パラドキシデスは振り向かない(ノベルバー2021)
伴美砂都
パラドキシデスは振り向かない
潮が引いたときの浜を、歩くのが好きだ。湿った砂が、スニーカーの足の裏にギュギュッと密度の高い音を立てる。
前を行く兄は、防水のレインブーツを履いている。潮だまりに入って生きものを見るつもりなのだ。むかしは青やキャラクターのゴム長靴だったのが、街なかで履いていても違和感のないようなしっかりしたブーツになったのはいつからだろう。兄の場合しゃれっ気というよりは、足のサイズが大きくなったから、という理由のほうが大きそうだけれど。兄は痩せているほうだけど、気付けば背が高くて、がっしりとたくましく見える。
兄がこの町を出ていくことを決めたときいて、私はさみしかった。今も、さみしい。三月の、高校の卒業式が近づくにつれて、もっともっとさみしくなるだろう。でも、誇らしいような気もする。
高校に入るときに、出て行くという選択肢も兄にはあった。県外の全寮制の私立高校が、県の数学コンクールで優勝した兄に、わざわざ案内状を送ってくれたのだ。その学校は、兄に合っているようにも思えた。けれど兄は、今はやめておく、と言ったのだった。
「もうちょっと、ここに住みたいと思う」
それを聞いたとき、お母さんは嬉しいのが半分、心配が半分の顔をして少し泣いた。私はまだ小学生、三年生か四年生とかで、あんまりよくわかっていなかったけど、少し同じ気持ちだった。六歳も歳の離れた兄のことを心配というのは、なんだか私が生意気な気がするけど。
小さな町の小学校と中学校を出て、高校生活は兄には、つらいものだったのだろう。二年生のとき一度高校をやめて、通信制の学校に転校することになった。そのとき、荒れたりはしなかった。自分で選んだ道なのにごめんね、と言って泣いていた。兄は、優しいのだ。小さいころは一緒に散歩していても、好きな生きものとか気になる植物なんかに遭遇すると私のことをほっぽって行って、私だけ近所の人に送り届けられて帰ったりしていたそうだけど。うっすらとはおぼえているけど、そのせいで兄のことを嫌いになったりはしない。
兄はいつも、振り向かずにシャッシャッと歩く。まっしぐら、という感じだ。その背中をよくおぼえているけど、置いて行かれたとか悲しいとか、そういう思いは、決してない。
それは、この町のおかげでもあると思う。祖父母の住む、海の町。たぶんどう見ても変わっている、兄のことを、ここの人たちは、ふだんからそこにあるもののようにして受け止めてくれた。うちに遊びに来る兄の同級生が兄に向ける目も、優しかった、というか、うまく言えないんだけど、ふつうのお友達に向けるもの、だったと思う。
私は生まれたときからここに住んでいるからわからないけど、いつだったかお父さんがぽつりと、ああ、引っ越してきてよかったよなあ、とつぶやいたことがある。だからもしかしたらその前に、お父さんとお母さんと兄の三人だったころ住んでいた場所は、あまり居心地がよくなかったのかなと、勝手に想像している。兄がはじめに行った高校は、もしかしたら、その近くとかにあったのかもしれない。本当のことは、知らないけど。
「あれ、
声をかけてきたのは磯浜さんのおじさんだった。磯浜さんも、「浜を歩く人」のひとりだ。この町の人は、なにかというとよく浜を歩いていて、その中でも頻度の高い人のことを、私はこっそりそう呼んでいる。
「こんにちは」
「今日は一人で浜かね、
「あ、一緒です、向こうのほうに行ってます」
「干潮だからね」
「はい」
じゃあ、と手を振っておじさんは浜から道路へ上がる、一段一段が結構高い階段をひょいひょいとのぼって行った。ぽつんぽつんとある、この年配の人が多い土地とは思えない急勾配の階段を、しかしこの町の人たちはみんな軽々とのぼる。
兄は砂浜ではなく、浜から上がったところのコンクリートの上にいた。しゃがみ込んでじっとしている。近づこうとすると、待て、とまるで冒険映画の主人公のように、手のひらで制する。
「踏むなよ、注意だ」
「え」
見ると、兄の足もとには何匹かのフナムシが走り回っていた。ぎゃ、と思わず悲鳴を上げてしまう。フナムシは昔からどうも苦手だ。ダンゴムシは平気だから、もうちょっとゆっくり動いてくれたら、いいと思うんだけど。
