干物売り場に生鮮食品が混ざっているなんて

藤井 三打

とにかく鮮度だけが自慢です

 人々が様々な方向へと行き交い、車や電車の喧騒が耳へと入ってくる。

 目線は前よりも手元のスマホに向けられており、背を丸めて歩く姿にはどことなく無気力さが漂う。

 複雑に別れた交差点を、周囲の高く洒落たビルが見下ろす。

 2030年の渋谷駅前交差点。その光景は、まるで10年前を切り取ったかのようにそのままだった。

 青錆とコケが目立つハチ公の前を通過していく人々。


「あっ」


 男の子の短い声。走っていた男の子は、ズザザと地面を擦る音がするくらい、派手に転んでしまった。

 倒れたままの男の子。その一部始終を見ていた大人たち。誰もが、無音である。

 男の子は泣くこともなく、大人が気にすることもない。とにかく、無であった。

 そんな無に、一人の男が差し込まれる。


「大丈夫か?」


 レザージャケットを着た、太眉の男。立派な体躯といかつい顔で一見怖く見えるものの、子供に手を差し伸べるその顔はほころんでいた。

 男の子は差し出された手を取ると、ゆっくり立ち上がる。その顔は無表情であった。


「大丈夫かよ?」


 男はじっと男の子の顔を覗く。にこやかではあるものの、なにか返事をするまで許さない。そんな強引さもあった。


「大丈夫だよ」


 少しふてくされたような返事をする男の子。派手にころんだが、半ズボンで剥き出しの膝小僧も含め、無傷であった。

 擦り傷一つ無い。


「だって、痛くないし」


「だろうなあ……だがよ、服の汚れくらいは払っておいた方がいいぞ」


 男はそういうと、パパパと軽く男の子の服を手ではらう。

 男の子はなすがままに、むしろどうでもいいかのような無表情でそれを受け入れる。


「よし。これできれいになったな」


 最後、さっと景気よく払ったところで、若干男の顔が歪む。

 おそらく、転んだときだろう。男の子が羽織っている上着のファスナーが壊れており、ささくれだった金属片が男の指を引っ掻いていた。

 とは言っても、男の小指をちょっと引っ掻いたぐらいで、わずかに血が出ているとはいえ大したことはない怪我だ。怪我と言うのもはばかられる。

 だが、その瞬間、男の子の顔に驚きが生まれた。信じられないものを見た。この程度の傷で、そんな面持ちである。

 男はさっと自信の小指を隠すと、そそくさとその場を去ろうとする。

 しかし気づけば、周りの通行人たちの視線が男の小指に集中していた。皆、立ち止まり、じっと男の方を見ている。まるで、時が止まったように。

 その場から急いで立ち去ろうとする男。きっとまだ間に合う。そんなせせこましさが、背を丸めさせる。


「その人! 指から! 血が! 出てた!」


 男の子の声が、静寂のハチ公前に響く。男は一瞬だけキッと男の子を睨むが、すぐに止めた。その顔に浮かぶのは、仕方がないと言わんばかりの諦めである。

 男めがけ、周囲の人々が一斉に襲いかかってくる。


「こいつだ!」


「捕まえろ!」


「金になるぞ!」


 金と口にし前に立ちはだかった金髪の若者の顔面に、男の膝蹴りが直撃する。


「カネ目当ての相手ほど、大したことのないヤツはいねえ」


 顔面をへこませた金髪を乗り越え、男は歩行者信号赤の交差点へと飛び出す。

 車が恐ろしい勢いで走る車道を、男はなんとかかいくぐり渡っていく。

 多くの人々が男を追うため車道に飛び出す。男と違い、彼らに躊躇はなかった。

 女子高生とバイクが衝突し、トラックが複数人を跳ね飛ばす。追手の惨劇を尻目に、男はなんとか車道を渡りきってみせた。


「これで……」


 車道の先の人々は、まだ男が何者であるか気づいていない。気づく前に一息入れるくらいの間はあるはずだ。

 そう判断した男の認識は、とても甘かった。

 アスファルトのクズを撒き散らし、こちらへ突っ込んでくる車。二台の乗用車と一台のトラック。

 どれも、周りのことなど考えず、男を轢き殺すことに邁進している。

 男は即座に人混みに飛び込むと、即座に頭を抱えて地面に伏せる。

 それぞれの車は歩行者を跳ね飛ばし、ビルへと突っ込む。一階の喫茶店でコーヒーを飲んでいたカップルが壁面ごとトラックに潰された。

 砕けた壁、跳ね飛ばされた歩行者、ひどい状態となった交差点にて、男の頭がゆっくりと上がる。

