恋の Koinobiont
田村らさ
1.
『又言身中有三尸、三尸之為物、雖無形而実魄霊鬼神之属也。欲使人早死、此尸富得作鬼、自放縦遊行、享人祭酹。是以毎到庚申之日、輒上天白司命、道人所為過失』
――――《抱朴子・微旨篇》
[koinobiont]〔名〕寄主を生かしたまま寄生する寄生虫。飼い殺し寄生虫。
一
早鐘を打つ心の臓を抑えて暗さのせいでおぼつかない帰路を小走りする少女を、ただ月だけが照らしていた。
まだ残っている痛みと違和と、ほんの少しの胸の高鳴りは怖れなのか嬉しさなのか、その両方なのか、まだ十分幼いと言えるだろう彼女には、判別を付けることができなかった。それは彼女が父親の生業の都合で幼いころから年齢不相応に接してきた洒落本の類で見た通りであったが、思っていたものとは全く違うものであった。
この胸の痛みは、口封じ代わりに懐に収められたのだろう、彼女にとっては少し背伸びした色使いのかんざしの先が走るたびに当たっているだけなのだ。えぇ、そう。ひょっとしてなんてことは、ないのだから。
二
掘割に湧いたぼうふらに目を向ければ、彼らも彼らなりにするべきことがあるようで、寺子屋の師匠として町の子らに読み書きそろばんを教える程度の、気楽な日々を過ごす
文政四年の葉月、お天道様もいつになく力強く。華のお江戸の片隅でひっそりと浪人をやっている一瀬織居は、因幡町に構えた自邸を出て、ふらふらと近隣の寺へと向かった。
織居は今年で四〇になる浪人で、定職につかず、かといって町内の浪人が講を組み行っている内職の分業へ加わることもなく、漢籍へ熱を入れあげた父親が老後の道楽に始めた寺子屋を継いでいた。織居自身は特段漢籍にも和算にも、あらゆる教育といったものに通暁しているわけではなかったが、かといって元服前の子らを教えるのに大した知識が要るわけもなく。もらってよいものか悩みつつも受け取る謝儀で、つつましいながらものんべんだらりと日々を過ごすことが出来ている。
と、いうのも、二〇年ほどまえに迎えた妻が、初めて子をもうけた際に死産をし、その子の後を追うように産褥で逝ってしまったために、彼自身の食い扶持を稼ぐだけでよかったからであった。その当時は大きく嘆き、二度と他の妻を迎えるものかと操を立てたものであったが、何のことはない寺子屋師匠の後妻にもらわれようという奇特な女もあるはずはなし、跡取りの不安もあるものの、そういったことに口うるさいふた親は既に死別し、結局一人身を貫いている。
さてところで。今日は
庚申の日に町内の皆で寺や神社などに集まり、夜を徹して神仏を祀る行事のことである。本来は信心に基づいた行事であるはずだが、いつの間にか町内の寄合とほぼ意味を同じくし、さらにいつの間にか酒なども振る舞われ、ただの宴会となり、今ではこれを楽しみにする町民も多い。
しかし、普段は気楽な素浪人の織居といえども、庚申待ばかりは苦手であった。なぜならば、寺子屋で受け持つ子らの親と顔を合わせる羽目になるからだ。
自らの子育てのなってなさを棚に上げて、寺子屋でのしつけがなっていないと愚痴をこぼす母親だったり、娘がお前のところの悪ガキに誑かされていると見当違いの因縁を付けてくる父親だったり、ともかく酒の入った席で、こういった子どもに関する日々の鬱憤はおおむね彼の元に集められることとなる。
足取りも重くなろうというものである。子を持つ両親の前に苗字帯刀が何の力を持とうか。
特に今年十五になろうという、貸本屋の娘などは大変である。ふた親ともが娘の教育に執心で、そもそも十五にもなって娘を嫁にも出さず今だに寺子屋で読み書きを学ばせているというのが織居としても信じがたかった。
その娘の名をなつという。なつはとっくに読み書きそろばんは会得しており、今では彼女より年若い生徒の指導を手伝ったり、支那の古書を読み漁ったりしていた。四書五経や朱熹なら織居も幼少のころに修めたので分るのだが、老子荘子に始まって抱朴子までの道家や、漢書に資治通鑑といった歴史書、果ては解体新書をはじめとする医学書の類までに手を伸ばしているとなると、もう織居の手には負えなかった。
