1 その死神は自殺専門





なんにも変わりゃしない。


国道を行き交う鉄の塊の群れ。


止まらない秒針。


青空を舞う街の喧騒。


何もしていないのに鳴り響くこの腹の音。


それは昨日を繰り返してるみたいな今日。


なんにも変わりゃしない。


俺が今、ビルの屋上の淵に裸足で立っている事以外は。



高い建物ならどこでもよかった。


落ちれば誰かには気付いてもらえるだろうと踏んで選んだわけだが、

どうにも俺の手は屋上のフェンスの網目を握ったまま離れてくれそうにない。


この期に及んでまだ自分を守りたいようだ。

手汗半っ端ないくせに。


昔誰かが歌ってたっけ。


「いくらどうでもいいなんて言ったって

道につまづけば両手付いてる」


みたいな歌。


人間どうせそんなもんだ。

痛感している。



だがもう戻るわけにはいかない。

戻る場所などもうありはしない。


俺は生きているべきでない。


一刻も早くこの世を去らねば。


俺は天を仰いだ。

今にも落っこちてきそうな、真っ青な空が雲を引き連れ視界を流れる。


なぁ、俺がこっから落ちたって、

お前は明日もそうやって流れていくんだよな。


関係ねぇんだよな。


俺一人居なくなったって、


なんにも変わりゃしねぇんだよな。


そうさ、俺がいなくたって、何の痛手を負うこともなく明日は来るんだ。



さっさといこう。

もう、いこう。


その先に何があるのか知らないけど、きっとここに居るよりはマシさ。


大丈夫、大丈夫さ。


バイバイ世界。


もう二度と来るかよ。



そして俺の手は、いよいよ握っていたフェンスを離したんだ。



地上23階。

体重63キロの俺が落ちるまでに、一体何秒程かかるんだろうか。


計算なんて出来ないけれど、きっとそれはあっという間で、きっと痛みなんて感じる間もなく死ねるんだろう。


そうさ、きっと大丈夫。


そして既に地を蹴り宙に浮いた俺は、

必死に目を瞑り、数秒後の終わりを待つだけ。


の、はずだったんだ。



「死ぬんすかー?」



ん?



「死ぬんすかー?って。」



聞こえる。


声が聞こえる。


低音だが場違いにトーンの明るい男の声が、落下している俺のすぐ、背後で。


俺は恐る恐る片目を開けた。



「ヒィっ...!」



そこには23階からの絶望的な地上の景色が、今にも目の前に迫ってくる勢いで広がっていた。


そして俺は今更ながら気づいたんだ。


落下していない。


俺の体は両腕を広げ、地を蹴り上げ宙に浮いたままビル風に晒されている。



「なっ....!」



なんだこれ!


時間が....


止まった!?



「そうそうー、やっと気付いてくれたかぁ。」



背後からあの声が聞こえた。

体は動かないが首だけは動かせるようだ。


恐る恐る後方を見ると、俺が手を離したフェンスに寄りかかる、長身の男が立っていた。


俺の手は今まで必死になってそのフェンスをぎっちりと握りしめていたというのに、

足場30センチあろうかどうかというその絶壁で、男はフェンスに寄りかかり、あろうことか腕まで組んでニヤリとこちらを見下ろしている。


そして何だろうか、今まで男相手にこんなことは思ったこともなかったが、

整った顔パーツ、程よい筋肉質、180センチはあろうか、スラリと伸びた長身、喪服のようにまっ黒いスーツを着て、ビル風に吹かれサラサラなびく、片目の隠れた黒髪。


美しい。


オマケに俺を恋人でも見つめるかのよう、

優しくタレた切れ長な目で見下ろし微笑んでいる。



「あ、ごめんごめん、今戻すね。」



男はそう言うと、右手の指をパチンと鳴らした。



「え...あ...。」



その瞬間俺は、またフェンス前の足場30センチのコンクリートに立たされていた。


そして俺の両手はやはりまた、とっさにフェンスをの網目を握りしめてしまった。



「ふー。危ない危ない。間に合わないかと思ったぁ。ははっ。」



妙に整った顔の男は、俺と並んでも俺を見下ろすほど長身で、相変わらずニコニコと微笑んでいる。



「あ...の...。」



どう考えてもわけの分からない状況に、

俺がやっと絞り出せたのがこの2文字だった。



「お兄さん、死ぬんすよねぇ?」



この状況でその軽めなトーンはどうにかならないものか。


てゆか誰だ。



「あ、申し遅れました。」



男は組んでいた腕を左右組み直してこう言った。



「俺、死神のガク。自殺専門のね。あんたの魂預かりに来た。」



.....ちょっと、何言ってるかワカラナイ。



「は...い?」



男は変わらずニコニコ微笑んでいる。


にしてもこの男、俺が誰だと疑問を持ったら名乗り始めた。さっきから俺の心の声が聞こえているんだろうか。



「あ、そだよ。筒抜けー。」



そう言って男はまたニコニコ笑ってみせた。

心の声が聞こえる?

