第一章 解帆:8
八点鍾が鳴って正午から十六時までの当直(午後直)が終わった。
わたしはスキッパーと少し遊んでから下甲板(船の内部)に降りる。
ちなみに下っ端にとっての当直は退屈だ。
特別な任務がない時には決まりきったルーチンワークになる。
二本のマストに懸かる
甲板磨き。
マストの上での見張り。
お当番としてやらされる仕事はそんな感じ。
4時間勤務して次の班と交代する。
船上で
時鐘の鳴る回数で当直が終わるまで後どのくらい働かなければならないかを知ることができるんだよ。
カンって一回鳴ったら当直開始から30分経過で一点鐘。
カンカンカンって三回鳴った時は1時間30分経過で三点鐘っていう。
さっきの鐘は八回鳴ったから八点鍾。
240分=4時間続いた当直の交代を告げる時報ってこと。
八点鐘は当直の終了と次の班の当直開始を告げる合図にもなっているわけだ。
下甲板にはクルーの居住空間と
スターリングエンジンや巻き取り機。
その他海図室や船の運航に必要な施設が作りこまれている。
わたしたちみたいな下っ端武装行儀見習いを含めた一般クルーは皆んな一緒の居住区で過ごす。
各班ごとに専有のアジトが決まっていて私物を入れる
アジトには緊急時と就寝時でなければ折り畳み式のテーブルが出ている。
テーブルは当直と食卓を共にする同じ班仲間のくつろぎの場にもなっていた。
現在の第七音羽丸は本来の定員の半分以下の人数で運用されている。
スペース的には充分余裕があるはずなのだけどね。
なんだろ。
そんなわたしみたいな小娘にしてみると船内は
一班は5人編成で
すると差し引き20人近くの乙女が非番で、わいわいと下甲板でたむろしている勘定になる。
わたしが所属しているのは右舷直第2班だ。
班長さんはクララ・コーダ・マツシマ予備役兵曹さん。
第七音羽丸が軍艦時代からの古参クルーだ。
彼女は現役の頃のまま
ちなみに現在搭載されている二門の5㎏砲や色々な鉄砲を管理運用する砲術科の責任者が掌砲長だ。
クララさんは各班に散らばっている砲術科の掌砲手や掌砲助手を集めて、暇さえあれば訓練をしている。
砲撃クラブの部活動と称して大砲やマスケット銃の発砲を繰り返しているのだ。
いざと言う時に備えての銃砲術のお
クララさんはそうしたミリオタがかった
掌砲手は予備役でも訓練義務が有るらしいけれどね。
掌砲助手は
行儀見習の頭に武装の二文字がついている以上はね。
わたしたち下っ端が「砲撃クラブの部活動を断るなんてもとより論外!」なんだってよ?
クララさんはそう言ってケラケラ笑うけどさ。
建て前では一応は自分の意志で入部することになっている。
らしい。
かく言うわたしもまだ船上暮らしの右も左も分からないうちに勧誘?徴募?された。
レモンパイと紅茶につられてクララさんの
大砲や鉄砲は音がうるさいし。
髪の毛は火薬臭くなるし。
何よりクラブ活動?なので非番のまったりした時間を削られるのが辛かった。
とは言うものの基本的に姉御肌で面倒見の良いクララさんがボスなのだ。
「<やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、
話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば人は育たず>*山本五十六