 歩行者がタイヤに巻き込まれること、それにより車が飛び跳ねること。これらを期待しての賭けであった。

 そして男は、賭けに成功した。車は伏せている彼の上を通過していった。

 いくら追われているとはいえ、他人の命を使った賭けである。そんな賭けをしておきながら、男に罪悪感はなかった。


「さてと」


 倒れている人々を飛び越えつつ、惨状と破壊を隠れ蓑に、男はどこかへと逃げていった。


                ◇


 男が逃げた後、辺りに倒れていた人々が次々と起き上がる。

 顔面を蹴られた金髪も、バイクに跳ねられた女子高生も、車に轢かれた歩行者も、トラックに潰されたカップルも。

 ぐにぐにと、まるで粘土細工のようにうごめくことで、彼らの折れた手足や曲がった背骨が戻っていく。

 彼らの身体は曲がっていたが、血を流すような傷は一切できずどの部位も繋がったままであった。

 血は流れず、放っておけば曲がった身体も戻る。数分後、収拾された惨劇の後に漂う空気は呑気そのものだった。


「やだ。服が……」


「俺だって、スマホが壊れたよ。これぐらいは弁償してもらわないと」


「すみません。つい、カッとなってしまって」


 破れた服を気にする女と割れたスマホを気にする男、そして運転席から出てくる運転手。

 明らかにトラックに潰されたカップルと、潰したトラックを運転していた運転手の会話ではない。

 だが、怪我も何もしてない以上、この会話は別段おかしいものではない。

 物は壊れたが、身体は無事。どこで交わされる会話も、穏やかであった。

 だが、そんな和気あいあいとした空気の裏には、真剣味もあった。

 無言で駆け出す若者と会社員、若者の手には金槌が、会社員の手には包丁が握られている。

 人々は皆、近くの店より思い思いの道具を買って、若者や会社員の後に続く。

 暴徒のように店から物を奪うのではなく、しっかりと買う。彼らの中には理性が残っており、常識もしっかりとある。

 そんなちゃんとした頭で、ただ一人の人間を追って殺す。殺意が平穏な日常に組み込まれていた。


                ◇


 男はただひたすらに走り続けていた。行き先を考えるための頭は最低限に。

 とにかく走らなければ、捕まってしまう。追っ手は続々と増えていた。どうにもこうにも、男は人気者である。

 男は走りつつ、ファッション店の店先にあったハンガーラックを倒す。道に散らばった洋服とハンガーが、走る追手の足を捕らえた。


「うわあああ!」


「待て待て! ストップ……ぐえっ!?」


 転がった先頭が更に後続の足を捕らえ、追手は一気にその速度を落とした。


「ガハハ! これぐらいはさせてもらうぜ! なにせ、死にたくねえんでな!」


 やってやったと得意満面の男。だがその顔は、突如目の前に落ちてきた物体を見て凍りつくこととなった。


「嘘だろ」


 思わず口から漏れ出す呆然。手足を歪ませたまま、地面に寝ている老人。老人は、上から落ちてきた。

 気づいた途端、男は歩道を飛び出し道路を斜めに横断する軌道で走る。

 ビルに挟まれた形となる一車線の道路。それでも、歩道を進むよりはマシだった。

 ドンドンドン!と巨人が歩いているような衝撃と音が男を追う。

 ビルの窓や屋上から、次々と人が飛び降りている。

 男を追って上に回り込んだ者だけでなく、騒ぎを聞きつけた者も次々と身を投げだしている。

 人の体重が落下速度のまま当たれば、下に居た人は死ぬ。事実、投身自殺の際、運悪く下に居た人が死んでしまった事例もある。

 当たれば殺せる。ただそれだけで、人々は男を狙い次々と飛び降りる。人の雨が、男めがけて降り注いだ。

 当てる方も運任せなら、逃げる方も運任せである。

 男はとにかくがむしゃらに走り続ける。

 もし彼らが、普通に怪我を出来る人間だったとしたら、道は目を背けたくなるくらいに紅く染まってただろう。

 だが男以外の人間は、皆、死ぬことはない。体感したわけではないが、痛みもだいぶ薄れているらしい。でなければ、いくら死なないとはいえ、あんな特攻じみた道路横断なんてできるわけがない。痛みも薄く、死ぬこともない。その結果、落ちることに躊躇がない以上、こちらとしては自分で動き喋ることが出来る岩が降ってくるのと変わらない。最悪だ。

