シロップ

絵府蘭座右衛門

第1話「帰還」

 管理教育こそあったものの子供の頃はよかった。このままこの電車が、時の流れに逆らってあの頃に向かって走ってくれればいいのに。そんな願いも虚しく、だんだんと会社の最寄駅に近づいていく。やりたくもないことを嫌いな人間に指示され、失敗すれば叱責される。現代社会で働く人間は果たして本当に人間なのだろうか。まるで動かなくなるまで働かされる機械である。このまま終わるのだろうか。  そんなことを考えていたとき、目の前の吊革に掴まっていた女がバランスを崩して転倒し、持っていたスターバックスであろうコーヒーをぶちまけた。それを電車内のテロだと勘違いした老いぼれが、大声で喚き散らした。老いぼれがテロだなんだと騒ぐものだから、周りの乗客も勘違いして悲鳴をあげながら別の車両に逃亡した。そして、騒ぎをさらに勘違いした職員は、電車を停車させた。どうせ今日の昼には「コーヒーぶちまけをテロと勘違いして電車遅延」などという、なんの役にも立たないニュースが流れてバカなコメンテーターがクソみたいな意見を垂れ流すのだろう。無性に腹が立った。いつのまにやら、スマホの画面に夢中で真実を見ていなかった頭の足りない乗客どもは、もれなく全員別車両に逃げ込んでいた。つまるところ、この車両にはコーヒーまみれで失神してる女と、心も体も疲弊した男の二人だけになっているというわけだ。そして、もう絶対に、何があっても、100%時間的に間に合わないという事実が、まるで雨の日に深めの水溜りにはまり、歩く度に靴下に雨水が滲むように、脳内を侵食した。仕事に遅刻するという確定で訪れる未来に猛烈なストレスを感じた俺は、なにを思ったのかコーヒー女の横に、何個も転がっていたスターバックスのものであろうガムシロップを、手当たり次第こじ開けて口に流し込んだ。過度なストレスを与えられた人間が意味不明な行動を取るという研究結果がそう遠くない未来で報告されることだろう。とにかくこの異常な状況を打破すべく、別の車両に移動しかけたが突然謎の頭痛に襲われ、目の前が真っ暗になった。


 気がつくと天井を見ていた。しかし、それはいつも見ている天井とは、まったく異なるものであり独特な不快感があった。視点を変えると周りは白いカーテンで囲まれていた。そのせいでここが病院だと悟ってしまった。よくよく見れば口に酸素マスクのようなものが装着されていた。むず痒かったので無理やり外し、ベッドから起き上がろうとすると、タイミングがいいのか悪いのか、白いカーテンが開いた。その先には幸の薄そうな女医とベテラン風の看護婦が立っていた。


「よかった、意識が戻ったんですね」


 幸の薄そうな女医がビジネススマイルを見せつけながら言った。聞きたいことは山ほどあったが、初対面の人間と話すのは苦手なのと、ベッドに戻るよう誘導されたため、こちらからはなにも言わなかった。ベテラン風の看護婦は、なにか言いたげな顔をしてこちらをジッと見つめていた。なにやら、ただならぬ事態ではないかと推測した俺は、それに備えた行動をとる方針を固めた。現実逃避である。大抵のことは目を背け、逃げれば精神崩壊を防ぐことができる。人生において身につけた唯一の防衛手段である。

 ものの数秒の沈黙の後、幸の薄そうな女医は重そうな口を開いた。


「あなたは電車のテロに遭い、毒物中毒で意識不明だったんですよ」


 俺はスッと意識を失った。

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