少し離れたところに、私もしゃがんだ。兄はウインドブレイカーのポケットから小さなスケッチブックを出してなにか描いている。こんなに速く動き回っているフナムシを、よく描けるものだ。兄は絵もとても上手い。しばらく動かないかなと思って、しゃがんだ姿勢のまま、できるだけ足を動かさないようにそうっと回転して、水平線のほうを見た。きらきらとした、おだやかな海だ。吸い込まれていきそうな感覚になるのは、引き潮だからだろうか。これから潮は満ち、さっき私が歩いてきたあたりまでは、また海になる。満ちて引いて、満ちて引いて、海は、きっと、ずっとそうやって在る。
「瑞紀」
「へ」
兄に、名前を呼ばれることが珍しいような気がして、ちょっとだけびっくりしてしまった。同じ姿勢のまま九十度また回転して兄のほうを向くと、スケッチブックの開いたページがこちらへ向けられていた。そこに描かれていたのは、横を向いた私の顔。今度こそ本当にびっくりした。兄はそんな、絵にするほど人間には興味がないと、ずっと思っていたのに。
「……っていうか、よりによってフナムシとツーショなの」
わたしの顔のバックに描かれていたのは、妙に躍動感のあるフナムシだった。……と思った。しかし兄は真剣な顔で首を横に振った。
「これは三葉虫でフナムシではない」
「え」
言われてみれば、未だ足もとを時折横切るフナムシより、ちょっと太めなような。いや、微々たる差だと思うんだけど。三葉虫って、いったい何だっけ。
「三葉虫は古生代に栄えた節足動物で身体はフナムシ状だが種類としてはクモやサソリに近い、これはパラドキシデス、カンブリア紀に生息した大型の三葉虫」
「え、でかいの……」
「三葉虫の中で相対的にいえばだけれど、まあ、でかい」
「……」
そういえば兄は昔から、古生物というのか絶滅動物というのか、昔に生きていた動物もすごく好きで、おかげで私も恐竜の名前はかなり言える。ふだん暮らしていて、とくに役に立つ特技ではない。けど、ジュラシック・パークの映画なんかが金曜ロードショーでやるときは、出てくる恐竜の名前を二人で競い合って言ったりして、それは、すごく楽しかった。
三葉虫のことは、知らなかった。カンブリア紀というのが、恐竜の生きていた時代よりもっと前だということだけ、なんとなくわかる。
知らない言葉に、何だっけと私が思うたびに、訊かなくても兄は説明してくれたなと思う。兄が家を出たら、自分で調べないといけないのだ。そう思ったら、あと数か月もしないうちに兄が遠くへ離れてしまうことがぐっと現実的に感じられて、私は涙をこらえた。
でも、私が何だっけと思うような言葉はたいてい兄の口から発せられるわけで、もう二度と会えないわけじゃなし、離れて暮らすようになれば、少しずつそれにも、慣れていけるのかもしれない。
「フナムシ状ってことは似てるんじゃん」
「まあ、そうかもしれない」
そう言いながら兄は立て膝をした上でスケッチブックのページを、慎重にぴりぴりと切り取った。
「瑞紀にこれをあげます」
「……、ありがとう」
小さなページに鉛筆で描かれた、海を見る私の瞳は深くきらきらとしていた。兄には私のことがこういうふうに見えているんだと思ったら、嬉しかった。フナムシは気が済んだのかいつしか周りからいなくなっていて、でも、近くにはきっといる。兄は今度は船の絵を描いている。立ち上がって、踵を返した。私はもう、一人で家まで帰れるし、兄も、真っ暗になるまで夢中になって帰り道を見失ったりは、もうしないだろう。
背中で、なぜだろう、潮が引き終えたという気配がした。十一月の午後の、少しつめたい海風の中を、振り向かずに私は歩いた。兄のくれた絵をもう一度よく見ると背景はたぶん海で、今このときを生きている私の後ろで、カンブリア紀というときを生きたフナムシ、じゃない、三葉虫たちは、自由そうにそこを泳いでいた。
パラドキシデスは振り向かない(ノベルバー2021) 伴美砂都 @misatovan
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