第二章 航過:2

 わたしは皆と一緒に舷側の手すりにしがみつく。

そうしてアンノウンが見えやしないかと左舷前方の水平線近くを見つめる。

 

 視界をぐるり取り巻く天と海の狭間で。

空間の青と水面の青が溶け合いながら。

ふたつの境目が分からないほどに輝いているのが分かる。

目に入る青が全方位を染め上げるブルーグラデーションとなっていて美しさの基準が揺らぐ。

わたしはそのことに驚く。

胸がぎゅっと締め付けられるような感じがなんて心地よいのだろう。

 その青は太陽と大気が宇宙に付けた色だ。

けれどもこの圧倒的な青が星の世界と地を隔てる薄いベールに過ぎないことをわたしは知っている。

わたしはアンノウンよりむしろそのことに心を奪われる。

 航空船から見る空の青は航海船からみる海の青とはまるで違うだろう。

目に映る蒼穹はわたしたち航空船乗りがロージナの対流圏に直に対峙している高揚感を抱かせてくれる。

それほどまでに蒼穹の青は壮麗で心を震わせるものだった。

 わたしの目にはまだアンノウンらしき船影は見えない。

どうやら空と海の青さに圧倒された脳が、退屈凌ぎに自分の審美眼を自賛しているだけらしかった。

 

 お目当ての船がいっこうに見えないままダラダラ時が経つ。

みんなの上気していた顔さえ少し平常に戻りかけていたろうか。

風向きが変わり帆がバタついて耳障りな音を立てた刹那。

シンクレア・カーク・マグリット予備役兵曹長さんの叫ぶ声が甲板を走った。

シンクレアさんはいつもフォアマストのトップ台で双眼鏡を手に見張りをしている。

第七音羽丸で一番のベテラン警戒観測要員だ。

「方位三三〇アンノウンはフリゲート艦。

三十八門艦。

識別旗は赤色黒十字。

東の船です。

元老院暫定統治機構の・・・おそらくミズーリ級フリゲート艦!」

シンクレアさんのメゾソプラノは歯切れの良い船上でもビシッと通る美しい声だ。

「艦名は分かるか」

モンゴメリー副長がメガホンを手に問いかける。

声音がいつもの副長より硬い感じがする。

ブラウニング船長は何かぶつぶつ言いながら双眼鏡を目に当てている。

マリアさんに至っては恐ろしいことに。

がんぜない少女のような愛らしい微笑みを浮かべていらっしゃる。

不運にもそのご尊顔を拝してしまった者はわたしと同様みな蒼白になったはずだ。

甲板長の恐ろしい笑みに気付かない左舷の野次馬娘たちは「エーッどこ?どこ?」と大忙しだ。

喧≪やかま≫しく囀≪さえず≫りながら水平線を指差したり。

手のひらでこしらえたまびさしの下で目を細めたり。

まるで舞台に並ぶ少女歌劇団のコーラスラインから推しを捜す勢いもかくやだ。

 そうしてしばらくの間。

うるさいまでのクルーのお喋りと風の音。

帆の心地よい唸り声や策具のぶつかり合う金属音。

そんな和やかな性質の音声≪おんじょう≫や音色で上甲板は結構明るく華やかな感じに賑わった。


 「見えたー?」

「見えないー」

「あれ!

あれなの」

「どれ?」

「あれよあれ!」

指示代名詞が左右を飛び交いきょろきょろするわたしの目にも何かが見えた気がする。

「あの白いの航跡でしょ?」

「するとあれが帆なの?」

一瞬でどよめきがおこる。

「・・・総帆展帆」

隣にいたディアナがつぶやく。

こいつは昔から夜目と遠目が効く。

わたしも瞼をスリット状に細め必死に目を凝らす。

すると何やら白いものが水平線に向かって筋みたいになってるのが見えた。

「あれがフリゲート艦っていう船なの?」

お人形さんみたいに真っ白になって静止しているディアナから返事はない。



 変化は突然だった。


 「虹色の長流旗。

船体には白に青の斜線。

あれは!

