一 訪れ
僕の恋が始まったのは10歳の時に学校のクラスメイトから聞いた噂話からだった。僕が密かに想いを寄せていたクラスメイトが僕を好きだという話だ。
不思議なことに想いを寄せていた時は恋をしていたとは思わなかった。目の渇きを意識せずとも瞬きをしているように自然と想いを寄せていたため、それの始まりについては知らない。
彼女のどこにどう想いを寄せていたのかと言うと、これといった理由はないが、だからこそ純粋な想いだったと思う。
いつからか僕は、何事にも理由や意味を付けて消化を計り、それに囚われ、打算的な欲に思考を任せることになる。悲しいかなそれら2次的なものは決して芯を捉えない。それどころか形にしようと作れば作るほど本質から離れてしまう。あの時の想いは純粋な渇望に他ならなかった。初恋が綺麗であるのはそこに意義がないからだろう。
しかし愚かとも思える打算的な思考からの言葉はこの上なく人を喜ばせるのも事実だ。もしも当時、彼女にどこがどう好きか問われていれば必死に言葉を作っただろう。なんとなく好きという以上の言葉はないだろうに。
噂話を聞いたのは小学4年生の掃除の時間だ。掃除は男女3人ずつの6人の班ごとに場所が分かれていて、その時の僕の班は体育館裏の掃除だった。給食の後ということもあり、お腹が満たされて1日で一番気持ちの良い時間だった。
太陽も同じようでその時間はたいそう機嫌が良く、いつも高いところまで昇って、ポカポカという胸の高鳴りを響かせていた。そんな太陽と僕らを隔てるように静かに佇む体育館。その大きな背に隠れ、僕らはちっぽけに動いていた。
僕らを覆う体育館の影はまるで僕らを守るように灰色の領土を示し、木々もそれに便乗してそれぞれの位置に付き、僕らの護衛を務めてくれた。
明るい日陰のもと、落ち葉のしっとりとした香りを鼻で感じ取る。その心地よさに水を差す学校から課せられた竹箒。
普段はあまり交流のない男子と女子も班での共同作業ということ、また体育館裏という先生の目の届きにくい場所ということが相まって、話には花が咲いた。
落ち葉を払う竹箒のザァザァと地を撫でる音と、噂話のキャッキャと盛り上がる声は海岸の波の押し引きのような攻防を繰り広げる。
先生を恐れない不真面目なユウマ、おしゃべり好きのクルミは口を動かし、大人に従順で真面目なタカヒロ、見回りの若い男性教員に褒められたいミカ、彼女と仲の良い内気なサナエは手を動かしていた。
双方の動きは意図せずとも完璧な自然の法則の流れに従って動いていた。
人は例え学校が定めた小さな白線は越えられても、自然が定めた大きな白線は越えられない。逆説的に言えば自然の法則によって学校の校則は破られるのだろう。
この時の僕は心の自然的本能と、親や先生のいいつけにより形成された社会的理性とが互いを揉みあって、ああでもないこうでもないと、不定の思想を築いていた。しかしそれさえ大自然に含まれる一つの動きに過ぎなかった。人が人を抑えることも、それを破ることも、落ちゆく一枚の枯れ葉が幾度なく描いた道であり、一枚一枚、一人一人、すべて違えどもそこに新たな法則は生まれない。右へ左へ彷徨い落ちる。
そんな具合に揺れ動く僕は凹凸を埋めるように隙間に入った。
この時は3対2で少数派だったしゃべる方に加わった。
3人真面目にやっているのだから、掃除が進まずに怒られることはないだろうという安易な考えだった。
しかも真面目組の不満が募ると先生にチクられることを知っていたので、広げられそうな話は真面目な3人も巻き込んで話を膨らませたりした。
例えば誰かの秘密を知っているとはしゃぐクルミ。注目されたいのか、共有したいのか、はたまた口が滑ってしまうのか、とにかく話を聞いてほしいという気持ちを察して盛り上げようとそれをクイズ形式にしてみんなで当てっこした。意外と真面目なタカヒロはクイズに答えたがるようでしかも答えは的を得ていたように思う。
