妹だから問題なんです
人生
プロローグ
喜劇か悲劇
惚れ薬――意中の相手に飲ませれば、その人の身も心も自分のとりこに出来るという恋の万能薬――というと、魔女が怪しげな材料を大釜で煮込んでつくりだすもの、といったオカルトでファンタジィなイメージが浮かぶだろう。
そんな都合のいいマジックアイテムなど現実には存在しないが、しかし、その効能を演出することは不可能ではない。
そのためにまず、〝恋愛感情〟というものの定義について確認したい。
恋、そして愛。人が人を好きになる、ということ。その時に生まれる感情はフィクションにおいてまるで美しいものであるかのように描写されるが、そんなものは幻だ。
現実はこうである。
ヒトは種の存続のため、より良い子孫を残すため、優れた遺伝子を求める。格好良いだの可愛いだの、容姿に優れた相手を好むのつまりはそういう理屈。個体によって良しとする遺伝子が異なるから、容姿や性格の好みも違ってくる。それはきっと、種の多様化のために欠かせない要素なのだろう。
容姿などの〝見かけ〟を基準に相手を選ぶ人間は、本能的で知性に劣り、動物と変わらないという話はここでは割愛するが――要するに、ヒトの種の存続のためには恋愛などという概念は大して必要ではないのである。
にもかかわらずそうした幻想がつきまとうのは、「気分を盛り上げるため」とでもいえばいいだろうか。相手への感情を高めることで、より精力的に種の存続に励むための演出の一環である。あるいは〝娯楽〟の一種なのかもしれない。
なんにせよ、恋愛感情とはつまり、種の保存を目的とする動物的な本能を呼び覚ますためのもので――逆に言えば、動物的な本能にさえ目覚めれば、おのずと人は恋愛感情という幻想を抱くのである。
結論――性的な興奮を与えてやれば、彼は私を恋愛対象として意識するだろう、と
興奮させるだけならいわゆる媚薬という手もあるが、そちらは一時的なもので、幻想を抱くには少し物足りない。大事なのは、〝演出〟である。心身に作用しなければならない。
そのためには、準備が必要だ。一口飲ませるだけ、なんていう魔法に頼らない、己の力で成し遂げる努力が必要なのだ。
まずは、環境を整える。
夏場にもかかわらず部屋を閉め切り、蒸し暑いくらいの室温に調整。日当たりも悪ければ窓も少ないアパートはそうすると元々の薄暗さに拍車がかかり、より陰気で妖しい雰囲気を醸し出す。
それでも昼間なので明るさには困らないが、自室では照明代わりにアロマキャンドルを灯し、さらなる雰囲気を演出。男性の気を惹くと話題の香水をくどくならない程度に枕やシーツに染み込ませ、ついでにベッドサイドのカーテンにも吹きかける。
部屋のセットが終わったら、次は自分の番。軽くシャワーを浴びて血行を整え、無防備かつどこか扇情的な部屋着に着替えれば準備は万端。湿り気を帯びたロングの黒髪。白のブラウスは肌が薄く透けてほのかに淡い桃色に。
トドメは、
さて、それでは――飛んで火にいる夏の虫のような幼馴染みを出迎えるとしよう。
少し前に、幼馴染みの少年から電話があった。
なんでも、面と向かって相談したいことがあるらしい。電話ではなく直接会って話したいと、わざわざ事前に連絡を入れた上、会う約束までしたのである。
これが赤の他人なら事前にアポをとるのは自然なことだろうが、同じ病院で生まれて高校二年生になる現在まで家族同然の付き合いをしてきた相手だ。会って話したいなら連絡など入れず家に来るなりすればいいものを、わざわざ電話してきたのである。その電話で話さず、会う約束まで取り付けた。よっぽど大事な相談があるだろうことが窺える。
電話口の口調は意を決しながらもまだ躊躇いがあるような、そんな緊張を感じさせた。
これは使える、今がチャンスだ、と理紅は思った。そして以前から計画していた今回のプランを実行したのである。
どんな用件か知らないが、彼は相当に緊張しているはずである。何かを打ち明けるつもりなら、その緊張のピークに伴って脈拍も上昇するだろう。つまり、ドキドキする。そのドキドキを利用するのだ。いわゆる〝吊り橋効果〟である。心理的な隙に付け入り、相談のドキドキを恋愛のそれと錯覚させるのだ。
我ながら完璧な計画だと内心ほくそ笑むが、顔には出さない。元々表情に出さない性格である。今日も普段通りの怜悧な表情で、部屋にやってきた彼――
「おはよう」
「え? あ、あぁ、おはよう……。もう昼過ぎだけど」
