届かぬ思い
瀬田 乃安
届かぬ思い
吉見優(ゆう)五歳、僕には弟と妹の二人の兄弟がいる。妹の名は綾(アヤ)三歳、弟の名は隆(たかし)一歳だ。そして、僕の大好きなママ幸子三十三歳だ。パパは大して家に居ないのでこの物語に登場することはないのだ。
もちろん、五歳の僕にこれほどの文章力があるわけがないが、かつては猫が熱弁をふるった時代もあり、そういうことを実現できるのが仮想現実であるが故にツッコミは止めてくれ。
僕のママはとにかく忙しい。そりゃ三人の小さい子をワンオペでこなすわけで、そんじょそこらのビジネスマンでも勝てっこないと僕は自負している。パパなんぞ話にならないので出て来ないのである。
前置きはそのくらいにして
「ゆう、起きなさい」
というママの優しくもありちょっと怖いモーニングコールから僕の一日は始まる。もちろん、一度で起きるわけがないので、最後は怒鳴り声で夢から引きずり出されるわけだ。おして、僕が綾と隆を起こすのだが、僕如きが起こせる相手ではない。そして、最後はママの手を煩わせてしまうのである。
起きると早々に朝食を取らなければならない。もっと早く起きれば、ゆったりとした朝食になるのだろうが。それが出来ないので、いやいやだが食べるしかない。しかし、そこで嫌な顔をするとママが心配するので、元気よく食べるのだ。
僕がそうすることで、綾と隆も真似をして食べるので、それを見たママは
「三人とも朝からしっかり食べて良い子だね」と言って喜ぶのが僕は嬉しいのだ。
僕の元気のバロメーターはママの笑顔である。だから、ママが笑顔になるように僕は毎日頑張っている。僕は、ママと離れるのが嫌なので行きたくはないが、幼稚園に行っている。しかし、それを悟られるとママが心配するので、行きたい振りをしている。
食事が終わると、急いで歯磨きをしてトイレを済ませ着替える。僕はしっかり者だから、幼稚園の準備が全て一人で出来る。昔はママが褒めてくれたが、今では当たり前になっており、ちょっとでも出来ないと逆に怒られるのは辛い。だが、もちろんそういうそぶりを見せるわけにはいかない。
そして、キチンと準備をしたら
「ママ行ってきます」
まるで、出勤するサラリーマンの様に颯爽と出かけるのだ。本当は、ママにギュッとして貰って行きたいのだが、それは少し照れ臭いお年頃になっている。その声に呼ばれるようにママが玄関まで来て
「いってらっしゃい、気を付けてね」
と満面の笑顔で僕を見送ってくれるので、めちゃいい気分で出かけられるのだ。最近、僕にとって一番のママだが、ママにとって一番は僕なのかどうか疑念を持ち始めている。それは、夜中にパパが返ってきたときのママの声が妙に色っぽい事があるからである。まあ、幼稚園児にこれが分かるかどうかは疑問であるが・・・
玄関を出た僕は実に無表情である。先生にも他の園児にもニコリともしないで挨拶だけをするチョット嫌味な幼稚園児だ。自分としては「不器用ですから・・・」という高倉健のイメージであるのだが、多分世間的にはコミュ障か引きこもりに見えるかもしれない。
だが、そんな僕は異様にモテるのである。みんなが「優くん、優くん」となれなれしく接してくるのだ。こんな僕のどこか良いのかさっぱり分からないが、モテるのは仕方ないわけで、適当にあしらう毎日となっている。
意外とモテるのは結構面倒で、チョットでも差が付くと責められるので、全員に対して不愛想を通している。僕はガキには興味が全くないわけで、面倒を避けることに徹してる。そういう幼稚園での話は置いておいて、さっさと家路に急ぐのだ。
玄関を開けて
「ただいまー」
と元気良く帰宅する。ここで、ちょっとでも元気がないとすぐママに突っ込まれる。いくら不愛想を通していても、それなりに気を遣うわけで、結構疲れるのだ。
しかし、僕の元気な声でママの笑顔が見れるなら安いものである。
家に帰ると、手洗い、うがいを済ませ制服を脱いで汚れ物を洗濯機に放り込んで着替えったら、今度は妹たちの相手とママの手伝いである。帰って来た時は満面の笑顔で迎えてくれたママも、実は今日一日のワンオペ育児と家事で結構疲れているようだ。
こういう時は、僕はとても緊張する。何故なら、ミスが許されないからである。僕が何かミスをしてママの手を煩わせると物凄く怒られることになる。しかし、神様は意地悪なモノで、そういう時に限ってミスを連発するし大きなミスをするのである。
最初にやったのは、綾と鬼ごっこをしていた時に、誤って隆を倒してしまったのだ。隆は頭を打ったようで大泣きする。みるとおでこにコブが出来ていた。もちろん、自分が悪い。でも・・・・。
言い訳は止めよう。大人げないから・・・というより、ママは言い訳を許さない厳しい人でもある。
当然、ママからはこっぴどく叱られる。その後ろで隆は既に笑って遊んでいる。僕はそういう隆を見て『子どもって良いな・・・』っていつも思う。
でも、ママは「ごめんなさい」と言えば大抵許してくれる。それが僕にとって唯一の救いと言える。世の中には「ごめんなさい」では許してくれない女が実に多いと聞く。さすがママだと僕は思う。
しかし、次の失敗はきつかった。夕食の準備でキッチンからカレーの入った皿を食卓に運ぼうとして手が滑って床に落としてしまったのだ。更に運が悪いことに、そこに隆が居たのである。熱いカレーが手について隆は大泣きとなった。
これはヤバいと思った。多分、流石のママも許しちゃくれない。そう思った次の瞬間、ママに叩かれた。僕は謝ることも忘れて大泣きするだけだった。ママの顔は滅茶苦茶怖く、鬼のように見えた。
そして、自分の部屋に行き布団に潜り込んでしまった。正直もうダメだと思った。自分の不甲斐なさを呪った。もう僕は布団から出ることは出来ない。ママに会うこともママの笑顔を見ることもないと思った。そう思うと涙がどんどん出てきて止まらなかった。
神様は何でこんな意地悪をするんだ。神様は僕が嫌いなんだ。僕は地獄へ行くんだと思った。地獄というモノがどういうところかも知らないけど、もちろん天国がどういうところかも知れないけれど。
この布団の中の様に真っ暗で何もない所に僕は落ちていくんだと。
「あ~僕の人生は終わるんだろうか・・・結構短かい人生だった」
と、思ったのが最後だった。僕は夢をみているようだ。なんだかフワフワと宙に浮いている。もしかしてこれが天国というモノなのか。と思っていると、遠くで話声が聞こえて来た。
「幸子さん、そう落ち込まないで。見てごらんよ。この優のあどけない寝顔。きっと、いい夢を見てるんだよ。優は頑張り屋さんだから、失敗も多いのさ」と、ママを気安く名前で呼んでいるのは、物語に出したくないパパじゃないか。
しかも、ことも有ろうに僕を抱っこしている様だ。何たる失態。何たる不覚。という思いも感じながらも、心地よさから睡魔から出れない優であった。どの横でママが
「うん、分かってる。優が大好きだから」というママの言葉が聞こえて来た気がした。
届かぬ思い 瀬田 乃安 @setanoan
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