あれはインディアナポリスです!

元老院暫定統治機構海軍所属三十八門フリゲート艦インディアナポリス号。

艦長チェスター・アリガ・ヨーステン海佐!

間違いありません!

ぼんくらチェスターです!」

シンクレアさんの美しいメゾソプラノが硬質な響きとなって甲板を駆け抜ける。

するとそこかしこから。

何かを押し殺すような呻≪うめ≫き声や悲鳴のような叫び声が聞こえてくる。

年頃の娘が発しているとはとても思えない怒号すら上がる。

ついでにスキッパーまで尻尾を丸めながら自信なさげに吠えだした。

いつもの偉そうな勢いは微塵も無い。


 「えっ。

何です?

この不人気というか。

お姉さま方の暗黒ビビットな反応は?」

わたしは反射的にクララさんに問いかけ彼女の顔色を窺≪うかが≫う。

ついさっきまで姦しくも楽しげだった場に何か嫌な雰囲気が生まれていた。

 水平線を注視しあるいは睨みつけ。

顔が強張り緊張しているのはどうだろう。

ひとり残らず少し年のいった予備役のお姉様方ではないか?

クララさんもたれ目が引き締まり険しい表情だ。

普段の彼女からは想像もつかないあけすけさで不愉快と言う感情を露わにしている。

 

 幼馴染のミリオタ。

海軍兵学校志望のディアナからの受け売りだけどさ。

フリゲート艦は何処の海軍に所属している船でも例外なくスマートで美しいらしい。

『形式は機能に従う』と古代の建築家が言ったそうだけどね。

所詮は人殺しの機械が最高の仕事をする為に獲得した美貌がそれとしたらだよ。

何とも皮肉なことじゃないだろうか。

 青く高い空の元。

純白の総帆に風を孕み。

白波を蹴立てて巡航するその姿は洋上の貴婦人にも例えられる。

なんて言うらしいけどね。

とんだ貴婦人が居たものだ。

 

 ディアナは彼女の座右の書<武装行儀見習いの為の帆船生活>を引きながら何かと講釈を垂れるのが好きだ。

だけどミリオタの面目躍如というべきか。

ことフリゲート艦について熱く語るときには座右の書にも用が無いようだったな。

正直ディアナから話を聞かされている時には全く興味が湧かなかった。

けれどもこうして航走するフリゲート艦を見物する機会を得るとアレだ。

モヤモヤはするがそんな否定的な思いとは別に胸が高鳴るのを抑えきれない。


『外洋で海上艦と行き会った。

それはとっても珍しいこと。

しかも相手はスタイル抜群のフリゲート艦って言う美女なんだよ!

良く分かんないけどこれは凄いことかも』


度重なるディアナによる洗脳が原因に違いないのだけれどね。

ミリオタならぬわたしでさえ。

ワクワクしながらそう思ったのは恥ずかしながら本当の事だ。

 わたしの隣で手すりを握りしめるディアナったら目が完全に逝っちゃってる。

あれ程まで恋焦がれたお船。

航走するフリーゲート艦の優美な姿を実際に見ることができたんだもんね。

わたしにはまだよく見えないけどさ。

すこぶる視力の良いあなたにはもうちゃんと見えてるのだろう。

ディアナったら恍惚に我を忘れ感極まったってとこ?

自律神経でもおかしくなったの?

お顔の色が雪の様に真っ白だよ。

 

 ところが退屈な船上生活にこうして降ってわいたせっかくのお楽しみだって言うのにさ。

殺気すら漂わせるクララさんを始めとする。

お姉様方の凶相やら険相はいったいどうしたことだろう。

スキッパーの吠え声にも敵意?

それとも怯え?

が感じられたしね。

どうやら海上の優美なフリゲート艦とお姉様方の間には何か浅からぬ因縁があるようだった。

 

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