ss

@azelas

ss文

木々の匂いを含んだ乾いた風が、涼やかに地表を撫でる。すっかり黄色く色付いた葉を運ぶ風は、もう季節の移ろいを感じさせるほど冷たいが、きめ細かなつやのある毛皮を着込んでいる彼にはどうということもない。木々の間から惜しみなく降り注ぐ陽光を浴びて温まった黒い身体には、むしろ心地好いくらいだった。

東方地域では高貴な色とされる香り高い香草の名を冠したその土地は、ラベンダーベットと呼ばれていた。穏やかに水を遊ばせる川のせせらぎ。季節を問わず色彩豊かに生い茂る草花。柔らかい陽射しに暖められた樹皮から微かに香る木の匂い。樹齢を数えるのも億劫なほど永い時を生きてきた大樹や、陽の光を浴びようといっぱいに枝葉を伸ばす若木。そういった自然に囲まれた土地に、その小さな家はひっそりと建っていた。彼にとって、もはや慣れ親しんだ庭先には大ぶりの銀杏の木が立ち並び、形良く敷き詰められた白い砂利の上にその葉を降らしていく。時折頭上や耳に引っ掛かる葉を払い除けながら、それでも彼は機嫌が良さそうに作業を続けていた。

空気の冷たさに反して腕や腹を大きく露出した出立ちの黒い獣。獣とはいうが、四肢を地面につけている訳ではなく、二つの足で大地を踏み締めるヒトと同じ外見をしている。大きく違うのは、全身が毛に覆われていることと、身に付けている装備からのぞく頭部は犬や猫に似た鼻の長い人外の形状をしているということだ。

素肌に引っ掛けたベストから伸びる腕は太く引き締まり、大柄な体躯は黒々とした豹のよう。目を惹く鮮やかな斑紋は虎を思わせる縞模様で、肩や目元を黄色く飾る。右頬の三本線の古傷と、口元に覗く鋭い牙が粗暴な印象を与えるが、青々とした夏空を溶かし込んだような瞳が愛嬌を残し、左頬に描き込まれた白い炎のようなペイントが精悍な顔付きを飾っていた。その顔は猫科の動物に近く、三角に尖った耳の間にある額からは、少しくすんだ赤いたてがみがうなじを覆うまでに無造作に伸びている。

黒い獣は今にも鼻歌を歌い出しそうに機嫌良く微笑みながら、片膝をついてしゃがみ込んだまま、手元の素材を専用の機材で撹拌していた。彼のような冒険者に時折納品を依頼される特殊な薬品を、慣れた手つきで次々と練り上げる。もはや第二の拠点になりつつあるこの家の庭先で作業をするのが、彼のここ最近の日課だった。

毛先の黒い長い尻尾がピシリと落ち葉を払いった矢先、黒い獣の耳がわずかに動く。彼が何かの気配を察知するのと同時に、周囲の風が不意に流れを変えた。魔力に押し流された空気は獣の髭を緩やかに撫で、何者かの到来を告げる。ここに転移してくるのは、限られた者だけだ。

彼は作業の手を止め、何かを期待するように庭の入り口へと視線を投じた。特に待っていた訳ではないのだと、誰に言うでもない言い訳を唱えながら、それでも心が沸き立つことに彼はなんとなく気恥ずかしさを覚えていた。このタイミングなら、ここに来る人物はおそらく一人だろう。

彼の期待に応えるように、入り口の景色は空間が歪むように歪曲する。瞬き一つの間に現れたのは、黒い獣に良く似た、しかし正反対の純白の毛並みを持つ獣だった。鍛え上げられた大柄の体躯は黒い獣と同等かそれ以上。暗い朱と黒で纏められた露出の少ない軽装には多数の暗器を帯び、闇に生きる者達を彷彿とさせる。そんな印象とは裏腹に、陽光を受けて輝く柔らかな毛並みはたてがみも含めて真っ白で、額当ての下からのぞく目元には一筋の灰色の斑紋が伸びて精悍な顔を引き立てる。瞳にはよく晴れた冬空のような柔らかい碧を湛え、猫科の動物を思わせる縦長の瞳孔は黒い獣の丸い瞳孔と比べるといささか鋭い印象を与える。短く整えられた牙は控えめに主張し、どこか幼さと硬質さが同居するような不思議な魅力を備えていた。左頬には黒い獣と全く同じ炎のようなペイントが施されていたが、その色は黒い獣を表すような黒。

白い獣は自身の家を見上げると安心したように息をつき、次いで庭先にある黒い人影を認めて口元を緩ませる。疲労が溜まっているであろう足を軽やかに進め、黒い獣と視線を繋いだ。肉食獣らしく大きく裂けた口の端を持ち上げて柔らかく微笑むと、纏っていた硬い雰囲気が一気に霧散する。