 ここまでやるのか。なんて無茶苦茶を。ひどいことをする。そんなことを考える余裕も暇も、生きるためには存在しないのだ。

 そんな男の頭に、鈍い衝撃が走った。


「ぐっ……!」


 思わずうずくまりそうになったところで、なんとか持ちこたえる。

 幸い、ぶつかったのは上から落ちてきた人間ではなかった。横から投げられて跳んできた人間だ。

 生きるためには、前に行かねばならない。

 しかし男は、自分の頭に跳んできた人間を片手で捕まえると、投げた人間がいる脇道へとそれた。


「いくらなんだって、これはないだろう!」


 怒りのまま、男は泣き叫ぶ赤ちゃんを母親に突き返す。男の頭に投げつけられたのは、体重数キロの赤ちゃんであった。

 赤ちゃんとは言え、重さは数キロ。数キロの物体を頭にぶつけられれば、意識ぐらい失いかねない。

 男が意識を保っているのは、驚きと怒りのおかげであった。

 男に怒鳴りつけられた非道の母親は、どろどろとした怒りを顔に宿し叫び返す。


「どうせ死なないんだ! これぐらいやってもいいだろうさ!」


「あんた親だろうが!」


「ああそうだよ。でもね、十年も成長しないでずっと泣き続けるだけの子供の面倒を見ていればこうもなるんだよ! 可愛い盛りも、ずっと続けば耐えられなくなるのさ」


 十年間まったく成長しない。それどころか、おそらくこのままでは永遠に成長しない。それでも子供を愛せる親はいるだろう。

 だが、この母親は愛せなくなってしまった。それだけの話だ。

 狙いを外した投身自殺が、母親と赤ちゃんをまとめて押し潰す。上から落ちてきたのは、出産間近とわかるぐらいに腹の大きな妊婦であった。


「くそっ! カネ目当てでいてくれよ。そうでないと、やりにくいんだよ!」


 男は悪態をつき、再び走り始める。地面に落ちる直前、妊婦はこちらをずっと見ていた。

 そのどろりとした、こちらに不幸のすべてを押しつけるような瞳を覗いてしまった。

 悪態とともにモヤモヤを吐き出し、男はただ先を、生きることを目指す。

 この世界における人とは、不変の存在であった。髪も爪も伸びず、肌もそのままで、腰が曲がることもない。

 まさに全人類が不老不死。しかしその一方で人は成長しなくなってしまった。

 子供の体は育たず、死にかけた病人はそのままで、頭脳も精神性も不自然なままに成長しない。妊婦の腹から赤ちゃんが出てくることもない。

 文明も文化も不自然なほどに発展の様子を見せない。幸せは停滞し、不幸は不滅と化す。人は先を望めない。

 2020年のある日より、世界はずっと変わらなくなってしまった。

 唯一、髪も爪も伸び、肌も老い、怪我を負い病気にもなる、一人の男を除いて。

 ならばその男に、他の人類すべてが何かを求めるのは、仕方のないことと言えよう。その何かの大半は、この殺せる男を殺せば、何かが変わり終わるという衝動であった。

 しかしそんなことは、唯一無二の男にとって知ったことではない。

 人の雨を避けつつ男が辿り着いた先は、事の発端となった渋谷駅前であった。


「しめた!」


 ここにいた人間の大半が男を追ったことにより、スタート地点である駅前の人手は男の事情を知らない人間に入れ替わっていた。

 異常な空気を感じ取ってはいても、原因を察していない。だからこそ、この場には男が逃げる隙がある。


「ちょっとごめんよ、通してもらうよ」


 そう言いつつ、男は人混みの中に入るようにして、そそくさと移動する。

 追っ手には、そんな男のような慎ましさがなかった。


