第一章 解帆:2

 ふと脇を見るとスキッパーがわたしを見上げていたの。

スキッパーはこの船、第七音羽丸の船付甲板犬。

彼は同情に堪えないと言う目でわたしを見上げていた。

ジャックラッセルテリア特有の表現力豊かなしっぽをピンと立ててね。

そうして『元気だせや』とばかりに軽く小刻みに振って見せてくれる。  

わたしが頷≪うなづ≫くと彼は踵≪きびす≫を返し、自分の配置である舳≪へさき≫に向かって走り去ったわ。

 スキッパーは船乗りとしてはわたしの大先輩で当然年上だ。

ことによるとわたしよりずっと賢いかもしれない。

 無能な後輩としてはお約束通り。

『犬っころに同情されちまったぜ』

なんてね。

頭の中で口には出せない悪態をついてみたけどさ。

嬉しかったのは事実。

ブレースを握る手にグッと力を込めそう素直に思う。

『アリガトねスキッパー』

不覚にもジワリと目から汗が出そうになった。


 みんなが配置につくと舵輪が回される。

ホイッスルの合図とともにわたしたちは力一杯ブレースを引っぱる。

ヤードとブームが回転して帆の向きが変わり、船は針路を少し右にふった。

 ブームってのは一番船尾寄りの帆柱から後ろに向かって突き出している帆桁≪ほげた≫のことね。

ブームにはスパンカーと言う帆が張られている。

スパンカーは飛行機械の垂直尾翼に相当する帆。

普通の小さなヨットが持ってる帆に似ている。

 同時に甲板≪かんぱん≫からは見えないけれど。

フィールド下の船底では、水平帆が右旋回するカモメの羽のようにぐっぐっと傾いているはず。

水平帆というのは、飛行機械の主翼と同じ働きをするように設えられている大きな帆。


 船は斜め左後方からほぼ順風の風を受けている。

そうしてまるで飛行しているかのように。

海抜三百メートルに展張されているフィールド平面上を滑らかに帆走する。

 

 航海帆船であれば舳≪へさき≫や船腹を叩く波の音。

応力で歪む船体のきしむ音。

風をはらんだ帆と索具のうなり。

そんな海と風と船が奏でるハーモニーが絶えることはない。

 航空帆船では帆を膨らませ無数の索具を振動させる心地よい風の音。

そこかしこで作業に励む甲板員の声。

それ以外の音は聞こえない。

もちろん、航海帆船の様に風を受けた帆による船体の傾斜や。

波を乗り越えるときに起きるピッチングとヨーイングも無い。

 そんなだから晴天で順風に恵まれた今日みたいな日の航空帆船にはなんの憂いも無い。

わたしなんかの目から見ても、今日の第七音羽丸の調子はすこぶる良好。

「よーそろー!」

なんて船乗りの掛け声はね。

こんなご機嫌な航走を表現する業界用語に違いないわ。


 『こんなに良い風なのに何が問題なの。

もしやわたし、また何かやらかした?

それともさっきのアイスぼんやり白昼夢のせい?』


 「掌帆長なんだかピリピリしている。

どうしたんだろう」

先輩のリンさん。

リン・チャン・マルティノフ予備役伍長さんが心配そうにつぶやく。

「わたしったら。

またまたまたまた何か至らぬことをやらかしましたぁ?」

<ぼんやりアイス白昼夢>以外に思い当たる節がないけれどね。

他ならぬわたしのことだよ。

致命的な失敗をしでかしている可能性大だ。

「なんの。

あんたのやらかしたヘマくらいでさ。

掌帆長があんなにピリピリするなんてありえない」

リンさんはビレイピンに括≪くく≫り付けたブレースを点検しつつ、ちらっとこっちを見た。


 後甲板には予備役海佐ルートビッヒ・マオ・ブラウニング船長と同予備役海佐ルーシー・モウリ・モンゴメリー副長のお姿がある。

お二人は額を寄せあい、深刻そうな顔付で何か話し込んでいる。

 モンゴメリー副長は、航海長も兼ねた第七音羽丸のナンバー2だ。

マリアさんは士官ではない。

けれども実質ナンバー3の掌帆長兼甲板長としていつだって凛と背筋を伸ばしている。

マストとデッキ(甲板)に君臨する凄艶なお局様だ。

 

