第6話「不穏なやり取り」

「モキュッモキュッ!」


「うるさい、そんな事出来ないって言ってるだろ!」


「モキューーーーッ!」



 二人が何を話しているのか……。嫌、揉めているのか。

 蚊帳の外のバウルとゼーゲンには理解出来る筈もない。


 先程最低限の意思の疎通が図れたバウルでも流石に会話の仔細を把握する事は出来ず、ただ二人の言い争いが終わるのを待つのみだった。



「このエロ猿が! そんなに女風呂が覗きたいなら一人で行けよ!」


「モキュッキュ!」


「だから何で僕も一緒何だよ!」


「モッキュー!」


「兄弟同然だからって犯罪に巻き込もうとするなバカ!」



 しかし、張り詰めた空気の中で繰り広げられる二人の言い争いは段々と不穏な内容に変わって行った。



「モキュー……、モキューーーッ」


「1ヶ月女の子の裸見て無いくらいで死ぬって言うなら今すぐ死ねアホ猿!」


「モキューモキューモキュー!」



 ダンダンッ――。カイツに死ねと言われると地面を何回も蹴り、文字通り地団駄を踏んで絶叫するフィル。

 フィルが何を言っているかは分からない。

 分からないが、全てカイツが口にしてしまった為丸分かりだった。


 何だこの猿?


 最初はバウルに懐いて来ていたように見えた為、バウルもゼーゲンも愛らしい小動物だと誤解してしまったが。

 実際このエロ猿はこんなしょうもない事を画策していたのか……。



「モキューモキューモキュー!」

(女の裸女の裸女の裸!)



 ああ、何故だろう?

 今だけ、何故か今だけこの猿が何を言っているのか理解出来るような気がする……。



「モッキュー! モッキュー!」

(裸を見ないと死ぬ! 今すぐ女風呂を覗かせろ!)



 ああ、何て浅ましい猿なのだ……。

 こんなエロくてバカな猿を一瞬でも可愛いと思ってしまった自分が情けない……。



「見たいなら一人で行けって! そして覗いてるのがバレて捕まって酷い目に合って来いよ!」


「モキュ、モッキュー!」

(嫌だ、カイツと一緒に覗く!)


「だから、何で僕も一緒何だよ!」


「モキュッ」

(オレが楽しい事はカイツも楽しい)


「楽しく無い! お前みたいなエロ猿と一緒にするな!」



 ふむ、完璧だ。

 絶対にこの猿は今こう言っている。


 酷い……、本当に酷く醜い言い争いだった。

 止める者も無く、延々と繰り返される二人のしょうもないやり取り。


 カイツが怒ってるのも無理は無い。

 と言うか、バウルが同じ立場ならフィルの頭をぶん殴って黙らせていただろう。

 その点、カイツは優しいと思えた。



「もう……、我が儘ばっかり言うなよ。兄弟だろ? フィルがお兄ちゃんなんだろ? 皆に迷惑掛かるから部屋に戻るよ?」



 このままでは埒が明かない。

 そう感じたカイツは悲しげな表情を浮かべフィルにそう問い掛けると。

 彼に手を差し伸べ、部屋へ戻ることを促した。



「モキュ……」



 フィルはカイツの言葉を聞き、差し伸べられた手を見ると一声弱々しい鳴き声を上げた後カイツに歩み寄り彼の手を握った。



「お姉ちゃんに言われただろ? 他所の土地で粗相したらぶっ殺すって」


「モ、モキュ……」


「そうだろ? お姉ちゃん怒らせると怖いからな。お姉ちゃんに会ったらちゃんと大人しくしてたって言ってあげるから我慢しろよ?」


「モキュッ」



 フィルがカイツの手を握った瞬間、バウルには二人に重なる過去の光景が見えた。


 バウルが悪さをして説教に現れたザイン。

 最初は怒り狂ってバウルを怒鳴り散らしはしたが、最後には今の二人のようにバウルの手を引き優しく諭してくれた。


 バタンッ――。下らない、本当に下らないやり取りが終わると、二人はゼーゲンにもバウルにも目もくれず部屋を出ていってしまった。

 暫くは扉の閉まった音だけが反響し、取り残された二人の間には沈黙が流れた。



「何だったんだろうな……? 正かフィルくんが煩悩丸出しのエロ猿とは思わなかったよ」



 そう言って見せ付けられた光景を振り返り唐突に笑い出すゼーゲン。

 だが、バウルの返答は無かった。



「バウル?」



 胸が焼けるように熱かった。

 罪の意識、父を見殺しにした男。


 だから避けるのか?

