Fairies

西澤杏奈

プロローグ

第1話 孵化

「いやだいやだお願いだやめてくれ!」


 男は泣き叫んだ。地面には仲間が無惨に転がっている。赤黒い血が、その間を音もなく流れている。


「俺たちは……何もしてない! ただ平和に暮らしていただけじゃないか……なんで……」


 しかし、彼の前に立っていた銃を持った男は、ヘルメット越しの瞳で冷たく彼を睨みつけた。


「黙れ、危険な因子は全て排除する」


 銃声が二発、轟いた。




 

「キャサリン、今日映画見に行かない?」


「あ、ごめん。私今日バイトがあるの」


「そう、じゃあ明日は?」


「バイト」


「ちょっと待って、あんたちゃんと休んでる? 最近バイトばっかじゃない!」


「あるよ、ほら」


 キャサリンはスケジュール帳を友達に見せた。


「はぁ? 今月1日しか休みないじゃん! あんた大丈夫⁈ 過労死するわよ!」


「おばあちゃんのためよ」


 キャサリンは、はっきりと言うと、友達を置いて急いで学校を出た。


 2023年9月のロンドンはいつもと同じだった。どれくらい古いのかもわからない石造りの家々が静かに建っている。それと道路の間の狭い歩道を、前髪が左によった、黒茶色の髪の毛と空色の丸い大きな目をした少女が走っていく。


 彼女の名前はキャサリン・メルカド・ウィルソン。


 ロンドンの郊外に住んでいるごく普通の女の子。他の子と違う部分をあげるとすれば、肉親が祖母しかいないことだろうか。


 信号機が赤に変わる前に、キャサリンは横断歩道を素早く渡った。バイト先は日本レストラン。選んだ理由はもちろん、時給が高いから。あと余った料理もくれるし、店長さんも優しい。


 そのレストラン以外にも、いくつかキャサリンはバイトを掛け持ちしていた。その彼女の忙しさから、クラスメイトから「リス」なんて呼ばれたりしている。そんな彼女がバイト先へ急いでいるところで、二つの影がキャサリンに近づいてきた。


「ウィルソンさんですかー?」


 またか……

 キャサリンは心底鬱陶しそうに、話しかけた人たちを睨みつけた。

 一人はメモ帳とペンを持ち、もう一人はカメラを持っていた_____そう、週刊誌の記者たちだ。ネタがなくなるとすぐにやってくる、配慮のない者たちである。


「すみませーん。ちょっとインタビューに答えていただきたいんですけどもー」


「いや、あの急いでるので……」


 パシャリと一枚写真を撮られる。私、写真撮ってもいいなんて一言も言ってない……

 キャサリンの眉間の皺が深くなった。そんな彼女を全く無視しながら、記者は質問をする。


「パリ・マドリード間急行寝台列車事故から13年経ちますね。ウィルソンさんはもう15歳ですがどう思いますか?」


 ひゅっとキャサリンは息を呑んだ。


「だから私何回も申したでしょう、覚えてないって」


「親がいなくなってからの生活はどうですか? ペストがテロを起こしたという推測がありますが、それについては?」


 キャサリンの言ったことは全て無視され、無慈悲に質問は続く。

 あああああああ……うるさいうるさいうるさいうるさい……誰が答えてやるもんか!