嫁に行けばなんの役にも立たぬことばかり学んでいるなつだから、その貰い手もおらず、それにはなつ自身というよりも、当然ふた親が悪い、としか言えないような状況がある。
寺子屋にはじめて来たときから、彼女のふた親はそこでなつに〝変な虫〟がつかぬようさんざ織居に求めてきたし、そうやって蝶よ花よとふた親ばかりがかわいがるうちに、恐れをなして男衆は彼女を敬遠するようになり、完全に時期を逸したなつはなつで〝本の虫〟に取り憑かれていて、男には興味がない有様。
しかし女の身で学問を修めたところで任官の道があるわけでなし、かといって寺子屋を開くわけにもいかず、遊女の身に堕するには
といったようなことを、今日はなつのふた親と話し合わなければなるまい。気が重い。自然に口からため息が出る。
半里ほど歩いて、そろそろ例の庚申待を行っている寺が見えてきたころ、織居は珍しい顔に会った。片手をあげるとあちら側もこちらに気づいたようだ。
「これは、嘉介じゃないですか。あなたも、庚申待に?」
「や、先生じゃねぇか。お久しぶりです。ちょうどこの時期はうちの稼業も暇でしてな、やっと親父の締め付けも緩んで外に出られるってわけです」
かしかしと頭の後ろ側をかきながら答える。
「それはよかった。そろそろ父上の御眼鏡にかなうものは作れるようになったんですかね?」
「はは、それはまだまだです。見た目はともかく、どうしても俺が作ると甘くなりすぎましてな」
「私はあなたの作るものも嫌いではありませんが……」
嘉介は町の菓子屋の長男である。鶴屋という江戸でもかなりの大店である菓子屋を彼は継ぐ予定で、元服して以来彼の父上の元で修行を続けている。今は二十二で、そろそろ父上も隠居して、彼が適当に嫁を貰って跡を継ぐのではないか、というのがもっぱらの噂ではあるが。
職人としては、当然難解な漢籍だのそろばんだのを習う必要はないのだが、そこはそれ、町人のたしなみとして当然嘉介も元服する手前まで、ずっと織居の元で手習いをしていた。優秀とも愚昧とも言えぬ中途半端な物覚えで、かといって花鳥風月を愛でる五言絶句に対する感受性は豊かなもので、なるほど芸を重んじる家系の気質であることだなぁと思ったものである。何度か手習い紙の裏側に手すさびに書いていた川柳などは粋なものであった。
そんな風流人の嘉介であったから、浮いた話も多かった。そして、それこそが問題であった。
これで彼も長男としての自覚を持ち、もう少し落ち着いた人間であったなら、いい加減に嫁を貰ってきて安心して屋号を継げるというものなのだが、色話も多い嘉介は、遊びの女なら何人も作るものの、ふた親に紹介するところまで行かずに袖にしてしまうことが多く、かといって親の持ってくる縁談には嘉介自身が首を振らなかったり、相手側の家も嘉介の余りの手癖の悪さに辟易したりで、全くまとまらない。
おまけに嘉介の家がけっこうな名門で、なんと数代前までは名の通った武家の身分であったらしい。諸事情により刀を捨て、俗の職業に下ったとはいえ、家格の問題からも、つり合いを考えるとそこらの家から嫁を貰う気にはなれないのだろう。
そうしてあまたの破談を繰り返すうちに、嘉介に対して恨みとは言わないがよい感情を持たない家は町内に増えてきた。それも嘉介がなかなか庚申待に現れない原因の一つかもしれない。普段は厨房にこもっていればいい嘉介も、縁談を破談にした家の人間と顔を合わせる羽目になる庚申待には交わりづらいのだろう。
「そういえば、杵島屋のところのお嬢さんとのお話、断ったんですって?」
「あぁ……、先生の耳にも入ってましたか。いやあ、十八にもなった嫁き遅れの娘を、なんで俺が貰い受けなきゃいけないのかって話です」
「またそんなことを言って。嘘でももっともらしい理由を立てないと、恨みを買うことになりますよ。今日の庚申待にも当然杵島屋さんとこのご隠居はいらっしゃるでしょうし」