チクられないためとは言ったがそれよりも楽しむためにそうしていたという方が正しいかもしれない。子供というのは未成熟ゆえの単純性からか一体感が強く、6人で楽しむということが容易だった。人は成長すると木の枝のように細分化されて行き、一人一人に複雑な差異を生じさせる。それはより強い個性を備えるのだろうが必然的に一体化し難くなるのだろう。あの一体感は子供特有の雰囲気だと思う。
そうやって話が盛り上がっていくと、今度は意外にも真面目組のサナエが秘密の話を提供した。それはクラスメイトに僕を好きな女の子がいるというものだった。僕はそれを聞いて胸が高鳴った。人に好かれるというのは誰からの好意であろうと嬉しいものである。その時以前にも2人から好意を寄せられていたことがあったが今も忘れず憶えているのだからやはりそれだけ嬉しいことなのだろう。
当時の僕は照れていたのか、カッコつけていたのかそれを表には出せず、興味ないフリを決め込んでいたが、このような見栄っ張りが災いし例の噂話も聞きづらく他人任せにして、もどかしい思いをしていた。
もちろん当てっこクイズは始まったがサナエは真面目組だけあって秘密を打ち明けることに抵抗があったのかクイズは成立しなかった。
そうしているうちに見回りの先生が掃除の最終確認にやって来た。僕は強烈にその話が気になった。というのも、この時僕は心当たりのようなものが閃いたからだ。僕は人のことをよく見ていた。人を見ては心の中で羨んだり呆れたりしていた。例えばユウマはたびたび問題行動を起こして先生に監視されていた。中でも印象に残っているのは図工の授業中に針金をコンセントに突っ込んだことだ。瞬時に火花が散りバチンと音が鳴った。先生が何事かと困惑する中で誤魔化すユウマ。しかし親指を一文字型に軽く火傷した指とコンセントにコの字で差し込まれた針金の状況証拠でユウマは先生にバレてしまった。そのように何かと事件を起こすユウマは要注意人物として先生に付き纏われていた。先生を煙たがるユウマの姿を見ては馬鹿だなぁと呆れた。しかし先生もユウマに世話を焼く分、甘くなったり特別扱いするようになり羨んだりもした。そうやって人を見ていると、僕の方は人を見ているのにあまり人とは目が合わないと感じたものだから、やはり僕は人より人を見ていたのだと思う。そんな中でもよく目が合うと感じていたのが僕が想いを寄せていた女の子マリだ。彼女とは10秒に3回くらい目があったこともあった。その度に冬場の静電気の様にバチッと心が弾かれた。何度繰り返しても褪せない心音だった。僕は彼女に何か訴えようとか、好意を知らせようとは微塵も思わなかった。だから意味もなく人と視線が合う行為を悪いと思いすぐに目を逸らしていた。目が合うことについて当時の自分がどう考えていたのか、はっきりと覚えていないが好かれているとまでは考えなかったように思う。しかしサナエからの秘密話を聞いた時にマリであって欲しいという願望とそのことが結びついた。青葉に乗る複数の水滴同士が重なりその増した重みに急降下するように、思い込んだ気持ちは止まらなかった。なぜだかマリは僕を好きに違いないと思い込んだ。みんなが見回りの先生の所へ集まる時、サナエを呼び止めた。そしてその子はマリだよねとあたかも確認するように聞いた。早まる気持ちが言葉に表れたのだと思う。サナエは「知ってたんだ。」と答えた。カマをかけたつもりはなかった。そのような狡猾な手も使えただろうが、この時は
初めのうちは検討もつかなかったその音は日が経つにつれて徐々に大きく鳴りその正体不明の音に不安を憶えた。
嬉しいはずの出来事に不安を憶えるのは初めてのことだった。
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