そんな馬鹿な。

どういうことだ。


そして男は、まだわけのわからない言葉を続ける。



「お兄さん死ぬならさ、俺に魂預けてくんないかな?」



さっきから何を言ってるんだこいつは。

死神?

時間が止まる?

魂を、なんて?



「あ、お兄さん俺のこと疑ってるんでしょー。」



当たり前だ。

イラついてきた。

どうせどっかに仕掛けでもあるんだろ。

俺動揺してたし、宙に浮いてると思い込んだだけだ。

新手のマルチ商法か何かか?

なんの詐欺師だこいつは。



「いや、怪しいもんじゃないからね?俺。怒んないでよぉ。」



男はニヤつきながら眉をひそめてそう言った。


これが怪しくなきゃ何なんだ。

だいたいこいつが来なければ今頃俺は死ねたかもしれないのに。

邪魔しやがって。



「やめてもらえます?冷やかしなら他でやってください。」



俺はそう冷たく言い放った。


すると男は組んでいた腕を解き、ニッコリと笑って答えた。



「分かったよ、こうすりゃいんだろ?」



そう言うと男は、

地上23階、よく晴れた空の下、足場30センチのコンクリートを、勢いよく蹴りあげた。



「っ...!!」



声を上げる間もなかった。


男はあっという間に俺の視界から消えた。


お......


落ちた─────。


ひ...人が....、


落ちた...。



下が見れない。

足が震える。

フェンスを握る手は汗でびっしょりで今にも滑り落ちそうだ。

もう、立っていられぬほどの恐怖が押し寄せてきた。


俺は、

俺はこんなことをやろうとしてたのか。

こんな....恐ろしいことを.....!


そう唇を噛み締めたその時だった。



「なぁんつって。」



恐怖に押し潰されそうになっていた俺の視界下手から、

背中の漆黒の大きな翼を羽ばたかせ、あの男が腕を組みながら宙を舞い上がってきた。



「な?人間じゃあねぇだろ?」



そう言うと男はまた、子供みたいな笑顔で俺に微笑んだ。


羽根が生えている男。

そして宙に浮いているだと?


もう何に驚いていいかワカラナイ。


男はその羽根でホバリングしながら続けた。



「俺はさ、あんたみたいに人生を途中リタイアする人間の魂を、あの世に持って帰るのが仕事なんだよね。」



黒髪がなびく。

黒い翼から艶やかな黒い羽が舞い落ちる。


美しい。



「それにはさ、生前の本人の許可が必要なわけよぉ。じゃないと持って帰れないわけぇ。」



俺はただただ男を見上げることしか出来なかった。

なんっっにも頭に入ってこない。

ありえないことばかりが押し寄せたからか、この男が美しいせいか。


俺は屋上から落ちて、死ねずに気を失い夢でも見ているんだろうか。


すると男が今度は空中であぐらをかいて続けた。



「あのねお兄さん、よく聞いてね。

あの世ってのはさ、今すぐにでも生まれ変わりたい魂たちがたくさんひしめき合ってるわけ。

転生を待ってんだよ。

そいつらが生まれ変わるには、お兄さんみたいに人生を途中リタイアした、まだ生きられる力が残っている魂、その中にあるエネルギーが必要なんだよね。」



妙に整った顔のくちびるが歪んで、頬を持ち上げている。



「俺今月魂取り損ねてばっかなんだよねぇ。そろそろ閻魔から干されそうなわけ。」



そう言ったくちびるから、真っ白な歯を見せて顔をくしゃらせた。



「てことで、預かってもいいかなぁ?

