アスファルトの海

兎紙きりえ

第1話 アスファルトの海

さっきまで、雨がザアザアと降っていた。

深い夜の闇に包まれた街の中を、もわっとした雨の香りが這いずり回る。

私は一人、その気配を掻き分けながら歩いていた。

夜の街は快適だ。

太陽の暑苦しい日中は、わぁわぁがやがや騒がしい街もしんと静まり返って、気分はまるで別の世界に飛び込んだみたいだ。

車のライトだってまばらで都会と違って人通りの少ない、ガラガラの車道を我が物顔で歩けちゃう。

昼間は彩り豊かに赤、青、黄色と繰り返す信号も、夜になれば黄色だけが取り残されてぺかぺか寂しく点滅している。

やっぱり夜は快適だ。

ちょっぴりの特別感と、この夜の街を知ってるのは私だけかもしれないという謎の優越感。

それらが甘い官能になって私の足を早めた。

今日は気分がいい。もう少し遠くへ行ってみよう。大人が起きるまでまだまだ時間はあるんだもの。

私はそこだけ視界の拓いた、幅広くて、それでいてどこまでも伸びてるようにも感じる国道にでる。

スマホアプリで地図を開けば目的地は国道を横切ったちょっと先。

歩道橋をカンカン鳴らして登ると、目の高さに信号がある。ここの信号はちゃんと三色だ。流石は国道。

彼方に続く黒の道を目で追えば、遠くの方に白と赤の光が横に二つずつ、縦にはずらりとたくさん並んで、イルミネーションみたいに光の線が出来ていた。

暫くぼぅと眺めていたけど、光がだんだん大きくなって、ぶぉんしゃーしゃーと車の走る音がどんどん近づいて、私は何でかも分からずに逃げるように歩道橋を駆け下りた。

とんとんとーん、とリズム良く一段飛ばしで降りていく。最後は三段、一気に飛んだ。

私の体が空を割いて、耳の近くで、ぴょうと風切音が鳴き、その後、着地の衝撃が足に伝って痺れた。遅れて髪の毛がサラリと流れる。

大人が居たら「はしたない」なんて言うかもだけど、夜の間の私は自由だ。最強なのだ。

人目の無いのをいいことに、スキップしたり、昔見たテレビの中のフィギュアスケート選手みたいにくるくる回ったりして道を進んでいく。

目的地の輪郭が見える。

広告看板だけがライトアップされた、お城みたいに大きな建物は、つい先日、この街でオープンしたデパートだ。

イマドキ化ってやつ?シャターの並ぶ商店街が未だに現役なこの街にとってその存在は異質めいていて、またも私は別世界に潜り込んだ気がした。

建物をぐるりと囲んだ植木は、お城を守る城壁か何かに見えて、でも、その植木の中にお酒の缶とかお菓子の袋とかが捨てられていて、私はこの深夜のデパートにもし人が住んでいるのならその人はきっと嫌われ者なんだろうなって思った。

植木の壁を越えると、白亜の城が顕になる。

遠目では読めなかった垂れ幕も、月明かりを頼りにすれば読めてしまう。

『この秋、オープン』『開店セール実施中!』

他にも『地域の皆様の応援で〜』とか続く垂れ幕を見つけたけれど、私はこの街の住人が口々にこのデパートを悪く言ってたことを知っている。

「企業の犬が」なんて精肉店のおじさん(商店街会長のごっついおじさん)が愚痴ってた。

でも、大人ってのは不思議なもので、散々悪く貶してたくせに、いざオープンすれば駐車場はいつも満員で、人が溢れんばかりの波になって押し寄せるんだ。

影では商店街を脅かす悪者として扱うくせに、自分だけになると途端に利便性に負けてデパートに足を運ぶのだもの。しかも、その足でまた商店街に帰って、商店街の大人達の輪に入ってぺちゃくちゃとまた悪口を言う。悪びれることもなくね。

ホント、変なの。

でも、そんなのは陽の当たる時間の話。

夜になるとバカみたいに静かになって、大人達は寝てしまう。

アルコールだとか、一日分の武勇伝とかに酔ってベッドに入り込んでぐぅぐぅと冬眠中の熊みたいに寝てしまう。

だから、この時間の、夜の世界に大人達は居ない。

それを証明するかのように昼間はたくさんの車でぎゅうぎゅう詰めなデパートの駐車場も、ぱったりと人の気が失せていて、黒くてのっぺりしたアスファルトだけがどこまでも広がっていた。

まるで夜の海みたいで、今にもぐにゃりと形を変えて波が起きそうだと想像する。あるわけないのに。

そんな自分がなんだかおかしくって、深夜の魔力にやられたのかもって1人で吹き出した。

しんと静まり返った海の中で、けらけらと笑う声だけが響いた。

ひとしきり笑ってると、海の入口にまつぼっくりが落ちているのに気が付く。

突然、私はなんだかアスファルトの海を確かめてみたくなって、黒の海の中へ蹴り入れた。えい。

ちゃぽんと沈んでくことも、ぷかぷか水面に揺蕩うことも勿論無くて、カラコロカラと乾いた音と共に海の上を転がって、やがて夜の闇に呑まれて消えた。

やっぱりアスファルトの海は本物の海じゃない。

それでも、私はこの海がどんなリゾート地よりも何よりも素敵な場所に思えた。

大人達が口を揃えて素晴らしいと説く伝統も地域の繋がりも、それがあの馴れ合いの商店街に繋がってしまうのだと分かると、途端に退屈で窮屈で、それでいて不純物たっぷりの卑怯さが垣間見えるようで好きにはなれなかった。

その点、この漆黒の海はただそこにあるだけ。

それだけで雄大で、力強くって、

何にもない自由が私には堪らなく羨ましく眩しく見える。

あ、眩しいと言ってたら、夜の暗さをかち割って、東の空が輝いてしまった。もうじき太陽がその顔を覗かせるのだろう。

それは、大人達がのそのそとベッドという洞穴から抜け出してしまう合図。

急がなきゃ。暗闇のヴェールが剥がされた道を小走りする。

息を吹き返した信号が青になるのを待って、白と黒にくっきり別れてしまった横断歩道をぴょんぴょん跳ねながら渡っていく。

目の前から退屈で窮屈な日常がすぐそこまで迫っていた。

背後では遠くなったアスファルトの海が凪いでいる。

向き直りたい欲を静かに抑えて、私は朝の空気を吸い込む。

振り返ればあの海の幻想が消えてしまう気がして、私はただ、また今夜と別れを告げた。

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アスファルトの海 兎紙きりえ @kirie_togami

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