「どけ! どけ!」


「危ねえな!」


「それどころじゃないんだよ、ああもう!」


「人にぶつかっておいて、その言いぐさは何よ!」


 男の背後では、勢いのままぶつかった追っ手と、そこに居た人々が諍いを起こしていた。

 いくら怪我をしないと言っても、真正面から良い勢いでぶつかってこられれば腹の一つも立てる。

 しかし、事情を知ってしまえば彼らもまた追手になるだろう。

 男はさっさと駅に潜り込み、改札を通って電車へと向かう。

 あくまで大人しく、静かに電子マネーで払う。

 いくら逃亡者だからといって、ここで勢いのまま改札を飛び越えるなんてもってのほかだ。アクション映画じゃあるまいし。

 若干不審げに見てくる人物はいたが、男は幸いそのまま発車寸前の電車に飛び乗ることに成功した。

 駆け込み乗車は止めて欲しいとのアナウンスが流れたが、実に正論である。悪いと思いつつ、命が助かった安堵が勝っている。

 男は疲れたように息を吐くと、空いている座席に座ろうとする。空いているのは、シルバーシートだけだった。

 なに、この世界で唯一の脆弱であるのだから、シルバーシートでも許されるだろう。

 そんな男の休息を、ざわめきが止めた。

 発車した電車の先、線路上に人が群がっている。

 男を追っていた人々が立ちふさがっているのだ。どうやら男がこの電車に飛び込むのを見た者と、先回りを考えられる者がいたらしい。

 彼らは自分の身体を使って、電車を止めようとしている。

 止まってしまえば、もはや男は袋のネズミである。


「あー……ったくなあ」


 男は平然としていた。席に座ったまま電車の先を一瞥すると、そのまま座席に身体を預ける。

 疲れているのもあるだろう。しかし男の様子に、一切のせわしなさも危機感も無かった。

 多くの人が電車の前に立ちふさがった状態。運転手はその姿を確認した後、ギアを上げた。

 急加速した電車が、線路上の人々を弾き飛ばす。

 まるで重量級のボールに当たったボウリングのピンのように、景気よく人が飛んでいく。

 多少の叫び声は聞こえたが、血も何もない以上、平穏極まりない人身事故だ。

 ガガガッとスピーカーのスイッチが入り、車掌のアナウンスが車内に流れる。


「現在、線路内に立ち入りがありましたが、遅延を防ぐためスピードを上げさせていただきました。この件に関しましては、後ほど調査いたします」


 線路内の立ち入りで停車するよりも、ダイヤを守るためにそのまま走ることを優先する。

 命が軽くなれば、人身事故の扱いなどこの程度になる。男はそれを知っていた。

 もっとも、彼らが電車の前に立ちはだかるのではなく、線路に寝ていたらだいぶ事情は変わっていたが。

 人体を挟み込むことによる脱線を防ぐために、きっと電車は外から乗り込めるくらいに減速していただろう。

 なにせ壊れぬ人体は、置き石の何百倍もタチが悪い。

 男は座席に身を投げ出しつつ、外を見る。豪快に飛んでいった者もいれば、線路の脇に倒れている者もいる。

 そんな中、線路の脇に転がり、電車を睨む子供と目が合った。ぐねりと曲がった首で、こちらをずっと睨んでいる。

 間違いない。ハチ公の前で転んでいた男の子である。

 男の子が何故、電車を塞ごうとしたのかはわからない。

 もともと、男に対しなんらかの感情を持っていたのか。

 それともただ巻き込まれただけなのか。その瞳から窺い知ることはできない。

「ごめんなー」

 男に出来るのは、そんなことを口にしつつ、傷ついた小指を隠すことぐらいだった。



