第一章 解帆:10
「おーそりゃよかった。
おねいさんは物分かりの良い子が大好きよ。
ツルペタは寂れた陋巷≪ろうこう≫でも安く買い叩かれるって言うからね。
あんたをはした金で売り飛ばさずに済んで何よりだわ。
アキ。
アリーを放してさし上げなさいな」
『クララさん。
わたしははっきり自覚はしてますけどね。
ご自分の立派な胸をそびやかしてそうまでハッキリ仰られるのは如何なものかと。
わたしみたいな自己肯定感が低いモブでもさすがにへこみます』
「アリー、いい子」
アキコさんがやっぱりご立派な胸をグイっとわたしの背中に押し付ける。
そうして大好きだったあのアキちゃんの優しい声で囁やくとホールドを解く。
『アリー、いい子』
アキコさんのそのアキちゃん的一言で、わたしは音羽村が無性に恋しくなった。
てきぱきとティーセットが準備され、茶葉とお湯がポットに投入される。
テーブルにはクララさんとアキコさん、そしていつ戻ったのだろう。
右舷直第二班の先輩で今年武装行儀見習い三年目のベテラン。
パトリシア・ポター・ローゼンシュタインさん。
通称パットさんが静かに腰を下ろして微笑んでいる。
カップに熱い紅茶がサーブされ芳醇な香りが立つ。
マドレーヌの皿とレモンジュースの小瓶が回されお砂糖を入れた壷も引っ張りだこ。
お茶の用意が行き届き皆がほっと一息ついた刹那。
果たして。
わたしはテーブルについた全員の視線に鋭くポイントされる。
熱をはらんだ高揚感を肌に感じるし、ワクワクという擬音が確かに聞こえたよ?
「ええと。
一番大事なことを最初に申し上げますとですね。
本船はどうやら村に帰る前に。
なんとあのプリンスエドワード島に寄り道することになった。
とのことです」
「今朝の幹部ブリーフィングではそんな話これっぽっちも出なかったわよ」
クララさんが瞳の奥でびっくりマークを点滅させながら腕組みする。
「ええと。
なんでも北緯80度まで戻ってきた時点での開封を指定されたお手紙?
命令書?
そんなんがあったそうなんです。
で、お昼の天測で現在位置が件の北緯80度ってことが分かって。
さっき開封してみたらプリンスエドワード島に行けって書いてあって。
急きょ行先変更ってことになったらしいです」
わたしは船長から聞いた話をかいつまんで説明する。
「おかしなこと。
そりゃうちの船はまがりなりにも予備役の艦艇だけどね。
現役に復帰しない限り海軍委員会にも艦隊にも指揮命令権はないはず。
何処からの命令だろ。
まさかうちのどけち村長?」
クララさんの瞳の奥に更にクエスチョンマークが重なる。
「それがですね・・・行先変更の書類って、そういうのって命令書なんですか?
わたしが乗船する時にですね。
おばあちゃんから船長へと言付かった大きな封筒に同封されてたみたいなんですよ。
船長ったら風に飛ばされそうになりながら何枚も便箋・・・。
手紙?
書類?
を手に持っていて、最初は眉がハの字になってました」
「おばあちゃんって、あんたのおばあちゃんのケイコさん?
あーっ。
そーゆーことか!」
クララさんはいきなり何かが腑に落ちたようだ。
一口紅茶を飲むとそのままカップの中を見つめて黙り込む。
『いきなり沈思黙考?』
クララさんの澄んだ青い目の向こうには、事の次第を納得した色が見える。
パットさんはどうなのだろう。
少なくともアキコさんとわたしはそんなクララさんの様子に、わけの分からなさ百倍増だ。
クララさんの突然のだんまりは、図らずともみんなの熱気を冷ましてしまったかのように思える。
茶器の鳴る音が聞こえるだけで会話が途絶える。
これから盛り上がりそうだった場の勢いが妙な具合に失速してしまった。
『こりゃ気まずい雰囲気だな』
おしりのあたりがムズムズし始めたその時だった。
「ケイコさんって、アリーちゃんのおばあさん?
あの手芸品店、むじな屋さんの店長さん?
あたしいつもお世話になっています。
どーも」
少し天然が入ってるらしいパットさん。
彼女はマドレーヌに手を伸ばし突然スイッチが入ったかのようににっこりわたしに会釈する。
里では中等学校は同じだったものの。
二年も先輩のパットさんとは接点がなかった。
ここしばらくのお付き合いで分かったのだけれどね。
パットさんは場がしらけることがお嫌いらしい。
だからこんな局面に遭遇すると、いつもその場の話題とはまるで関係ないつっこみを入れる。
この時も、まぁ、いつもながらのお気遣いだったのだろう。
わたしは人間関係を円滑にこなす。
その為にパットさんが独自に編み出した天然ベースの話芸って踏んでいたけれどね。
いつもなかなかの威力で右舷直第二班の絶対安全弁となっているのは確かだ。
「あんのババァ。
こちとら前々から怪しいと睨んでたんでぇ。
いったい何たくらんでやがる。
おいこの腐れ小娘。
さては、孫のてめーもぐるだな。
待ってろ。
いますぐ手前の身体に直截お伺いを立ててやらぁ」
パットさんが入れた明後日の方向にスッ飛んでったツッコミのおかげだな。
行き足を失っていたアキコさんが忽ち息を吹き返す。
そうして間髪入れず気持ち良さ気な見得を切ってみせたのだ。
アキコさんはドスを効かせたつもりの中途半端な低音で吠えたててその揚げ句。
外連味≪けれんみ≫たっぷりに二重瞼の愛らしいまなこを凶悪そうにひん剥いて見せる。
演出上の流れからだろうか。
チンピラよろしく腰のナイフに手をやろうとまでしたのは、さすがにやり過ぎだと思う。
アキコさんの脳内妄想もアレだ。
得物を使うところまで来るとなると、本当に病気の一種かもしれなかった。
『脳に何か変な蟲が湧いたんじゃなけりゃいいけど。
アキコさんは今脳内舞台で何に成りきってるんだろう?
・・・パットさんのつっこみが入る直前。
次にどう吠えようかってワクワク顔で考えてましたよね?
変に空気読もうとするもんだからうっかりタイミングを失っちゃってましたよね?
アキコさん!
切っ掛け待ってましたよね?』
だからわたしは大向こうからの掛け声を、今か今かと待つアキコさんをさらりと無視する。
マドレーヌを一口齧り、そっとお茶を啜った。
シャイアー産の紅茶が醸し出すフルーティーなアロマにわたしはうっとりだ。
『クララさんったらもしかしたらティーサーブの天才かもしれないわ』
「てめぇ!」
アキコさんが腰のナイフを引き抜きぬく。
彼女の大見得をあっさり黙殺したわたしに激昂したのだろう。
『アキちゃんに良い様にされていたあの頃のちっちゃいアリーじゃありませんよ?』
よもやの刃傷に及ぼうかと言うその刹那。
クララさんの拳骨がアキコさんの脳天に炸裂した。
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