ぼくの情緒を殺した夜に

三浦周

ぼくの情緒を殺した夜に

 夜明けの眩しさってのを、いつもぼくは太陽が沈むまで忘れてしまう。

 当たり前なんてものはどこだってそういうものだ、ネクタイかけたリーマンが偉そうに言うのを飲み屋で聞いた。

 ぼくは、それが良いとは思えないのだ。

 現にぼくは忘れつつある、特に気にするぼくでさえだ。隣の男はビールを飲み干し、臭いげっぷを盛大に吐き出す。目の前の男はそれ見て笑う。

「気にしすぎなのよ、終わりは誰にも来るもんだからさ」

 暫時の宵は悠々過ぎて、またこれらにも終わりが近づく。十人そこらの烏合の衆が、これや最後とジョッキを合わせて、札や小銭を皿に乗せてく。

 とうとう、ぼくの目の前にも黒い皮張りの皿が回った。財布を見れば、三千円と十円玉と一円玉達。馬鹿らしくなり、逆さに投げ込む。これでぼくは一文なしだ。

 酔った奴らは気付きもしない、ぷかぷかタバコを肺にくぐらす。だから、皿を次へと回す。

 ああ、馬鹿らしい。ため息が出た。

 こんな泥水の何が美味いか。それが気になり、隣を誘う。あの知ったかぶりのリーマンのことだ。


 この後、これで一杯どうです


 簡単なジェスチャー。

 男は喜ぶ。

 一昨年結婚したという、彼の弱さが身に染み入った。けれども、この男も悪くはないのだ、人間だからそういうもんさ。

 さてと、繁華街なんてのは無駄に光って鬱陶しくなる。酔った大人はふらふら歩き、学生なんぞは騒いで楽しげ。しかして、裏道一本行けばヤクザやゴロツキも山といるのだ。

 ちょっと歩けば綺麗な女が、うちでどうです、なんていうから、どこでもいいさと店に着いてく。

 椅子に座って、また酒を飲む。

 もう勘弁だと言いたくなるけど、入ってきたのは自分自身だ。薄暗闇の天井に光る、電気はぐらぐら揺れ始めてる。ああこれがお天道様なら、こんなふうには思わないのに。

 女が注ぐ酒の不味いこと、先程の酒よりもっと酷いや。隣の男は上機嫌だがこんなものの何がいいのか。

 それから、女がしなだれかかった。耳元狙って声を潜めて、良い男ね、なんて誰にでも言う。

 ぼくは女の胸を揉みしだく、意味のないことに握力を使った。

 その間、ぼくが見つめているのは女の谷間を眺める男、つまりはあの偉そうなリーマン。


「奥さんも明日死ぬかもなのに」


 言葉をダンスミュージックがかき消した。


 さてと、隣の女ももううざいだけ。軽くなった空財布からカードを取り出し、会計を頼む。


 用事ができたと嘯きながら、クレジットカードの番号を入れる。


 まぁ、もうすこし楽しんでくださいとにっこり笑えば、「じゃあまた来週」そうして別れた。


 最終電車はとっくに終わり。タクシーの列も少なくなってる。帰りの道は徒歩二時間だ、酔っ払いには少々きついか。


 しかし歩こう、無駄遣いはダメだ。


 ふらふらしながら、南へ南へ。見知った道路を沿って歩いた。


 深夜の街は昼よりひんやり、とはいえ雪虫には早かろうに、橋を通ると服にこびりつく。


 ぼくはそれらを乱暴にぶつ、汚いからと盛大に払う。


 そのせいだろう、息が上がって、またとぼとぼと歩き始める。


 ああ、また川だ。けど通らねば、帰りの道は遠回りになる。ぼくは懐より煙草を取り出し、百円ライターで火を灯し出す。


 吐き出す息は、冷気か煙か。わかりはしない、酔ってるからだ。それでも雪虫達は見えなくなって、ぼくは意気揚々と足を動かした。


 どれほど、歩いていたのだろうか。


 昔の恋人から、もらった時計が午前5時過ぎを指し示してる。忌々しい金属を腕に巻いても、時間くらいしかわかりはしない。


 歩きながらも今日を思い出す。


 確かに、あのリーマンも正しかった。

 あのおねえちゃんも、必死で生きてる。

 雪虫達にすら、命があったはず。

 

 そして、とうとう太陽が地平を追い抜く。

 暗かった夜を駆逐していく。


 家まで僅かな距離の公園に着き、蛇口で顔を盛大に洗う。そのまま胃に上る酸が喉を伝って、マンホールへと流れ出してく。


 スーツはクリーニングに出さなきゃ、いけないな。


 つまりは、ぼくも五十歩百歩だ。


 また、ぼくは汚れたネクタイを締めた。

 

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ぼくの情緒を殺した夜に 三浦周 @mittu-77

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