「入って」
「うん……」
言われるまま、彼は靴を脱ぎ、部屋に上がる。その様子を理紅はじっと見つめている。悠秋はどこか挙動不審だ。どちらかといえば「忠犬」みたいな人格者なのに、今は借りてきた猫のように落ち着きがない。部屋の奥に目をやったかと思えば土間に視線を落とし、
「えっと、おばさんは?」
「仕事。夜まで戻らない」
二人きりだ。正確には夕方には帰ってくるが、なんにしても時間に余裕はある。……あるだろうか? 分からない。具体的にどれくらい時間がかかるのか……経験がないため判断がつかなかった。
ともあれ、行動しなければ始まらない。玄関から入ってすぐ左にある自分の部屋に悠秋を招き入れる。
ドアを開けると、しばらく換気していなかった自室からモワっとした空気が流れだしてきた。どんよりしてはいるが、妙に良い匂いがする。しかし、悠秋は顔をしかめる。
「何してたんだよ……。窓くらい――」
「それはまだ早い」
部屋に入るなりベッドに向かおうとする悠秋を制止し、適当なところに座らせる。悠秋は困惑していたが、大人しくカーペットに腰を下ろした。なぜか正座している。立ち上がる気配がないのを確認すると、理紅はスリッパをパタパタ鳴らしながら廊下を移動し、冷蔵庫から特製ドリンクと手作りクッキーを持って部屋に戻った。
蒸し暑い部屋で大人しくしていた悠秋の前で、良く冷えたドリンク――麦茶にしか見えないそれをコップに注ぐ。差し出すと、悠秋はなんの疑いもなくそれを手に取り口を付けた。
「不味ぅっ……!?」
そして噴き出した。一万近くした材料費が水の泡になった。
人間は本能的に、危険だと感じたものを吐き出すように出来ているのだ。
「なんだよこれ……?」
「健康にいい」
「あ、そう……」
疑わしげだったが、理紅がティッシュでテーブルを拭っているあいだに悠秋はもう一度それを口に含んだ。後ろめたさのためだろう。計算である。
「クッキーもある」
異性を射止めるにはまず相手の胃袋を掴むことだ、という言葉があるが、あれは的を射ている。食事とは、生きていく上で欠かせないものだ。夫婦になれば、共通の料理を口にする時間も増えるだろう。味覚の好みが合うということはそのもの、相性の一致にもつながる。同じものを食べていれば体質も似てくるし、長年連れ添った夫婦は顔が似ているというのもそういう理屈である。
単純に、同じものを食べる方が生物として、群れとして効率がいい、というのもあるだろう。
一目惚れが相手の分泌するフェロモンの影響だとすれば、そのフェロモンも食事によって培ったものだ。人間は本能的に、自分と食の好みが合う相手を察知することが出来るのである。
つまり何が言いたいかというと、手作り料理が口に合えば、それはイコール生物的に〝つがい〟として相性が良いということだ。
「苦ぁっ……!?」
「…………」
悠秋は思いっきり顔を歪めたが、今度は口から出さずにドリンクで飲み込み、お茶を濁した。額に浮かんだ汗を拭う。早くも効果が表れてきたようだ。
それから、悠秋は黙り込んでしまった。二人のあいだでテーブルの上のキャンドルの火が揺れている。間を持たせようとするように悠秋はクッキーに手を伸ばし、顔をしかめながらもドリンクで飲み込んだ。だんだんクセになってきているのだろう。計画通りである。
それにしても、じれったい。
「それで、相談って何」
さっきから何か言おうとして顔を上げるのだが、歯切れ悪く何か言いかけて、結局口をつぐんで目を伏せる。そしてクッキーに手を伸ばす。それはいいのだが、いったい何をしにやってきたのか疑問である。
居桜悠秋は昔から優柔不断というか、肝心な時に一歩を踏み出せない、控えめな人間だ。どうでもいいことはすぐ口にして、周囲を唖然とさせるクセに、こういう場面では口ごもる。
背が高く顔立ちも整っていて、もう一歩前に出れば人気の出そうな見た目をしているのだが、こういう性格のためかあまり目立っていない。積極性に欠け、デフォルトになっている笑顔が頼りない印象をつくっているのも理由の一つだろう。線も細いが、これでも気まぐれから陸上部に入っていたことがあり、多少体力はある方だ。
今日も、ここに来るまでに走ってきたのかもしれない。〝クスリ〟の効能が早いのもそのためだろう。
そろそろ頃合いかもしれない――
「あのさ――」
と、悠秋が口を開きかけた時だ。
きゃぁあああああ……!