 そのマリアさんが余程怒っているのか緊張しているのか。

満面に笑みを浮かべてモンゴメリー副長の横に立っていらした。

 マリアさんが笑っている時は要注意。

明るく優し気な面差しがマリアさんの美貌を際立てている時にはね。

アレよ。

その後背にはいつだって。

わたしたちみたいな小娘を震え上がらせる暗黒の怒りが煮えたぎっているの。

無表情で不愛想なモードのマリアさんであれば皆んな一安心。

そんな時のマリアさまが、慈悲深く愛に満ちたサンタマリアなのはこの船の常識。

 マリアさんは甲板の状況に抜け目なく注意を払っているみたい。

だけど時折意見を聞かれるのかしら。

船長さんに向かってにこやかにお返事しているのが不気味過ぎる。


 内心びくびくしながら後甲板の様子をこっそりを伺っていると・・・ヤバいよ!

ブラウニング船長がこっちを見てわたしと視線を合わせた。

『まずい!

まずい!

まずい!

別にさぼっていたわけじゃないのに!

しっかりお仕事してたのに!

目が合っちゃったよ!』

ブラウニング船長はこっちを見ながらマリアさまに耳打ちする。

するとマリアさんは一層のニコニコ顔になると、こっちに向かって歩き始める。

いつの間にやら舳から舞い戻っていたスキッパーも一緒だ。

 わたしの顔は日焼けして少しは空の女らしくなってるはず。

だけどその時のわたしの顔色は、多分陸≪おか≫にいたときよりもずっと白くなっていたに違いない。


 「アリアズナさん。       

ルートビッヒ様がね、少しお話があるそうなの。

わたくしと一緒にいらして」

この世の者とは思われぬほどの美しい笑顔でマリアさんがそうおっしゃった。

すぐ隣にいたリンさんは、自分に振られた話では無いのにどうだろう。

大きな目を見開いたまま凍り付いて呼吸もしてないし・・・。

わたしは助けを求めてきょろきょろしたけれど誰もこっちを見ないの。

「アイアイマム」

声がかすれてしまい、うまく答礼ができない。

スキッパーだけがしっぽを振りながらわたしを見上げている。

静まりかえった甲板で目に見える動きはパタパタするしっぽだけだ。

スキッパーはわたしを元気付ける様に『ワフッ』と応援の声掛けをしてくれる。

お励ましの一声は嬉しかったけど、わたしは本当に泣きそうだった。


 「アリーちゃん。

またまたボンヤリ?

あたしが話しかけたらすぐお返事よ。

ここは陸≪おか≫とは違うの。

せめてあたしの前に居る時くらい緊張感もってちょうだいな」

目の前でヤレヤレ顔の船長さんがぼやく。

それは違う!

違うの。

わたしはなんだか色々てんぱってしまって声が出なかっただけ。

決して船長を蔑≪ないがし≫ろにした訳ではない。

「ルート。

・・・じゃないだろ。

今、アリーはむしろ極限の緊張状態にあるんだと思うぞ」

モンゴメリー副長がマリアさんの方をチラ見して、苦笑しながらフォローして下さった。

ありがたかった。

「アイアイサー!」

わたしは背筋を伸ばし、くじけそうになる気を取り直して、改めて船長に敬礼する。

「むかつく娘ねー。

今度はいきなりそれ?

あたしには“アイアイマム”っておっしゃいって何度も念押ししてるでしょ。

そりゃあたしはあんた達本職の女子から見りゃ、ただのおっさんかもしれいけれどね。

“サー”はないでしょ。

“サー”は」

ブラウニング船長がいきなりいじけ始める。

『しまった!』

モンゴメリー副長の背後に目をやるとアレだ。案の定マリアさんが、まるで天使のような笑顔でこちらを見つめていらっしゃる。

彼女の高貴な温顔の恐ろしさには、スキッパーすら尻尾を下げ視線を泳がせる始末だ。

わたしの頼もしい先輩ワンワンもマリアさんにはたじたじだ。

 わたしはブラウニング船長を崇め奉るマリアさんの怒りに追い焚きしてしまったようだ。

『どうやら罰直は縫い物だけではすみそうにないな』

真っ白になりかける意識の片隅でわたしはそっと舌打ちした。



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