風の精霊の音楽

みらいつりびと

第1話 姉の失踪

「とても美しい場所を見つけたのよ。広々とした草原が広がっていてね、そこに風の精霊たちがいるの。精霊たちは美しい風の歌を歌っている。その歌が綺麗で、いつまで聴いていても飽きないのよ」

 姉が辛い失恋をした時期に、よく言っていた話だ。姉は地元の信用金庫に勤めていた。職場内恋愛をして、婚約までしたのだが、彼氏が信用金庫の別の女の人と浮気をした。姉は大きなショックを受けて、仕事を辞めた。辞職してから、ひとり暮らしをしていた高層マンションの部屋に閉じこもりがちになった。わたしはときどき姉のようすを見に訪問していた。

「もうこの世界に未練はないわ。風の精霊の歌をずっと聴いていたい。あの世界で暮らしたい……」

 そんなことを言い出して、ついに姉は失踪した。

 わたしは姉の部屋の合鍵を持っている。

 五月の気持よく晴れた日曜日、そこへ訪問したら、食卓の上に置き手紙があった。

『お父さん、お母さん、祈里いのり、私は風の精霊たちの世界で暮らします。もうこちらの世界に帰ってくるつもりはありません。私のことは探さないでね。捜索願を出す必要はありません。私はしあわせなの。いままでどうもありがとう』

 もちろん姉の姿はどこにもなかった。

 不思議なことに、クレジットカードなどが入った財布やスマートフォンは残されていた。

 財布やスマホを持たずに、どこへ行ってしまったのだろう。

 本当に風の精霊たちの世界があって、そこへ行ったのだろうか。

 それとも、姉はどこか人の目にふれないところで自殺してしまったのだろうか。

 わたしは置き手紙を握りしめて泣いた。

 姉が好きだった。こんなことになるなら、もっと姉の話をよく聞いてあげればよかった。「わたしも風の精霊の世界に行きたい」と言えばよかった。姉の心に寄り添って頷きながら、その話を傾聴していたつもりだったが、心のどこかで、ああ、またこの話か、とうんざりもしていたのだ。夢みたいな話を信じてはいなかった。

 姉が失踪するほど深刻に精神を病んでいるとは気づいていなかった。

 姉の名前は飯野聡里いいのさとり。高卒で信用金庫に就職し、七年目だった。失踪したときは二十五歳。

 とても綺麗な人だった。儚げな美人。顔立ちは整っているのに、いつも少し悲しそうな表情をしていた。さらさらの黒髪を肩のあたりまで伸ばしていた。背は高くて、痩せっぽち。

 恋多き人だったが、悲観的な物の考え方をする人で、何度も交際し、何度もフラれていた。

 わたしは飯野祈里いいのいのりという。大学二年生だ。姉は美しい人だったが、わたしは可愛い系の容貌をしている。目が大きくぱっちりしていて、少し垂れ目。自分で可愛いとか言うのは恥ずかしいが、他人からもよく「可愛い」と言われるので、たぶんそのとおりなのだろう。髪の毛は姉と似たさらさらの黒髪で、外出時はポニーテールにしていることが多い。姉と同じく痩せているが、胸は大きめだ。

 姉ほどではないが、やや悲観的な発想をする傾向があるかもしれない。

 趣味はエレキギターの演奏。たまにオリジナルの曲を創って家の中で弾き語りをする。一軒家の実家で両親とともに住んでいる。

 親友はいるが、いまは恋人はいない。高校時代にハンサムな彼氏がいた。デートの行き先が釣り場ばかりだったので、別れた。「もう少しわたしのことも考えてよ」と言ったら、一度映画デートをしてくれたが、彼はつまらなそうだった。映画を見た後でけんか別れをした。

 そんなことはどうでもいいね。

 わたしは涙で濡れてしまった姉の置き手紙を両親に渡した。

 捜索願を出す必要はないと書いてあるが、父はすぐ交番に行って、捜索願を出した。

 見つかればいいが、たぶん見つからないだろうという予感がしていた。

「わたしの莫迦。姉さんのことを、何もわかってなかった……」

 わたしは後悔し、終日泣きつづけた。

 姉が失踪した後も、わたしはときどき彼女のマンションへ行った。部屋は十七階にあって、とても見晴らしがよかった。そこから見える広々とした関東平野の風景が好きだった。

 両親が姉のために買った部屋で、姉を探しつづけている父と母は、この部屋を売るつもりはないようだった。

 大学を卒業して、就職したらこの部屋に住みたいな、とわたしは思った。

 ここには姉が使っていたベッドや机や家電製品がそのまま残っている。使わせてもらってもいいよね、姉さん……。

 わたしはベランダに出た。さいたま新都心の高層マンションの十七階からは、関東平野、秩父山脈、奥多摩山脈、そして空気が澄んでいたら富士山も見える。

 ベランダでは緩やかに風が吹いていた。それが不意に、強い風に変わった。

 気がついたら、私はいつの間にか草原に立っていた。

 え? わたしはびっくりした。

 一瞬頭が混乱し、わけがわからなかったが、わたしは少し経ってから、姉の言葉を思い出した。

「とても美しい場所を見つけたのよ。広々とした草原が広がっていてね、そこに風の精霊たちがいるの。精霊たちは美しい風の歌を歌っている。その歌が綺麗で、いつまで聴いていても飽きないのよ」

 ここがそうなのだ。

 風の精霊たちがいる異世界。姉の部屋のベランダが、異世界につながっていたのだ。

 姉はこの世界にいるにちがいない。

 わたしは姉を探す決意をした。

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