大昔に地球の海軍で活躍した提督のお言葉だとか。
都市連合海軍のモットーでもあるの。
今日は訓練弾を2ダース程撃ってもらうわよ。
さあ。
とっととマスケットを構えなさいな」
「アイアイマム」
たとえ
わたしはクララさんの人柄は嫌いじゃなかったし、ハンコをついちまった以上は是非もない。
いつものわたしらしくもなく
反抗心を抑え込んでクラブ活動に参加してる。
わたしは表向き
郵便局へのお使いは、キャベンディッシュの街中で小半日遊べるラッキーなオプションがおまけについている。
それにも関わらず。
ケイコばあちゃんの命令と言う引っ掛かりがあるせいでお使いの目的自体が
せっかく街に繰り出す機会に恵まれたって言うのにさ。
不安を
そんなわたしが右舷直第2班のホームテーブルにたどり着くと。
先に戻っていたクララさんがお茶の用意を始めていた。
クララさんは上陸の時を除いて、いつも長い銀髪を振り分けのお下げにしている。
少し面長だけど明度の高い美人さんだった。
陽気で朗らかな人だけれど
浮かべた笑みに皮肉の風合いが混ざりそうな一瞬。
絶妙な角度で口角を上げて微かな悪意をユーモアに昇華する技がそれはそれは魅力的だ。
「ヨッ。
ご苦労さん。
今アキがお湯取りに行ってるから。
すぐお茶にするね。
今日という今日は、いよいよシャイアー印の紅茶の封を切りますぞ」
わたしは、
「お疲れです、班長。
カップはわたしが並べます。
ポットを宜しくお願いします」
アキって言うのは、武装行儀見習の先輩でわたしの
今年で武装行儀見習の
アキコさんは黒髪のストレートボブが
それはそれは絵に描いたような美少女ではある。
音羽村でも幼少の
彼女の可愛らしさはご近所でも評判だったらしい。
半ズボンにコットンシャツなんて言うダサい
それこそ古代の物語に登場する
『口を閉じたまま黙って大人しくさえしていればね!』
残念なことにひとたび彼女が口を開けば。
そこからは
立ち居振る舞いだって下品そのものだ。
正直、めまいがする程に
そんな只今絶賛売出し中のビッチってのが第七音羽丸のアキコさんだ。
わたしがよく知る音羽村のアキちゃんとはまるで別人だ。
アキちゃんは何かと束縛の強いご実家を離れて、武装行儀見習というペルソナを手に入れた。
そこで何を血迷ったか間違えたか。
あるいは確信犯だったのか。
自由と言う名の毒ガスを胸いっぱい吸い込んで
大切に育てられたお人形さんの様な少女が思春期の
大人の女性に成る過程で無事脱皮を果たせばどうだろう。
さぞや美しい蝶となり世界を魅了するのかと思いきやとんでもない。
蛹から出てきたのは下衆な性悪女だったのだからたまらないよ?
このことをおじさまやおばさまがお知りになったらと思うと・・・。
幼馴染のわたしとしては胸が張り裂けそうな思いだ。
自由ってのはある意味恐ろしい。
あの優しくて聡明なアキちゃんの頭脳がたちまちおかしな具合にイカレちまったんだからね。
自由を胸いっぱいに吸い込んだアキちゃんがメタモルしたアキコさんの人格ときたらどうだ?
古代の御伽噺に“闇落ちしたエルフがオークになった”なんてのがあるけどさ。
アキちゃんがアキコさんへメタモルした椿事≪ちんじ≫はそれに匹敵するかも。
自由ってのは人によっては本当に危ない毒ガスかもしれないよ?
『だけどさ。
そもそも武装行儀見習い奉公のどこに自由があるというの?