坂井柊真くん。」



俺は名を呼ばれて我に返った。

どうやらこいつは本当に人知を超えた存在らしい。


開いたままの口を閉じ、ようやく男から目を逸らすことができた。

夢であろうと現実であろうと、こいつは今俺に問いを投げかけている。


答えなくては。


何か、答え...なくては...。



「ちょっと...待って...いきなりんな事言われても...。」



答えられなかった。

答えられるわけがない。

こんな、わけの分からない事態、飲み込めるわけがない。


すると男は、かいたあぐらの上で頬杖を付き、困ったような顔をして口を開いた。



「いや、まぁ気持ちは分かるよ。ワケわかんねぇよな。いきなり時間が止まって死神が現れたなんてさ。

でもさ、死んだ後の君の魂はもうそのまま地獄に堕ちて訳わかんない苦行を強いられるだけだよ?」



俺はギョッとして男を見上げ、思わず声を張り上げた。



「えっ!俺地獄確定なのっ!?」


「そりゃそうでしょ、自害は大罪だよぉ?」



男は相変わらずニヤニヤと口元を歪めながら俺を見下ろしている。


まぢでかっ。

地獄って...そんな...。

俺はここで初めて死ぬのを躊躇い始めた。



「ちょっ...ちょっちょ、ちょっと、待って..」


「ちょ、ちょ、ちょっ、クククっ....ウケるっ。」



馬鹿にしてんのか。

俺は死神を睨みながら



「おっ...俺はこの世の苦痛から逃れるために死にたいのに地獄行くんすかっ。」


「そだよぉー?なので、命は大切にしましょうー。俺が言うのもなんですがー。ククっ。」



俺の人生の最大の岐路に腹を抱えて笑ってんのも腹立たしいが、今はそれどころではない。


困った。


さすがに困った。


地獄ってあれだ、なんか、体をいろいろぐちゃぐちゃにされるあれだ....。


そう悩む俺に死神は薄ら笑いを浮かべながらこう口を開いた。



「なぁ柊真、嫁さんに浮気がバレて家追い出されて?同じ会社の浮気相手にも見限られ、嫁さんに慰謝料請求されて、更にはリストラまでされてさ、何処にも居場所がなくなって自暴自棄になんのは分かるけどよ。

それが何なんだよ。」



死神だとかいう男はそんな信じられない言葉を俺に投げつけてきやがった。



「は...はぁっ?あんたに何が分かんだよ!」


「あぁ。分かんねぇよ。その惨めな気持ちはさぁ。」



ふざけるな。

突然現れたわけの分からない男に言われる筋合いはない。


だが死神は続けた。



「でも、お前のこっから更に広がる可能性を追いかけんのと、

地獄で何億年も全身切り刻まれ続けんの、どっちが楽しいと思う?」



死神は更に口角を上げて俺の顔を覗き込む。



「そっ....れは...。」


「前項だよなぁっ?」



俺の答えを俺より先にニヤつきながら言い放った死神。

そして奴はこう話始めたんだ。



「いいか柊真、確かに馬鹿だよお前は。

どう見たって詰んでるわ。

だが、それを1つのステージが終わった、と考えるのはどうだ。」


「ステー...ジ...。」


「お前がそのステージを終えた事によってこれからいろんな事が新たに始まる。今まで出来なかった事も可能かもしんね。

全部失った今だから得られる自由が待ってんだよ。

お前は不幸なんかじゃねぇ。人生が終わったんじゃねぇ。次のステージが始まったんだ。悲観してるその概念全部ひっくり返してみろ。」



なんだコイツ...口悪いくせにその言葉がグサグサと俺の胸に刺さってきやがる。



「例えばだ、この街が爆撃を受けて粉々に砕け散ったとする。だが人間、生きて必死になりゃ街は復興出来んだ。お前が失った女も、金も、名誉も、プライドも、お前が生きてりゃあ何とでもなる。簡単じゃねぇかもしんねぇが、生きてりゃあ何度でもやり直しが効くんだ。だが、死にゃあそこで終わりだ。」



確かに、死ねば終わりだ。

終わらせようとしたはずだ。

なのになんだ、この違和感は。

なんだ、この迷いは。



「俺は....どうしたらいい....。」


「ふっ...柊真、人間なぁ、そーやって人に聞く時点で答えなんか決まってんだぜ?」



その死神の笑顔は、憎たらしくも優しかった。



「いいか、至極当たり前の事言うぞ。」



俯いていた俺は死神を見上げた。

そして本当に極、極、当たり前の言葉を振りかけられた。



「人生、一回しかねぇんだ。」



俺はハッとした。

なんだ、その在り来りな言葉は。

そんな事言われなくたって誰にでも分かる事だ。

なのになんだ、俺は....俺はそんな当たり前な事にも気付かなかったっつぅのか。



「もう迷うことなんてねぇだろ。柊真、最後にもっかい聞くぞー。」



もはや聞かれるまでもなかった。


俺は...俺は、生まれ変わろう。


この世界で。


ゼロからやり直そう。


俺が生きてりゃ、瓦礫に花だって咲かせられるんだ。



「死ぬんすかー?やり直すんすかー?」



死神の漆黒の翼が一つ羽ばたくと、辺りに心地よいそよ風が吹いた。



「やり直すよ。」



俺がそう答えると、死神はその長い足を地上へ伸ばし、スラックスのポケットに手を突っ込んで、白い歯をチラつかせながらニコリと笑った。


俺はその不謹慎とも言えるニヤついた顔に、思わずふっと笑みを零してしまったのだった。



「あ、地獄堕ちるって嘘だけどな。クククっ。」


「はぁっ!?お前を美化した俺が馬鹿だったよちくしょう!」


「ふはははっ!あ、やべぇまた魂取り損ねた。」








──────


人間にはどうしようもない苦の瞬間がある。

金銭での失敗。

男女関係のモツレ。

自分以外の人間を傷つけた時、また殺した時。


それが自ら命を絶つ死へと発展してゆくなら、是非協力してやってほしい。

死神屋さんのガクさんに。

アナタの力で生を受ける魂たちに。



TO BE CONTINUDE…


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る