「あ!」


 キャサリンは突然空を指差した。それにつられて記者たちが顔を上げた瞬間に、キャサリンは突風のような勢いで走り始めた。


「あ! 待ってくださいぃぃぃぃ! まだ何も話してないじゃないですかぁぁぁ!」


 記者たちは叫んだが、キャサリンは後ろから追いかけてくる彼らを無視し、日本レストランに飛び込んだ。


「おお、待ってたよ。キャシーちゃん」


 店長が笑顔で迎えた。


「走ってきたけどなんかあったのかい? あ、その顔、さてはパパラッチだね?」


 店長の奥さんである女将さんが、素早く料理の材料を並べながらキャサリンに尋ねる。


「そうなんです……ほんとよく飽きないかって思うぐらいくるんです! 私を追いかけまわしたって何も得られないのに……」


 キャサリンはため息をついた。


『本日のニュースです。アメリカのニューヨーク州郊外で、ペストの村が発見されました。安全保障隊は既に立ち入り、迅速に処理を進めていると言うことです』


 店に設置してあるテレビにニュースが流れた。ニューヨークの上空写真が映され、それからアメリカ安全保障隊ニューヨーク部隊隊長の報告している場面が流れた。


「いやねぇ、またペストだってよ。イギリスにもこんなのがうじゃうじゃいるのかねぇ」


 女将が不満をこぼした。


「最近SNSでペスト陰謀説が流れているらしいじゃないか、ペストは全員が全員悪い奴らじゃないってな」


「全く……悪い奴らじゃなかったら、トウキョウやパリを侵略したりしないよ。お陰で大量の難民がやってきたしねぇ……キャシーちゃん?」


 女将はキャサリンの動きが止まっていることに気がついて声をかけた。


「あ、すみません。ちょっと考え事してました」


 キャサリンは申し訳なさそうな笑みを浮かべて、仕事に取り組んだ。彼女の真剣な眼差しに、女将は静かな怒りを見た気がした。




「はい、キャシーちゃん。これお裾分けね」


 20時にキャサリンのバイトは普段終わる。だが今回はそこまで忙しくなかったので、18時に彼女は解放された。女将は彼女に余ったカリフォルニアロールを渡した。


「ありがとうございます、明日ももちろん来ますからね」


「体調崩さないようにするんだよ、いいかい?」


 店長が言う。


「もちろんですよ!」


 キャサリンは笑顔で返した。


 帰り道は暗かった。バイト先と家までは距離が近いので、十数分後にはキャサリンは家についていた。


「ただいま、おばあちゃん」


 キャサリンは元気に言い、そして玄関の近くにある棚の上の写真にも小さく「ただいま」とささやいた。急行列車事故で亡くなった両親と兄の写真だ。

 リビングのソファの上に横たわっていた黒髪の老女が「おかえり」と返事をした。


「腰大丈夫?」


「ええ、来週にはもう仕事に復帰できると思うわ。……キャシー、あなた無理してるでしょう。またこんな夜遅くに帰ってきて。何かあったら私はどうすればいいか……」


「もう、おばあちゃん」


 キャサリンはちょっと笑った。


「私もう15歳よ。一人でなんでもできる。変な人がいても自分で殴り倒すよ!」


 キャサリンがその場で拳を振り回すと、祖母は「もう」と呆れた声を出しながら笑った。


「でも疲れてるのは事実でしょう? だから、来年に旅行を計画しようと思うの。どこかバカンスに行きましょう」


「ほんと?! ありがとう!」


 キャサリンは祖母を抱きしめた。


「あなたは私の一番大切な子なのよ、キャシー」


 祖母は優しくささやいた。


「私にとってもだよ」


 キャサリンは返し、悪戯っぽそうな笑みを浮かべた。


「あら、食材も買ってきてくれたの?」


 祖母はテーブルの上に置かれたビニール袋に気が付いて言った。


「これはバイト先のお裾分け。一緒に食べよう!」


 キャサリンは嬉しそうにカリフォルニアロールを並べた。が、袋から全て取り出すと絶望的な表情になった。


「どうしたの、キャシーちゃん」


「紅茶……紅茶を買い忘れた!」


 キャサリンは、この世でそれが最も恐ろしいことのように叫んだ。


「明日買えばいいじゃない」


「でも、朝紅茶ないと私起きられない……」


「コーヒーがあるわ」


 コーヒーという単語を聞くとキャサリンは顔を歪ませた。


「コーヒーは美味しくないもん……買ってきていい? すぐ戻るから」


「全くもうわがままねぇ、でもその大の紅茶好きのところはお母さんにそっくりだわ」


 キャサリンは母親に似ていると言われて嬉しそうに笑った。


「じゃあ、行ってくるね」


「いってらっしゃい」


 小銭を持って、キャサリンは外に出た。


「やっぱりヨークシャーティーよね」


 数十秒で買い物を済ませたキャサリンは、満足して店の外へ出た。空は曇っていて今にも雨が降りそうな感じがする。

 明日傘を持っていかなければならないなとキャサリンはぼんやり考えながら、暗い夜道を歩いた。


「すみません」


 ふと後ろから声がした。全く気配を感じられなかったその人に、キャサリンは飛び上がりそうになった。振り返ると背の高い男が立っていた。瞳は黒いのに髪は真っ白という、珍しい容貌をしていた。


「今時間何時だかわかりますか? 待ち合わせがあるのに時計を忘れてしまって……」


 男は申し訳なさそうに言った。一瞬記者団かと思って警戒していたキャサリンだが、その言葉を聞くとすぐに安心した。


「えーと……あ、もうすぐで19時です!」


 スマホの画面を見て笑顔で答えると男は「ありがとう」と礼を言った。キャサリンは「どういたしまして」と言おうとして口を開いたが、そこで止まった。男の背中が大きくなった。


 一瞬思考が停止した。

 が、いつか見たドイツ襲撃の写真を思い出す。


 これは翼だ。翼が開いたんだ。

 

 翼はペスト最大の特徴だ。

 ペストは魔力を使う。


 魔力を人間に使われたら



 即死だ。



 逃げなきゃ


 脳はそれを理解していても、身体は思うように動かない。足がもつれて転びそうになったが、ぎりぎりで踏ん張って少しでも遠くへ走ろうとした。


 しかし、間に合うはずがない。



 ペストに敵う『人間』などいないのだから。



「ごめん……さようなら」


 

 男は言った。翼が虹色に煌めくのが視界の隅で見えた。




 爆風が後ろから襲った。

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