「それなんだよなぁ……。でも親父はいい加減町の他の商人さんとも親しくしておけっていうし……」
女の尻ばかり追い回して、町内の商家の人間関係の網から溢れてしまっているのは当然致命的であろう。嘉介の父上の指摘ももっともである。
「そろそろ寺に着きますよ。なんにせよ、あなたも早く一人に定めて落ち着いてしまいなさい」
「先生はやっぱり言うことが違うよなぁ。今でもお松さんに未練があるんだか分らないけど、いつまで一人身でいるつもりなんだい? そりゃあもう先生もそういう年齢じゃないだろうが、顔も悪くないんだし、妻とまで行かなくとも遊びの女の一人くらい……」
年若い嘉介の無邪気な意見を、織居はあいまいな笑みでごまかした。織居も妻の死を乗り越えたいという気持ちがないわけではないのだが、引きずっているということもなく、ただ自然と新しく女を作る気にはなれないのだ。
しかし、大御所さまのご治世になってから、どうにもこういった若者が増えたように思える。度重なる豪奢な遊びへの禁制を経て、享楽的な色へ走る者が増えたというか……。
三
はじまりは、今から二か月前、水無月のことであった。寺子屋での手習いを終え、長屋に帰る道すがら、川沿いの樹の下にある大石に腰かけていた。昨日は庚申待で、親に連れられ寺で大人たちに酒酌みをしながら夜を徹したので、とても眠たかった。帰って稼業の手伝いをさせられるくらいなら、ということで、一休みを兼ねてお気に入りの場所で本でも読もうというわけである。
分不相応なものを読んでいるのは分かっているが、好奇の心を抑えることはできず、ついつい紙を繰ってしまう。
こういうところが、可愛らしくないんだろうなぁ……。
髪も、同年代の子らが洒落をきかせて複雑な結に手を出し、挑発的な色のかんざしを差し街を出歩いているのに対し、彼女の桃割れ髪はあまりにも色気がなかった。着物も地味なら男衆への媚の売り方も知らず、議論を吹っかけてはあまつさえ論破してしまうことすらある。
というようなことを考えながらそれでも『
そのときに声をかけてくれた人が、あの人だった。
四
境内にはすでに多くの人が集まっていた。講に使うお堂の清掃がまだ終わっていないらしい。見回してみれば、確かに織居の苦手とする親たちの顔が見えて、気分が落ち込んだ。そもそも織居は子どもに好かれはするものの、もとより対等な友の多い性質ではない。こういった集まりでも気疲ればかりしてしまう。
「あっ、先生。いつも息子がお世話になっております」
薬屋の主人だ。彼の息子はいかにもなやんちゃ坊主で、障子を破いたり花瓶を割ったり、月謝をはるかに上回る損を彼の寺子屋に与えている。その度に頭を下げ下げ金子を携え謝罪に来るのですっかり顔なじみではあるのだが、その時にいつも皮肉交じりにもっと寺子屋でも厳しく躾けてほしいと伝えてくるので辟易している。
実の親に手の負えない子どもがどうして一介の浪人風情の言うことを聞こうか。それに、織居はやんちゃを手懐けることだけが必ずしもいいことだとは思っていない。
「最近、なつの様子がおかしいみたいなんです」
かと思えば、こんな風な相談事もある。織居としてはなつに特に変化があったようにも思えないのだが、母親からすると少々色気づいて来たように見えるらしい。
「年相応の変化でしょう。おなつさんももうそういうお年頃ですし、そんなに気を揉むとかえって悪いかもしれませんよ」
「そうなんでしょうけども、私の買い与えた覚えのないものを持ってたりして」
「意外と、気になる男からの贈り物だったりするかもしれませんよ」
というとなつの母親は憤慨したように、
「そういうことを冗談でもいうのはやめてもらえますか。それとも、うちの子になにかそんな様子でもあったんですか?」
さすがに配慮に欠けた発言ではあったが、かといって寺子屋の師範なんていうものに高い責任感を求めないでほしい。
「いえ、そういうわけではないんですが……。よく勉学に励んでいますし、少しはそういうことに興味を持ってもらいたいくらいですよ」
というとなつの母親は首を振り振り、小さく鼻を鳴らした。
