたいんですね」


 いじけた顔でそう言うと、火花は不貞腐れたようにそっぽを向いた。

 そんな風に、子供っぽい態度を取る彼女を見て、俺は反射的に、火花の頭をそっと撫でる。それは、彼女が俺の妹だからこそできた行為だった。


「……やめてください、兄さん。女の髪を触らないで」

「お、女の髪って……妹の髪だろ、これは」


「いえ、女の髪ですよ。……どんなに不愉快なことを言われても、兄さんのその大きな手で撫でられたら、つい兄さんを許したくなってしまう女の髪です」


「…………」

「ともかく、わかりました。次で最後にしましょう。――あれとかどうですか?」


 そう言いながら火花が指差したのは、一際大きな存在感を放つ、この遊園地の目玉とも言うべきアトラクション――観覧車だった。

 観覧車は乗車時間が長いから、もしかしたら帰りが遅くなってしまうかもしれないけど……まあ、最後だしな。

 俺はそんなことを思いつつ、「ああ、いいぞ」と彼女に返事をする。

 そうして俺達は二人、観覧車のある場所に移動し、その列に並んだ。


「「…………」」


 気まずくはない。けれど、名残惜しむような沈黙が俺達を包む。

 そんな風に会話のないまま、観覧車の列が進むのを待っていたら……その最中に、ぽつり、と。火花は俺にだけ聞こえるような小声で、呟いた。


「……ほんの少しでも長く、兄さんとこうしていたいから、時間のかかるこれを選んだんですからね?」

「ん、わかってるよ……」

「どうだか。兄さんは察しが良いように見えて、意外と乙女心をわかってませんから」


 そんな会話をしているうちに、俺達の番が来る。係員の人の案内に従い、観覧車のゴンドラへと乗り込んだ。

 俺と火花は対面するように、硬い椅子に腰かける。そのまま「いってらっしゃーい!」という係員さんの声に送り出されて、二人が乗るゴンドラはゆっくりと、地上を離れていった。


「……でも観覧車って、アトラクションとしてはぬるいですよね。もっとこう、日本の観覧車もインドの観覧車と同じぐらい、ぐるっぐる回ってくれていいのに」

「いじらしいこと言ったあとに、スピード狂としての発言をすんなよ……じゃあお前は、この観覧車がすぐに終わってもいいのか?」

「……別に、そういう意味で言った訳じゃ……」


「俺は嫌だぞ。お前と、もう少し――」


 そこまで言ってしまったのち、俺は慌てて言葉を切る。

 ……だけど、もう遅い。火花は少し驚いたような顔で俺を見たのち、静かに微笑した。わかりやすく喜んでいるその顔を直視できず、俺は彼女から無理やり視線を逸らす。――そんな俺を見てまた笑った火花は、ゆっくりと立ち上がりながら、どこか艶のある声で言った。


「やっぱり、そっち行ってもいいですか?」

「ああ、いいよ……」


 俺がそう言うと、火花は俺の隣に移動したのち、そのまま腰を下ろした。

 俺の右足と、火花の左足が――俺の右肩と、火花の左肩がぴったりくっつく。ゴンドラの中はさして広くないから、隣り合った俺達の体は酷く密着していた。


 ……火花との密着についドギマギするのと同時、妹相手にドギマギしている自分を心底嫌悪した。添い寝の時もそうだけど、なんで火花とくっついてるだけで、こんなに緊張してんだよ俺……。

 これじゃあまるで、俺が火花のことを――。


 俺がそんな風に思案していると、ぽすん、と。

 火花が俺の肩に、自分の頭をもたせかけてきた。

 そうしながら、彼女は呟く。それは、世間話をするみたいな軽いトーンだった。


「兄さん。やっぱり我慢できそうもないから、私、兄さんに告白しますね?」

「――――」


 告白って、何をだよ。

 そう返したかったのに、この口は固まったまま動かない。……驚きから、俺は彼女の顔を見つめる。そうして俺と目が合うと、火花はいたずらっぽく笑いかけてきた。

 そのまま、彼女は言葉を続ける。俺の妹は静かに、けれど滔々と語り始めた。


「最初は、家族愛でした。兄さんのことがお兄ちゃんとして大好きで、私の自慢で。その時の感情が真っ直ぐ育っていたなら、こうはならなかったんでしょうけど……どこで、間違ってしまったんでしょうね? いえ……正しく、なっちゃったんでしょうか」