名門マイヤーズ家の
第七音羽丸は動物園か遊園地みたいかもしれないけれどさ。
わたしに言わせれば自由の使い道を完全に間違えているね。
アキちゃんは』
わたしとしてはそんな風にも思う。
マイヤーズのおじさまやおばさまは
うちのケイコばあちゃんよりはナンボかましだ。
少なくともおじさまとおばさまには、
“行儀見習”の奉公が明けたらお嫁に行くなんてお約束があったとしてもだよ。
「隕鉄を求めて行き当たりばったりの航路を
ってわたしなら思うな。
だけどそんな第七音羽丸なんて言う
もしわたしがマイヤーズ家の娘だったらどうだったろう。
ポストアカデミーへの進学は泣く子も黙るエリートコースだからね。
第七音羽丸に乗るくらいならと、
取りも直さず武装行儀見習となったアキコさんが独創的な躁揺状態を生き始めた。
そのことに疑いの余地はない。
わたしが奉公に上がったのはアキコさんの翌年のことになる。
この春、ポストアカデミー受験を先延ばしにされた揚げ句にだよ。
わたしは武装行儀見習の奉公に出されることになったんだ。
第七音羽丸に放り込まれる直前。
わたしはケイコばあちゃんと最後のバトルを繰り広げていた。
戦いは凄絶を極めたからね。
わたしには幼馴染のお姉さんと旧交を温めるなどと言う
詰まるところ。
一年ぶりの帰港でご実家に戻っていたアキコさんとは、ついに会えずじまいだった。
わたしはケイコばあちゃんとの闘争で一敗地にまみれた。
しぶしぶ武装行儀見習の奉公に上がることを同意したわたしにアキちゃんの悪い噂は届かなかった。
あるいはご実家では猫を被っていたのかも知れない。
いやいやながらも第七音羽丸に乗り組むことが決まった時。
わたしはアキちゃんの事をすぐに思い出した。
だけど時すでに遅し。
彼女とは出航前に親しく話しをする時間が取れなかったのだ。
アキちゃん自身も出航の準備やら親戚への挨拶回りやらで、席を温める暇もなかったらしいけどね。
・・・やっぱり猫被ってやがったか。
そうしてわたしは出航した第七音羽丸の船上で、アキちゃんと一年ぶりに再開した・・・。
アキちゃんはアキコさんになっていた。
ようやく再開はしたのだけれど、彼女の
というよりも。
アキちゃんに何か悪いものでも取り
美しいナンバガキの果実はうっとりするほど甘い香りがする。
だけど見かけや香りと大違いで味は激辛で食べられたものじゃない。
そんな果実を小さいころに騙されて口に入れた時以上のびっくりだった。
『どうしちゃったのアキちゃん?』
訳の分からないまま原因をいろいろ考えてみたのだけれどね。
アキちゃんは昔から本が大好きだったことに思い至った。
するとどうだろう。
彼女のメタモルの遠因はそこら辺にありはしないか。
彼女が読み
道徳的に正しい名作に飽きたアキちゃんは子供が読んではいけない禁書に手を出したに違いない。
そうして彼女は大人が眉を
アキちゃんは図書館の人目に付かない閲覧室の片隅で。
誰もが目を覆い耳を塞がんばかりのアキコ形態になる為の準備をしたのだろう。
アキちゃんはご両親も友達も先生も気付かぬまま深く静かに密やかに。
今やアキコさんが自由自在に引き出してくる。
下衆で
他のクルーがどう思っているかは知らないけれどね。
少なくともアキちゃんを良く知る幼馴染のわたしはそう
アキちゃんが近所の子供達を集めて主催するごっこ遊びはリアルだよ。
彼女による役の割り振りや場の演出はそれはそれは凝ったものだった。
アキコさんはご両親から厳しい躾けを幼少の頃より受け、匂うが如く美しく上品に育ちつつあった。
だからだろうか。
彼女は人形よりも人形遣いに徹することを選んだ。
アキコさんはごっこ遊びの登場人物を自身で演じることは決してなかった。
彼女はもっぱら脚本演出に専念したのだ。
見事にセットされた髪を振り乱すことも美しいドレスを汚すこともなかった。
思い返してみれば彼女は、殺し屋とか荒くれ海賊といった乱暴者や下品な与太者が大好きだった。
皆から忌み嫌われるアウトサイダーの振り付けに、異常なほど熱心だったような気がする。
かく言うわたしも。
「アリーは無表情になると雰囲気が出て素敵ですね」
なんて
「ハードボイルドが似合うだなんてアリーだけですよ。
このわたくしが惚れ惚れするほどですもの。
格好が良いにもほどがあります」
なーんて旨いこと言われて、わたしはもっぱら暗殺者やテロリスト役を
その時の思い出は乙女心に刻まれたちょっと悲しい傷となり。
今でもわたしの小さなトラウマになっている。
わたしが一年ぶりに再会したアキちゃんは脳の筋を寝違えたか。
あるいは理性の
どちらか一方、あるいは両方を
彼女はアキちゃんの着ぐるみを着たアキコさんと言う見知らぬ変な生き物である。
わたしにはそうとしか思えなかった。
わたしにとってアキコさんとの再会はほとんどPTSD発症レベルの衝撃となった。
そのことは私の人生史の上から拭い去り難い事実だ。
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