「まぁ、なんにせよ、先生の方でも、なつの様子を気にかけておいてくださいますか」
ほとんど指図するような口調で言い放つと、なつの母親はさっさと歩き去ってしまった。
並み居る親たち(親たちはあくまでも彼にとっては親たちであって、名前よりも先にその子どもの名前で認識してしまう)の間をすり抜け、用意の出来たであろうお堂に入る。
普段がらんとしたお堂も今日ばかりは多くの人が集まり、その中ですでに住職がご本尊の
夜を徹すると言っても、まずはこの長く単調な祭事を耐えきってからである。
女衆が慌ただしく背後で酒や料理の準備をしている間に、また何人かの人間に捕まった。
やはり嘉介が今日は参加するとあって、その話である。嘉介の父上は見当たらないので、ということなのだろうが、せいぜいが寺子屋で数年をともにしただけの織居に責任を求めるのはやめてほしい。
そうこうしている間に住職の準備も整ったらしく、祭事が始まった。
五
人の目を気にしてだろうか、隣町のさらにまた隣町の茶屋まで出かけて、彼にあんみつを食べさせてもらった。生まれてからそんなことははじめてで、しかも秘密をともに隠しているかのような感覚がこそばゆかった。
「お前は本当は可愛らしいし、頭のよすぎるきらいはあるが、芯の通った強い女なのだ。それを理解しようとする男が少なすぎる」
「また、そんなことを言って。誰にでも同じようなことを言っているんでしょう?」
手慰みに両手で木椀を回しながら遠慮がちに応える。いかにも老舗然とした店内にそぐわない新しい木机の、木目の乱れをもう一度頭から数えはじめながら。
「いやいや、俺が言っても信用ならんかもしれないが、そこらの女とお前ではやはり全く違うな、と思うよ」
こういう科白をそれこそ誰にでも言っているのかと考えるとまた悔しいが、嘘でも嬉しい。顔が真っ赤になったのを隠すために茶碗をわざとらしく持ち上げた。
「なぁ、お前にかんざしを買ってやろう。そのままでも美しいとはいえ、いくらなんでも、もっと着飾ってみたいだろう?」
「そんな! とんでもないことです」
本当はそういった洒落たことにも興味があった。自分はそういうことをする子ではない、と勝手に思い込んできたし、周りからもそういう振る舞いを暗に期待されていたが、その反動かもしれない。
「なぁに気にすることはない。どうせ気楽な若旦那の身だ。金子なら自由にできる」
そういうと彼はちょっと無理やりに手を取って、店の外に連れ出し、人力車を捕まえて日本橋の近くまでやらせた。
日本橋近くの飾り職人の店に、知った顔のように出入りして店のものとあれこれ話を交わすその人は、とても頼もしく見えた。一緒にかんざしを選ぶ時間も、それを店の者に恋仲かとからかわれるのも、すべてが気恥ずかしく、そして何よりも天に昇るほどに嬉しかった。
六
祭事が終わり、正座を解いた講の面々がそろそろ、という顔つきになり、おもむろに車座になって酒を用意し始める。ここからが庚申待の本番だ。
講の参加者は四〇人ほど。因幡町の小さな寺の檀家の内、七割ほどが来ていることになる。
当初は全員が丸くなって飲み食いしていたものが、時間が経つとともにいくつかの小さな集まりに分かれていく。
住職を中心として、仏法やそれに絡めたありがたい話をする集まりだったり、若い男衆が集まって豪気に酒を飲みかわす集まりだったり、なんといっても一番勢いのあるのは女衆が集まって世間話、悪口、噂で盛り上がっているところだ。
そんな中、織居が巻き込まれたのは、やはりあまり気持ちのいい集まりではなかった。
「やあ、嘉介くん、どうかな、最近の様子は。さっきのご住職のありがたい祭事でも寝ていらしたようだし、最近はお疲れかな」
わざとらしいまでににこやかな様子で嘉介に語りかけるこの中年の親父は、舶来の奢侈品を扱う伊藤屋の旦那で、つい最近一人娘と嘉介の縁談を破談にされたという経緯を持つ。その娘は今、女衆の集まりにいる。表情を見る限り、おそらく嘉介の悪口か父親の悪口か、どちらかを言っているに違いない。