「っ!?」
ビクッ、と悠秋が背筋を伸ばす。タイミングが悪かった。
「な、なに、今の?」
「驚かせようと思って」
スマホで再生したのだ。吊り橋効果である。
「それで」
「いや……、うん――なんか暑いな……」
「それで」
繰り返すと、彼は観念したように一息ついてから、
「お兄ちゃん……いるじゃんか。リコはさ――」
「? ……うん」
誰のことかすぐには分からなかったが――これまで生きてきて、ほとんど話題に上らなかったのだが、理紅には双子の兄がいる。物心つく前に事故で亡くなっていて、写真でしか顔を見た覚えがない。
「いや……。なんか違うな。えっと――リコは、先輩のこと、どう思う?」
「?」
疑問符が浮かぶばかりだ。「先輩」と言われて浮かぶ顔が二人ほどいるが、果たしてどちらのことだろう。まだるっこしい。
「単刀直入に」
「ふむ……」
了解とも不服ともつかない声を漏らしてから、悠秋は意を決したように理紅を真っ直ぐ見つめ、そして言った。
「俺、好きな人が出来たんだ――」
◆
数分後、居桜悠秋は帰路についていた。
頭上は晴天、にもかかわらず、彼は頭から水をかぶったようにずぶ濡れだ。
頭を冷やせ、と言わんばかりにあの激マズドリンクをぶっかけられたのである。
「相手を間違えたか……」
口の中の苦みが消えない。
今更遅いのだが、どうして彼女に相談しようと思ったのだろう。
「消去法か……」
怒られて当然である。
すれ違う親子に後ろ指を差されたりしながら、とぼとぼと歩く。頭は冷えたが、まだ胸の動悸が治まらない。息苦しささえ覚える。自宅に辿り着くころにはどっと汗をかいていて、喉もカラカラだった。玄関のドアに触れると、自分の身体の火照りを感じた。熱中症だろうか。頭もぼんやりする。
シャワーでも浴びるか、でもその前に一杯――そんなことを考えながら家に上がる。
「ん、おかえりー?」
リビングのソファには妹の
「え、どしたの? 雨?」
ベランダの方に顔を向け、晴天なのを不思議に思い、それから腰を上げると、晴花はタオルを手に近づいてきた。さっきまで自分の頭を拭いていたタオルを悠秋に押し付ける。
「大丈夫? 風邪引くよ?」
「あぁ、うん……」
多少湿っているが、拭けないことはない。額の汗を拭うと、シャンプーか何かの良い香りがした。どうせシャワーを浴びるし、ついでに洗濯機に持って行こう。妹が自分を見上げている。頭一つぶん下のところにある、小さな顔。大きな瞳に吸い込まれそう。軽くブラックホール。
どくん、と脈打つ。頭がズキン。ごくんと、生唾を飲んだ。喉に絡みつくようだ。渇きは癒えない。
「……大丈夫?」
「うん……」
漏れた吐息に熱を感じた。
何かこう、地に足がついていないというか、うわついた感覚がある。眠いのかもしれない。今日のことを考えて、しばらくロクに寝ていない。眠気を払うためにも、シャワーを浴びよう。頭の中で同じ思考がループする。とりあえず、足を動かすことにした。
脱衣所に入り、濡れた上着を脱ごうとして――ふと、隅のカゴが目に入る。
ぶるっと、寒気を感じた。本格的に、何かマズい。
ズボンを下ろそうとして――思わず、前かがみになった。
頭に火が灯った。そんな感じがした。
急速に我に返り、その勢いでうずくまる。
胸が痛むほどに心臓が脈打っていた。
とっさに握りしめていたタオルの匂いで頭の中がいっぱいだ。
今、この時、居桜悠秋は――
(相手は、妹、だぞ……?)
そして――――
次の日、居桜悠秋は自殺しようと決意した。
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