「……ひ、火花、お前……」

「めっ。静かにしててください、兄さん」


 もたせかけていた頭を上げ、姿勢を正すと――火花はそう言いながら、俺の唇に、自身の人差し指を無理やり押し当てきた。それで、俺は喋れなくなる。

 お前がいま胸に抱えているそれを、本当に言ってしまっていいのか。

 その確認を彼女にすることが、できなくなってしまった。


「たぶん、一生に一度の告白ですから。たとえ兄さんでも、邪魔させません」


「火花……」

「――そんな風に、正しくなっちゃった私の感情は、あの頃からブレることができないまま、ここまで来ちゃいました」


 仕切り直すように、火花はそう言い切る。それから、彼女はどこか困ったような、でも嬉しそうな顔で笑いつつ、俺を見つめた。

 それはまるで、恋する女の子が、好きな男の子に向けるような――少しばかり眩し過ぎる微笑だった。


「正直、自分自身に何度も問い直したんですけどね……私が兄さんに対して抱いているこの思いは、ちゃんと恋心なのかって。世間知らずの女の子が、小さい頃に手近な男の子を好きになっただけで、それはただの勘違いなんじゃないかって――確か中一の頃とか、そういう多感な時期には、疑ってかかったりもしました。……でも結局は、兄さんを選んでました。兄さんが好きでした」

「…………」

「同級生の男の子達が、ただの猿にしか見えないんですよね……だから年上の男の人が好きなのかな、って思ったんですけど、一個上、二個上の先輩も、同様に猿にしか見えませんでした。……いえ、実を言うと、猿という表現すらおこがましくて――無色透明にしか見えないというか。話をしてても、感情が全く動かないんですよね」

「…………」


「それで、わかったんです。この気持ちは、兄さんにしか抱けないんだって」


 そう言い切る火花の、無垢な視線が俺に突き刺さる。……それを受けて、嬉しいだけでは絶対にない感情が、俺の胸を苛んだ。火花がいま言った言葉に、どんな顔をしたらいいのかわからなくて、俺は顔を逸らそうとした――けど。


「ちゃんと見てください。……私を、見てください」


 俺の両頬を火花が両手で挟み、逸らそうとした顔を固定されてしまった。

 そうして見つめ合う、俺と火花。……俺を見つめながら柔らかく微笑む彼女に、俺はやっぱりどきりとしてしまう。いつしか、いま目の前にある彼女の微笑が、俺が子供の頃に見ていた火花の笑顔と、重ならなくなっていた……。


 しばらくして、俺がもう顔を逸らさないことを確認した火花は、俺の両頬に添えていた手をそっと引いたのち、話を続けた。


「ちーちゃん……私のお友達に相談したら、色んなことを言われました。それは家族愛を勘違いしてるだけなんじゃないか、とか。兄さんが『お兄ちゃん』という立場にいなかったら、好きになってなかったんじゃないか、とか。だとしたら、それは正しい恋心って呼べるの? とか」

「…………」

「手厳しい友人ですよね……でも、本気で心配してくれたんだと思います。それに、そうやって疑問をぶつけられたから、出た答えもありました――私は確かに、兄さんがお兄ちゃんだったから恋したけど、兄さんじゃない人がお兄ちゃんだったら、こんな気持ちにはなってない。それだけは、はっきりと言えました」

「……な、何で、そう言い切れるんだよ……」


「だって私は、お兄ちゃんが好きな訳じゃなくて、兄さんが大好きなだけですから」


「――――」


 ばくん、と心臓が大きく跳ねる音を聞く。

 俺はいま、正体不明の感情に、強く心臓を掴まれていた。


 少しだけ照れた表情で、でも決して俺から視線を外そうとしない彼女から、目を逸らせない。逸らそうとすらできない。

 ……自分の頬が熱くなっているのを自覚する。これまで、ただの義理の妹だった筈の彼女はいつの間にか、一人の女の子として俺の目の前にいた。


「つまり私は、私のお兄ちゃんだから兄さんが好きな訳じゃないんです。俗っぽい言い方をするなら、兄萌え? ではないんですよ。そうじゃなくて、兄さん萌えなんです。……この言い回しで伝わりますかね? もっと言うと、私は兄なら誰でもいい訳じゃないし、兄だから好きなんじゃなくて――大好きなあなたが、お兄ちゃんだっただけなんです」


「…………」

「……というかいま、さらっと言っちゃいましたよね? ごめんなさい、兄さん。仕切り直してもいいですか? ……すぅー、はぁー……」


 火花はそこまで言うと、俺から顔を逸らしたのち、深呼吸をした。それから、彼女は背筋を正すと、改めて俺を見やる。

 柔らかなまなざし。はにかむような微笑。ゴンドラの窓から差し込む夕陽を反射して、彼女の黒髪がきらきらと輝く。……その絵画じみた光景に、俺が息を呑んでいると――目をぎゅっと瞑った火花は、夕陽と同じくらい頬を赤らめて、俺に告げるのだった。