「どう……って、上々ですよ。こうして講に出られるくらいには暇をもらえるようになりました」
「そうかそうか。それはよかった。ところで」
ここで伊藤屋はずいと身を寄せる。
「うちの娘の何が気に入らなかった」
「あっ、その話は、私のところも伺いたい。伊藤屋の娘はまぁ確かにあまり見目麗しいというわけではないが、うちのところのはそうでもないだろう」
金貸しを営む吉野屋のご隠居だ。
「おい、吉野屋さんよ、それは聞き捨てならないな。どこのだれが見目麗しくないって」
「両方とも大した顔じゃないだろう。俺には差が分らないがねえ」
嘉介が平然とそう言ってのけた。おい、なんてことを言うんだ。傍からやりとりを見ていた織居は嘉介の発言に頭を抱える。
「お前、今なんて言った!?」
「まぁ、まぁ落ち着いて、落ち着いてください」
織居が間に入ると、さすがに面食らったように動きを止める両者。
「ここではなんですから、別の座敷で、ね」
三人を連れて別室へと移動しようとすると、嘉介による“被害”を受けたほかの人もぞろぞろとこれを機にと着いてきた。
これはややこしいことになりそうだぞ。織居は頭を抱える。
嘉介をなぜか上座に置いて、それを囲むように陣取った七人。襖はぴしゃりと閉じられ、廊下を挟んでお堂と離された室に居るのは、逃げ出す機を失った織居と、酒や料理を親切で庚申堂から運んでくれたがために酌をする羽目になったなつのふたりを除いて、すべてが嘉介に縁談を破談にされた父親である。先ほどのような、今にも喧嘩に発展しそうな気配は落ち着いてきたが、それでも今度は五人とも、嘉介に何を言ってやろうかと冷たく思案してるようで、それはそれで恐ろしい。
嘉介は嘉介でそれを意に介することもなく、なつにお酌をさせて酒をあおっている。
酌をするなつの尻を軽くなで上げる嘉介に、周囲が色めき立つ。
「お前、年端もいかない女子にまで手をかけるのか」
これまた娘が嘉介に泣かされ、縁談を破棄せざるを得なかった杵島屋の主人が入道顔を真っ赤に染めて身を乗り出して嘉介に詰め寄る。
「年端もいかないったって、もうなつだって十四だろう。あんたんとこの娘だって、俺のとこまで話がきたときには十八じゃなかったか。少々薹が立ちすぎてるってもんだろう」
「そういう問題じゃない、そういった尻軽がよくないと言っているん……」
「尻軽って言ったらなつの方がよっぽど尻軽ですよ」
と言いながらなつの尻を両手で持ち上げる動作をしてみせる嘉介。赤らめた顔を盆でなつが隠すが、大して嫌がる様子も見せない。
乾いた音が鳴り響いた。高田屋のご隠居が嘉介の頬を張り飛ばした音である。
「痛ってぇな爺ィ……!」
「謝れ」
「謝れって……別にあんたには何も……」
「謝れと言っているんだ」
若い時分からさらにすごみを増した高田屋の強面に怯んだ嘉介が、渋々と言った様子で舌打ちしながらなつの方に軽く頭を下げる。
場に沈んだ空気が漂う。なつに徳利から酒を注がせながら、伊藤屋の主人が言う。
「で、嘉介よぉ、それはともかくとして、なんで本当に嫁の一人すら迎えられねぇんだ? お前さんが女に興味ない訳じゃないってのは当たり前として、一人に決めたくないって言っても、そろそろ所帯は持たなきゃいけないだろう。うちの娘だってそうだが、ちょっと吉原で遊んだくらいで浮気だのなんだの騒ぎ立てるような悋気な娘ばかりじゃないだろうが」
「そりゃそうだろうよ、うちの店の金目当てなんだから」
この言葉に杵島屋がまた頭に血を上らせて嘉介に挑みかかろうとするのを、織居や伊藤屋がそろって止めにかかる。
「……まぁ、お前さんのところが、我々の中では一番の大店だということは認めよう。だが、それだけが破談の理由じゃあるまい?」
「そらぁそうだが……」
「俺にはその気持ちが到底分らないが、うちの娘も家のことを抜きにして、お前さんの家じゃなくて、お前さん自身のことを好いていたみたいなんだ。今でも元気がないし、次の話にも移れやしない。せめて、どうして断ったのくらいは聞かせてくれないか」