 男は約束の時間より2時間ほど遅れ、待ち合わせ場所のアパートに到着した。

 既に渡されていた鍵を使い、錆びた戸を開ける。

 部屋の中にあるのは、最低限の家具や寝具に食料と、僅かばかりの金である。

 それと目立つのは、机の上にこれみよがしに置いてあるスマホと救急箱だ。


「ああ、クソ!」


 男はそう吐き出すと、スマホを手にする。

 安物のスマホの電話帳には、一つの電話番号しか記録されていなかった。

 その番号に電話を掛ける男。電話は数コールで繋がった。


「おかけになった電話番号は現在使われておりません」


「じゃあ今から使えや!」


 無機質に不通を伝えてくる相手方に対し、無茶苦茶なことをいう男。

 だがしばしの沈黙の後、電話の向こうから聞こえてきたのは笑い声であった。


「あーはっはは。いやあ、ゴメンね。いつも同じ返答だと、飽きると思ってさ」


「こちとら、人生に飽きなんてないんだよ。なにせ、飽きてボーッとした瞬間に終わるからな、マジで」


 電話の向こうから聞こえてきた呑気な声に、男は怒りと呆れで対応する。

 あまりいい感情をぶつけられていない状況だが、それでも電話の声に緊張感はなかった。


「僕も含め、世間の人はみんな人生に飽きてるんだから、うらやましいことだよ。いやこれ、皮肉抜きでね?」


「お前と話してると、こっちの身体を支えてるなけなしの気力まで持ってかれそうだ。ところでお前、なんで居ないんだよ」


「いやそりゃ、約束の時間から2時間も遅れれば居なくなるでしょ。普通」


「お前、俺がここに来るまでどんだけ大変だったと思ってるんだ。渋谷に来た早々に身バレして、さんざん追いかけ回された上に一回渋谷から電車で出るハメになって、騒ぎにならないようにこっそり戻ってきて。遅刻が2時間で済んだのは、奇跡だよ、奇跡!」


「大きな荷物に押しつぶされてるお婆さんを助けても、迷子の子供に手を差し伸べても、遅刻は遅刻だからねえ。奇跡でも美談でも、時間はひっくり返せないよ?」


「くっそ、正論言いやがる。とりあえず今日、余計な仏心を出すとひっでえめに合うってわかったから、次はその類の話での遅刻はねえよ」


「またまた。余計なお世話を止められないくせに。本当に余計なのに」


「うるせえ」


 男は悪態をつくと、救急箱を開け、中の傷薬や軟膏を確認する。


「どれもこれも、数年前に使用期限が切れてやがる。もっと、マシなのはないのかよ?」


「無いね。なにせ、今、地球上で薬が必要なのは、もっと言えば医療が必要なのは君ぐらいだから」


「昔はお医者様、今はただの人ってか。まったく、なんでこんなことになっちまったんだかな」


「それは僕が聞きたいね。昔は良かった、昔は」


 しみじみとした電話先の声を無視し、男はスマホをスピーカーモードにして机の上に置く。

 まずは軟膏を、膝と肘のあざに塗り込む。大量の人間から逃げる以上、この程度の怪我を負うのは毎度のことである。

 スマホから、男への質問が飛んでくる。


「縫うような切り傷や骨折は?」


「してない。そんなんしてたら、お前に泣きついてるし、もし骨が折れてたら逃げ切れないからな」


「そりゃそうだね。足が折れてたら走れないし、腕が折れてたら目立つし、首が折れてたら死んでる」


「昔の漫画じゃ、主人公が肋骨が折れたか……なんてカッコいいこと言ってそのまま動いてたりしてたけど、あんなん無理だからな? すっげえ痛いし、無理して動いても脂汗がダラダラ出てくるから」