 だから逃げるのか?


 人と獣ではあるが、今見た二人は過去のザインとバウルのような関係を築いている。

 信頼を越え、親愛を抱き、兄弟同然に接している。


 懐かしさもある、後悔も重なる。

 だが、何よりあの子から逃げてはダメだとこの時になってバウルは初めて思うようになった。



「ゼーゲン……すまねぇ!」



 そう言うや、バウルは部屋の扉に向かって駆け出した。

 まだ依存症の症状が残っているのだろう。足元がおぼつかずフラついてしまうが。

 それでも前に進むと決意した彼の足取りは大地を踏み締め、カイツを追うべくドアノブに手を掛けた。


 ああ、行ってこい。

 過去に縛られ続けるお前なんてもう見たくないからな……。


 バウルの言葉を聞き、彼の背中を見守りながらゼーゲンは心の中で彼の決意を後押しした。

 漸く止まっていた時が動き始めたような気がした。

 漸く皆が笑い合える日が訪れた気がした……。


 ドガッ、バキッ!――。筈なのだが、バウルがドアノブに手を掛けた瞬間。扉が三度、カイツが訪れた時よりも荒々しく開いた。



「フギャッ!」



 凄まじい勢いだった……。

 新たに来訪した者は蹴破る程の勢いで扉を開いたものだから。その直ぐ前に居たバウルは分厚い木の板の直撃を喰らい情けない声を上げて吹き飛ばされてしまった。


 今度は何だ!

 と言うか誰だッ!


 折角バウルが前ヘ進む決意をしたと言うのにそれを邪魔するように突然現れた人物にゼーゲンは憤りを覚えたが。



「何処だバカウルッ! テメー帰って来たら真っ先に私の所に顔を出しなさいよ!」



 来訪者の顔を……、と言うか怒声を聞いてゼーゲンは頭を押さえた。


 そう言えば念の為に呼んでおいたのだった。

 バウルが又この地を離れると言い出せばゼーゲンでは止められない。

 だから、今この世界で唯一バウルが逆らえない人間を呼び寄せていた事を今になって彼は思い出した。



「ちょっとゼーゲンさん! バウル居ないじゃないの!」



 本日最も不躾な来訪者は視界の中にバウルが居ない事を確認するとゼーゲンを問い詰めた。

 話が違う、此処に居るって聞いてきた。

 そう言いたげにゼーゲンの前に立ちはだかったのは、私服と言うには余りにもきらびやかな真っ赤なドレスを纏った女性だった。


 身長は女性にしては長身で170を越える。

 決して小柄では無いゼーゲンと同じくらいだった。



「はぁ……、バウルならそこにいる」



 余計な事をしたのは間違いないが、そもそも自分が呼びつけた相手なのだ。

 彼女の行為を責める気にもならず、ゼーゲンは端的にバウルの居場所を指差した。



「そこ……? ってバウル、あんたそんな所で何してんの!」



 嫌お前が吹き飛ばしたんだよ、扉を開けた勢いで……。



「だ、ダメ……完全に気絶してる……」



 そりゃそうだろうさ、あんなにも凄まじい音を立てて扉に弾かれたのだから……。



「あんた……まだ意識を保てなくなるくらい酒飲んでるの!」



 だから違うって……、お前がジャストなタイミングで扉を蹴り開けたからだ。


 本来ならそんな突っ込みをしなければならなかったが、最早ゼーゲンに的確な突っ込みを口に出す気力は無く。

 ただただ深い溜め息をつくばかりだった。


 少しずつ、ほんの少しずつ何かが変わろうとしていた。

 止まっていた筈の時が動き出そうとしていた。


 漸くお前が守った人間全員が幸せになれる日が来た。

 きっとお前も天国で微笑ましく見守っているんだろ。

 なぁ、ザイン……。


 もうこの世には居ない友に語りかけながら。

 今はまだ未遂に終わってしまったバウルとカイツの和解を惜しみながら。

 ゼーゲンはただ一人、動き始めた時を祝福していた。

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