伊藤屋の旦那が懇願する。
確かに、ここに居る五人の家の娘は、誰もがそこそこに美しく、人並みに気だてがよく、作法もしっかりしていれば身元もしっかりしている。たとえば織居が若い時分に彼らの娘のうちの誰か一人とでも縁談があったとしたら、なんの躊躇もなく選んでいただろう。
「……もしかしてお前さん、遊びじゃない女がいるんじゃないだろうな」
ここまで黙っていた大井屋の旦那が口を挟む。
「はぁ? だったらなんだって……」
声を荒げようとした嘉介だが、手元が震えて酒をこぼしたなつが、嘉介よりもよほど慌てているせいで我に返ったようだ。
「まぁ、あんた方のとこの娘よりもよっぽどいい女はいるだろうな」
座がどよめく。
織居としても予想外だった。あまりにも多くの女に手を出すから、てっきり嘉介はそういった、たった一人の女を作る気はないものと思っていたからだ。
「おい、一体そりゃ誰のことなんだ。この町内の娘か?」
吉野屋のご隠居が口髭に手をやりながら思案気に尋ねる。
「なんだ、穿鑿か?」
舌打ちして、なつに酒を求める嘉介。彼女の方を向きもせず雑に腕を突出し、あまりに悪くなった場の雰囲気におびえたのか、まだ手つきの震えているなつがそれにお酌をする。嘉介は猪口に入ったそれを一気に呑み干すと、
「だから、その女って言うのは……んっ、んんんぁがっぁ!!」
突然、嘉介が口を押さえてもがきだした。大きくのけぞったかと思うと、口から血を吐きだした。尋常ではないその様子に、一瞬座の人間も我に返ってしまう。
「おい、どうし……」
織居が嘉介の肩に手をかけ、軽く揺すると、ばたん、と嘉介は畳の上に倒れ込んだ。
「ひ、ひっ!?」
大井屋の旦那が情けない悲鳴を喉から絞り出す。それよりは幾分か冷静な吉野屋が立ち上がって嘉介を指差して叫んだ。
「こ、殺しだ! 嘉介が殺されたぞ!!」
七
同心の清次は剥げ頭に手をやってやれやれとため息を漏らした。
「で?」
人死にだと言って、子の刻を回っているというのに番所の戸を叩く音に目を覚まされたからわざわざ駆けつけてみれば、当の嘉介は雪隠から出てきて、今ではなつとお喋りをしている。気まずそうに顔を見合わせる商家の旦那連中とあれは……寺子屋の先生だったか。
「でも、嘉介の野郎、ぐい飲みをあおった次の瞬間に倒れたんですぜ。怪しいと思うじゃないですか」
伊藤屋が小声でぶつくさと言う。
「あー、もう帰っていいか……。どうせ疲れてるのに酒をやって当たったんだろう。お前らが囲んでいたぶってたのも原因なんじゃないのか? 俺もそう暇じゃないから……」
そう言って清次が踵を返そうとしたとき、その背後からせき込む音が聞こえた。
「お、親分、この酒」
岡っ引きの小十郎が涙目でこちらを見てくる。焦ってどうしたと問えば、
「この酒、お嬢ちゃんが嘉介に酌をして以来誰も触れてねぇって言うんで、気になって臭い嗅いでみたらすげぇつんっと……」
「どれ、どんなもんかな」
清次自身で徳利を持ちあげて、直截臭いを嗅いでみる。
「うおっ」
なるほど、つんと来る刺激臭で、明らかに毒が入っている匂いだ。ということはつまり、嘉介はこの毒にやられたことになる。
「……おう、お前ら、この部屋から出るな」
「え?」
急に態度を変えた清次に、杵島屋が首をかしげる。
「これは毒殺だ。この中に下手人が居る」
どよめいた場に一喝をくれて、清次はその場にいた一人ひとりに尋問をしていった。また、それと並行して、使われた毒を持っていないかどうかを厳しく確認したが、使い切ったか隠してしまったかで、誰も持ってはいなかった。
特に、嘉介などは、少しでも下手人の手がかりになることを覚えていないかと強く聞いたものの、ほんとうに全く気付かないうちに毒が盛られていたようで、役に立たない。まだ体調が万事整っていないこともあり、別室で寝かせることにした。