「女として、あなたのことが大好きです。――たとえ片想いだとしても、ずっとあなたのそばにいるので、覚悟してください」



 それは、答えを求めない、自己完結した告白。

 火花がこれまで積み上げてきた思いが凝縮された、告白相手の俺にすら反論する余地を与えない、強度の確かな愛情だった。


 ……それを受けて、俺は考える。兎崎とざきの家に行った時と同じように、考える。

 火花にこう言ってもらえた俺は一体、どんな言葉を返すべきなのか――。


 たぶん、いま抱いた感情そのままに、返事をしてはいけない……もう子供じゃないのだから、これからのことを考えず、この気持ち一つで答えを出すべきじゃないのは、わかっていたけど――それじゃあ俺は、彼女になんと言えばいいのだろうか。

 そんな風に頭の中で答えを模索しつつ、俺が口を開いたら――。


「……ありがとう、火花。たぶん、俺――」

「やめてください、兄さん」


 ぎゅっと、膝の上に置いていた手を、火花に握られた。それはまるで、俺が何か決定的な言葉を喋るのを、拒もうとするかのようだった。


 俺の右手に重ねられた、火花の左手。……そうして彼女と触れ合っているうちに、俺は気づく。

 一世一代の告白を終えたばかりの火花の手は、わかりやすく震えていた。


「答えが、欲しかった訳じゃないんです……」

「…………」

「ちょっと最近、気持ちが焦るようなことがあって……だから今日、兄さんに思いを伝えてしまいましたけど……答えを貰うのは、怖いんです。ごめんなさい、卑怯な妹で……でも、やめてください。お願いします……」

「……それで、いいのか?」


 俺はそう、火花に対して真摯に尋ねる。……正直な話をすれば、火花に答えを言わなくていいというのは、俺としてもありがたいことではあった。

 それは、何故なら――。


『したよ、浮気。だって、あんたが構ってくんないのがいけないんじゃん』


 ……俺はいまも、過去の色々に関して、踏ん切りがついていないから。

 だからこそ俺は、火花の告白についても、どういう答えを出すべきか決めかねているけど……でも、告白して答えを貰えないというのは、彼女としては嫌じゃないのだろうか? 俺がそう疑問に思っていると、火花は無理やり笑みを浮かべながら、こう言った。

 それは、強がりだとわかっているからこそ、綺麗な笑顔で……俺はそんな彼女の表情に、つい見惚れるのだった。


「はい、それでいいです。この告白は、兄さんとの関係を進めるためにした、というよりは――兄さんに私を意識してもらうために、したことですから。私は兄さんを男として見てますから、兄さんも私を女として見てくださいね? という、あなたへの宣戦布告です」

「せ、宣戦布告って……ワードが強いなおい……」

「ふふっ……でも、本当にそういうことですから。今後とも、よろしくお願いします」


 火花はそんな言葉と共に立ち上がり、俺の対面に座り直すと、静かに頭を下げた。

 それを受けて俺は、心の奥底で抱いている感情に、慌てて蓋をする。……いつかこの思いを告げる日が来るのだろうかと少し考えてしまいつつ、俺は火花に返事をするのだった。


「ああ、これからもよろしくな……」

「……はい。私が兄さんをめちゃくちゃエッチな目で見てると意識したうえで、よろしくお願いしますね」

「あ、あんまそういうこと言うなよな……」


 俺のそんなツッコミに対して、楽しげに「ふふっ」と笑う火花。

 けれど、次の瞬間――ぽろり、と。

 彼女は朗らかな笑みを浮かべたまま、左目から一粒だけ、小さな涙を零した。


「――――」


 それに驚き、俺が何も言えずにいると……火花は「あっ。ちょっとだけ泣いちゃいました」と、さして慌ててもいない様子で、目元をくしくしと擦る。

 それから、彼女はけろっとした表情で俺を見つめたのち、こう言うのだった。


「女の涙は大した理由もなく出るので、あんまり気にしないでください」

「き、気にするなって言ったって……」

「そんなことより、さっきから話し合ってばっかりで、観覧車からの景色を全然見てないじゃないですか。――ほら、もうすぐてっぺんですよ。一緒に見ましょう」


 火花はそう言いながら、俺の視線を誘導するように、窓の外を指さした。

 それを受けて、そちらを見やる俺。――俺達が一日中遊んでいた遊園地が、茜色に染まっていた。煌びやかなアトラクションに、食べ物を売る出店、道を歩く人々が小さく点在していて、ミニチュアみたいに見える。

 意外と面白い光景に、目を奪われていたら……隣で、火花が小さく呟いた。


「……好きって言って貰えるまで、好きって言い続けてやりますよ……」


「…………」

 たぶん彼女は、返事が欲しかった訳じゃない。それもまた、火花なりの宣戦布告だった。

 そうして俺は、観覧車から見える景色を眺めながら、考える。


 もしいま火花が、答えはいらないと、そう言っていなかったら――俺はどう答えて、火花とどうなりたかったのか。


 答えは出ているのに、俺はそれに対して、見て見ぬフリをし続けている気がした。

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