「いると思ったよ」


そう言って白い獣は苦笑する。それを受けた黒い獣は少し照れたように頬をかき、しかし嬉しさを隠そうともせずに牙をのぞかせる。


「ここにいれば、帰ってきた時に俺が最初に顔を見れるからな。おかえり、おつかれさん」


見上げてくる黒い獣に、白い獣はまた少し笑って、ただいまとだけ返す。一仕事終えて自分の家に帰っただけなのだが、この黒い獣はここにいる事が多い。今日のように待っている──本人は別に待っている訳では無いと主張している──こともあれば、仕事が終わる時間を見計らって転移してくることもある。その度にこうして嬉しそうに声をかけてくるのだが、こういった他愛のない日常が、白い獣は嫌いではなかった。

黒い獣は一言断り、中断していた作業を終わらせてしまおうと手を動かす。白い獣はその手元をしばらく眺めていたが、全身を覆う疲労を思い出すのにそう長くはかからなかった。体格に恵まれているとはいえ、ここしばらくの仕事はかなりの重労働なのだ。酷使した筋肉の悲鳴に加え、立ちっぱなしで足裏が刺すような痛みを覚えるのも致し方ないと思って欲しい。

白い獣は我が家に入ろうかとも考えたが、少しばかりの妙案を閃いてあっさりとそれを取りやめた。たまには、こちらから仕掛けて反応を見てやるのもいいかもしれない。なにより、単純にひどく疲れていて一刻も早く座りたいだけだ。決して、何かを期待している訳ではない。

相棒を待たせるまいと手を早めている黒い獣が扱う機材を抱え込むようにして、白い獣はゆっくりと腰を下ろした。地面にどっかと胡座をかき、長い尾を丸めて顎を持ち上げる。そうすると膝立ちの黒い獣を見上げる形になり、ともすれば互いの吐息を感じる距離まで碧眼と蒼眼が近づく。

黒い獣は薄く目を見開いた。普段は自分が何気なくやっていた事だが、いざやり返されるとかなり面映い。何より白い獣の口の端が上がっている。やられた、と思った。こいつの方から距離を詰めてくれることはそう多くはないのだが、だからこそ不意にやられると自分には効果覿面である。不覚にもわずかに固まってしまった黒い獣の尻尾は、動揺と嬉しさを表すかのようにピシリピシリと砂利を打っていた。

黒い獣は悔しいやら照れくさいやらで何も言えず、とりあえず白い獣の──にやにやとした──視線を受け止めながら作業を再開した。なんとか反撃の糸口を掴もうと思案していたが、それなら、と思い立ってとりあえずキリのいいところまで作業を進め、機材を脇にどけた。細かい道具を収納するのもそこそこに、わざとらしく「よっと」などと呟きながら、そのまま白い獣に向かい合うようにして胡座をかき、上体を少し前方に傾ける。

互いに前に突き出た鼻が触れ合う程にまで距離が近づく。今度は白い獣が目を見開く番だったが、離れようとはしなかった。きっとそうするだろうと、黒い獣にはなんとなく分かっていた。

ここまで近づいてしまうと、いっそ不思議と照れくささは薄れていた。自らの鼓動が早さを増したのをどこか遠くの出来事のように感じながら、黒い獣はまっすぐと碧眼を見つめる。冷たく硬質で、けれど柔らかな陽射しをゆっくり届ける優しい冬の朝空。そんな瞳が逡巡するように一度だけ揺れたが、逃すまいとまっすぐ蒼眼を見つめ返す。綺麗だ、と、黒い獣はぼんやりと思った。


「……またすぐそういう事を」


目の前で白い獣が恨みがましく呟き、黒い獣は初めて気づいた。思わず口に出ていたらしい。

彼は悪戯がバレたのを誤魔化すように苦笑し、改めて視線を結ぶ。かつてない距離。気のおけない奴が、常に頭から離れない人が、こんなにも近くにいる。黒い獣は満ち足りていた。何も隠さず、何も飾らず。ただ想いが伝わればいいと、伝わるはずだと、そう思う。知って欲しい。教えて欲しい。こうして隣にいる時も、離れている時も。いや、満ち足りてなどいない。全然足りない。本当は、もっと。もっと。

ああ、やはり自分は、こんなにも。

黒い獣はそれに改めて気づく。その喜びを全身で感じながら、必死で頭を巡らせていた。

俺は。俺が。言葉を選ぼうとすると、なかなか決まらない。

俺と。そう伝えたかったが、その言葉は、まだ。いつかの為に、大切に、とっておこう。

黒い獣は笑って、別の言葉を口にした。


「……俺さ、幸せだよ」


一緒に居て。同じ時間を過ごして。声を聞いて。目を合わせて。出逢って。

こんな気持ちに、させてくれて。

黒い獣は少しだけ、身を乗り出した。白と黒の鼻が触れ合う。黒い獣は嬉しそうに目を閉じ、白い獣はそれを見て笑った。同じように目を閉じ、ただ「うん」とだけ返した。


白と赤のたてがみに、黄色い葉が降り注ぐ。木漏れ日と木々のさざめきの中、互いの匂いを間近に感じる。誓いを立てた日も、確かこんな晴れた日だった。穏やかな午後の時間が、ゆっくりと過ぎていく。彼らにとっての記念日が、もう間近に迫っていた。

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