また、旦那連中への尋問によれば、どうやら襖はこちらの室にいる全員が入ってから一度も開けられていないようだった。それはお堂の方で酒盛りを続けていた住職らに訊いても同じで、そもそも庚申待は集まって徹夜するという行事であって、寝ていて見過ごしたということも考えがたい。酒によって騒いでいたため見逃したということも考えられなくはないが、住職は一滴も酒を入れていないし、まだ
また、この場に持ち込まれた酒の徳利の中で、今までに空けられたのは先ほどの刺激臭がする一提だけ。つまり全員が同じ徳利から酒を呑んでいたのだが、嘉介より前に酒を飲んでいた人間は誰も腹を下していないということは、やはりこの部屋の中で、ある機会に毒が入れられたということになる。
「これは……やはり嘉介を狙って、ということなんですかね?」
小十郎が横から清次の顔を見上げてくる。今年十七になる小十郎は、十四のころふた親に先立たれ、飢えに耐えかねて万引きに手を出したたところを清次に捕まって以来、岡っ引きとして清次の下で働いている。あまりにも小さい背丈と迫力のなさを除けば、細かいところに気が付く、使えるやつだった。
「あぁ……やはりそうだろうな。嘉介が殺されそうな理由ならいくつでも思いつく」
嘉介の女癖は悪名高く、しょっちゅう女絡みで喧嘩をしては(といっても嘉介のような優男は一方的に相手の男に殴られるだけなのだが)、同心連中のお世話になっていたので、清次としてはむしろこれは天罰なのではないかと思うくらいだったのだが。
「あっ、でも」
小十郎が手を組んで考え込む。
「嘉介が毒入りの酒をあおったときって、嘉介自身がなつに酒をせがんだんですよね? ってことは、それまでは下手人にも次に誰がこの酒を呑むかわからなかったわけで、いつ毒を入れたら嘉介がそれを呑むのか分らないんじゃないですかい? 何も考えずに入れたとしたら、一体次に誰が呑むのか分らないじゃないですか」
それもその通りだ。
「それでも、この場で酒を飲むのは嘉介と織居と、あの旦那衆五人で七人だろ? 下手人は毒を入れたらもう酒を呑まなければいいんだから、六回に一回は嘉介に毒が当たることになる……」
「まさか、そんな、ほかの人間に当たったらどうするつもりだったんですか」
「人に毒を呑ませようなんていう奴の気持ちがわかるもんか、上手くいけばお慰みくらいの気分だったんじゃねぇのか」
「そんなバカなことがありますかい」
「バカとはなんだバカとは」
頭を拳固で小突くと大げさに小十郎は痛がってみせる。
「そ、それに。徳利に毒を入れたとして、いつ、どうやって入れたんですか?」
「え?」
「いや、つまり、徳利はずっとお盆の上に載せてなつが抱えていたわけでしょう? そこに毒を入れようとしたら、いくらなんでもなつが気付くでしょう。酌をしているときだって自然には入れ難い」
む、確かに考えてみればそうだ。
「なにやら、行き詰っているようですな」
「あ、先生。これはどうも。」
「これはどうもじゃないですよ親分。織居先生だって一応下手人かもしれないんですから」
小十郎が眉を顰めて清次の腰をつつく。
「とはいってもなぁ、織居先生は一杯も呑んどらんのでしょう?」
「そうですね。他の人も証言してくださるかと」
その通り、織居はこちらに来てから一杯も呑んでいない。
「酌をされる機会がなかったなら、毒を入れる機会も当然ないだろう」
「わかりませんよ。あのなつって子はこの先生の教え子だって言うじゃないですか。それなら、口車に乗せて毒を徳利の中に入れることが出来るかもしれない……」
「どこに教え子を使ってかつての教え子に毒を盛るやつが居るんだ。おまけに、先生には嘉介を殺す動機がねぇじゃねえか。なぁ。先生?」
「えぇ、そうですね……。嘉介も最近は落ち着いて来たみたいだし、縁談を断り続けるのだけは不可解でしたけど、それでも菓子作りの方は変わらず精進していたみたいで、なんで毒を盛られなきゃいけないのか……」
といって、織居は袂に腕を入れて思案しだした。
「どうやったにせよ、五人の親父を傷めつけて吐かせちまえばどうやったかもわかるだろう」
なんにせよ、といった感じで清次は肩を回して気楽にそう言った。