「あの時は本当に死にかけてたねえ。あなたが僕に泣きついたのは、あの時ぐらいでは?」


「本当にあの時はなあ。そもそも、肋が折れて、逃げ切れただけで奇跡だよ。伝記とか書いてほしいし、勲章ももらいてえよ」


「頑張ったで賞なら用意できますが?」


「いらねえ」


 電話の向こうの笑い声と、男の不敵な笑い。二つの笑い声が、男が受けた傷の痛みを緩和する。

 しばし笑った後、男はぽつりとつぶやいた。


「いったい、いつまでこうしてなきゃいけないんだろうな」


「それは、気が済むまででしょう。嫌になったら、ナイフを首筋に当てれば抜けられますよ?」


「いいこと言うじゃねえか。だがよ、気がつけば俺以外が、死なない、病気にならない、怪我もしない、成長しないなんて不老不死になってんだぜ? 不老不死は人類の夢だなんて言うが、結局何も変わらない悪夢だったってわけだ」


「……」


「そして、変わっちまった連中は、変わらなかった俺をどうにかすれば、悪夢が終わると思ってる。俺を殺せば出産できると思ってる妊婦。俺を祭壇に押し込みたい坊主。俺を切り刻んで研究材料にしたい企業。俺からしてみれば、この世界はみんなバケモンだよ。俺一人だけ取り残されて、気分は絶滅危惧種だ」


「僕もバケモノなんですかね?」


 電話先の人間もまた、この世界の大多数の人間と同じ、死ねず怪我せず変わらぬ人間であった。

 だが彼は、男の協力者として、特に大きな要求をすることもなく男を支援している。


「そりゃそうだろ。死ねねえんだったら、バケモノだよ。なんだ? 親身にこんな俺の面倒を見てくれるだなんて、あなたは人間だ! 素晴らしい! なんて称賛されたいのか?」


「そんなあからさまなことを言われたら、すぐにあなたがいる場所を当局に通報してしまうかも。親身に面倒を見てくれている。そんな本音をポロッと言ってくれるくらいが、ちょうどいい」


「あ。馬鹿、お前、それは言葉の綾ってやつだよ!」


 うっかり言っちまったと、顔を赤くして拗ねる男。

 そんな男に、電話先の人間は改めて意見を述べる。


「この世界は、10年前からなにも変わらなくなってしまった。何故そうなったのかはわからない。とにかく人類は、10年前からなにも変わらなくなってしまった。動植物までは不老不死にならなかったものの、自然とその数は増え、地球上の災害も減り。僕にはまるで、世界をずっとこの形のまま保存しようとしている。そう思えるのです」


「保存って、いったい誰がだよ?」


「さあ? 神かもしれないし、宇宙人かもしれない。とにかくそれは、重要でない。重要なのは、そんな世界の枠組みから外れ、傷つき老いる君がいるということだ。君がこうして世間で生きることが、反逆や抵抗につながる。人の意地になる。だから僕は、あなたに協力するんですよ」


 たとえそれが運命だったとしても、素直に受け入れるのかどうかは、人に委ねられている。だからこそ彼は、ただ一人、人間のままとしてこの世界に生きる彼を支援し続けている。嘘か真かはわからぬものの、電話先の彼はそんな意地を口にしてみせた。

 男はそんな彼の意志を受け止めた後、しばし咀嚼してから口を開く。


「だったら、せめてセーフハウスを田舎にしてほしいもんだな。なんで都会なんだよ。山の中の小屋でも用意してくれよ」


「初めからそういう生き方をしているならともかく、生き延びるために逃げ込むのはなにか違うでしょ。僕はあなたに、生きてほしいんです」


「お前、本性が博打打ちとか、破滅主義者とか……とにかく危なっかしいって言われたことあるだろ」


「ご想像におまかせします。それに、ヘタに田舎に逃げると目立ちますよ? 人が居ないところになれば、住人ネットワークはそのぶん強固になるわけで。すぐ見つかるし、おそらく逃げ場もなくなる。一番人が隠れやすいのは、都会なんですよ」


「危なっかしいのに賢い。タチが悪い」


 男はそう言うと、スマホの電源を切る。

 意地で生きたい男を、意地で生き延びさせたい。このあり方の良さは気に入った。

 結局、死ねる自分が死なずに、世界中の恨みや欲や希望を背に浴び生き続けているのは、意地によるものである。このまま、誰かのレールに沿って生きたくはない。このまま、予想通りに死にたくない。そんな意地だ。

 これでやはり死ねなくなった。

 アパートの外に集まってきたざわめきを聞き、男はまた、生きるためのもがきを考え始めた。

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