そのまま寝ずに調べを進めたが(もとより庚申だ。寝ることはできない)、なかなかどうして誰も白状しようとしない。
「そりゃ、あいつのことは腹が立ってましたけど、殺したって仕方ないし、第一あいつのところは江戸でも有数の大店ですよ。怒らせたらうちんとこだって正直な話商売になりませんや」
「あんなやつでもうちの娘は惚れているからな、殺すってわけにもいかんだろう」
何度も何度も繰り返し同じことを訊きながら、清次は首をかしげる。同心を長くやっていると分るのだが、殺しを隠している人間にはそれらしいわざとらしさというものがある。しかし、それが彼らからは感じられないのだ。
「そんなことよりも親分」
やり取りをずっと見ていた小十郎が清次に声をかける。
「使われた毒がなんだったかっていうのは特定できたんですかい」
「おお、なるほど。それは頭になかった……しかし、どうやって調べたらいいんだ。完全に酒に溶け切っているし、匂いだけじゃあなぁ……」
「織居先生、ご存じないですか」
小十郎が、取り調べの様子を横で眺めていた織居に声をかける。
「うーん……。詳しくはないのではっきりは言えませんが……。虫下しの類でしょう。なつなら、よく医学書やらを読むのでこういった薬にも詳しいでしょうが、もう家に帰してしまいましたしなぁ」
目の前で人が倒れたことに動揺していたなつは、もう家に帰してある。それをまた呼ぶわけにはいくまい。
「あちらのお堂に、お医者の源蔵先生がいらっしゃいますし、お呼びしましょうか」
「いやいや、それには及ばない。小十郎、お前が呼んで来い」
あいっ、とはきはきと返事をして、小十郎が医師を呼び立てに行った。
「しかし、先生は結局どいつがやったとお考えですかね。なにか検討はついてないんですか」
「いや、さっぱりですよ。誰が、なんのためにやったのかすら分ってないんですから……」
清次は首をかしげる。
「誰が、はともかく、なんのためかははっきりしてるんじゃないですかい? 嘉介に恨みがあるやつなんて……」
「そんな単純な理由……だったらいいんですが。それにしても、誰にも毒を入れる機会はなかったでしょう」
「まぁ、露見せずに安全に入れる方法はなかったと言っていいでしょうな。なつが盆を置いて厠にたったということはないと、全員が証言しているし。なつに見とがめられるのを覚悟で毒を入れたとして、それになつがひょっとして気付かなかった、というのはあるかもしれませんが、そんな危険を冒す意味が分からない」
「そう……危険なんですよ。こんなところで、しかも誰も出入りできない室でこんなことをする利点っていうのが……。すぐに下手人を特定できなくても、この中の誰かが下手人なのは確実なわけだし……」
二人して唸っていると小十郎が医師を連れてきた。
「源蔵さんをお連れしました!」
小十郎に連れられた源蔵医師が、毒の入った徳利の臭いを嗅ぐ。案の定しかめつらをした後、
「これは、虫下しですな。センダンなんかが虫下しにはよく使われるんですが、これはどうも和蘭から入ってきた西洋の薬のようですな。私も詳しくはないんですが。量を間違えなければ虫下しに使えるんだが、少しでも多く呑んでしまうと毒になるからなぁ。だから西洋の薬はあまり好かないんだ」
「なるほど、だから嘉介も今は厠で……」
「あぁ、下し薬の効果も当然あるんでしょうな」
納得顔の清次と入れ替わり、今度は小十郎が質問する。
「その薬は、錠剤なんですかね、粉末?」
「錠剤のはずだな。粉末でも効かないことはないんだろうが、おそらく体に効くのが早すぎて、ちょうど嘉介がなったように、血を吐く恐れがある」
「酒に入れたとしたら、どれくらいで溶けますかね……?」
「錠剤のままだと、表面になにか溶け出すのを防ぐものが塗られてあるようだから、結構時間がかかると思う」
小十郎はうんうんと肯いている。
「親分、下手人が分りましたぜ」
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