第5話
午後。
5月にしては、今日は少し気温が高いようで、クロイスンは背中に軽く汗をかきながら学校の校舎へとやってきた。
士官学校というだけあってグラウンドはかなり広く、校舎も相当に費用がかかっているとわかるくらいには、綺麗なものだった。
まあ、教国の首都にある士官学校がみすぼらしいものだったら、威厳もなにもないので、当然といえば当然だろうか。
「クロイスン訓練兵、参りました!」
指定された時刻丁度、教官―――マイコルの部屋の前に立ち、クロイスンは敬礼をしたまま声を張り上げた。
「入れ」
「は! 失礼いたします!」
呼ばれて、クロイスンはゆっくりと扉をあけ中へと入る。
部屋にはシガレットを吸う教官の姿があり、煙が部屋中を漂っている。
壁一面を埋め尽くすほどの本棚には、びっしりと本が並べられていて、学校の教官の部屋というよりは、研究者とか、教授の部屋といった印象を受けるだろう。
「よく来てくれた、クロイスン訓練兵。まずは座りなさい」
マイコルは部屋の中心にあるソファを顎で示し、そう促してくる。
「いえ、自分はこのままで」
「いいのか? 長い話になるかもしれんぞ」
「……それでは、失礼いたします」
幾度も固辞するのは失礼にあたるかと、クロイスンは素直にソファへと浅く腰かけた。
「まずは記念すべき今日という日に呼び出してしまって、すまなかったな」
「いえ、軍務とあらば、自分はいついかなる時でも命令に従います」
「ふむ。教科書通りの返事をどうもありがとう」
それは皮肉かと目を向けるが、マイコルはなんでもないようににシガレットを灰皿に押し付けていた。
深い意味はなく、ただの軽口だろうと判断して、クロイスンは口を開く。
「それで、自分はなぜ呼ばれたのでしょうか」
「そう急くな。まずは、そうだな。君のことを聞かせてもらおうじゃないか」
「自分のことを、ですか?」
「ああ。君は今でこそ一般の部屋を借りて暮らしているそうだが、幼少期はスラム街の教会で育ったと聞く。暮らしはどうだったのかね」
士官学校に入る前、クロイスンの身辺調査はある程度行われているから、スラム育ちであることをマイコルが知っていても不思議ではなかった。
「教皇陛下の庇護下の下、何不自由なく「ああ、そういうのはいい。今ここにいるのは私と君だけだ」……で、ありますか」
質問の意図がわからず、クロイスンは考えこむふりをしながら、マイコルを盗み見る。
マイコルは元将校であり、過去、ジームニール王国――教国の南東に位置する国――との戦争で大きな戦果を納めた人間だ。
だが、出世コースを自ら外れ、わざわざこの士官学校の教官に志願した経歴をもち、軍部からは変わり者だという評価を得ているとの噂である。
だからこそ、彼の意図が読み切れないでいる。
実利を取らない人間の行動は、時に読みづらいものだった。
「………大きな声では言えませんが、あまり豊かな暮らしだったとは言えませんでした」
考えた末、クロイスンは本当のことを口にすることにした。
リジー教国の起源こそ封建的宗教国家だが、現代では中央集権化が進み、軍国主義の色合いがかなり強くなっている。
軍部には啓蒙主義的な考え方が根付いており、直接的な批判さえ言わなければ、軍人であるマイコルならば大丈夫だろうと踏んだのだった。
「君には、確か妹がいたな」
「は……は! 今年11歳になる妹がおります」
「魔族とがいる地区で暮らすことに、不安はなかったのかね」
「無いといえば嘘になりますが、そこまで危険だったとは思いません」
「ほう、なぜだ」
「……教会に魔族の子供がいたから慣れていたというのもありますが――――奴らは生きていながら、死んでいましたから
ただ体が動くだけの、生きる屍。
すべてを諦めた魔族が住む地区。それがあのスラム街の実態だった。そうでもなければ、あんな小さな教会が成り立つわけがない。
あそこは異様な空間だったと、クロイスンも実感している。
それをマイコルは理解したのか、背もたれに体重をかけた。
「そうか。良き隣人だった、ということは?」
「断じてありません」
「――――ならば、いいだろう」
マイコルは机の引き出しを開けると、封筒に入った書類を机の上に取り出した。
「クロイスン訓練兵には、一週間後の作戦に参加してもらうことになった」
「作戦に、自分がでしょうか?」
在学中に軍に仮配属されることは、そう珍しいことではない。事実、去年の三年生も軍での訓練に参加していた聞いている。
しかし、時期はおよそ10月ごろから、軍への顔合わせのような形だったはずだ。それがいきなり出兵となれば、奇妙と思わざるを得ない。
クロイスンの疑問が顔に浮かび、それをどう受け取ったのか、マイコルは口元を軽く歪ませた。
「安心したまえ、君が前線に立つようなことにはならないだろう。配属も後方と聞いている」
「後方ですか」
「……実のところ、君のように優秀な人材を眠らせておくなと、上からつつかれているんだ」
それが不服なのだろう、マイコルは頭を抱えて溜息を吐いた。
「そんな、自分は」
「謙遜するな。君は私が今まで見てきた中でも、特に優秀だ。射撃、白兵戦共にトップレベルな上、基礎学力は当然ながら、戦術学と戦略学、さらに政治学に至るまで学生に右に並ぶ者はいない。以前、論文も書いていたな」
「はい。対帝国における軍事的戦略について……しかし、あれは」
帝国は教国の南東に位置する国だ。
しかし、帝国のトップである皇帝の手綱は、教皇によって握られているといって過言ではない。
なにせ、教皇がひとたび皇帝を異教徒として破門してしまえば、皇帝はたちまち国民からの信用を失い、国営が成り立たなくなってしまう。
故に、帝国と教国が戦争になることなど、ありえないのだ。
「わかっている。君は興味半分で書いたものかもしれない」
しかしだ、とマイコルは続ける。
「今まで、対帝国における軍事的戦略など存在すらしていなかった……正確にはあったのだが、君の書き上げたものほどの完成度はなかったのだ」
「恐縮であります」
「まあ、上が君を評価するのに、十分な材料だったということだろう。此度の出兵指令は、君への期待の裏返しと考えていい」
「ありがとうございます」
「うむ。あとは、これに軽く目を通しておくといい。詳細は後日、口頭で説明があるはずだ」
マイコルは書類を受け取るように促し、クロイスンもまた、ソファから立ち上がるとそれを両手で受け取る。
「喜んで受けさせていただきます」
「励めよ……さて、今日は建国記念日だからな。私も家で家族と共に過ごしたいのだ」
「はっ! では自分はこれにて」
「健闘を祈る」
クロイスンは敬礼をすると、部屋を後にする。
―――軍部に評価されるのは、クロイスンにとっては単なる予定でしかない。
そうなるように、在学中に論文を書いていたのだ。
あの論文に価値などない。
しかし、上に能力を認めてもらうには十分な材料になることは、わかっていた。
予想外だったのは、早すぎる出兵指令だった。
思いがけない事態だが、後方ならば前線ほどの危険はないだろう。
クロイスンはまだ死ぬわけにはいかない。死ねば、まだ幼い妹が路頭に迷うことになってしまう……金はあっても、守る人間がいなくてはいけない。
それに、やらなくてはいけないことが、クロイスンにはある。
「それにしても、今は戦争状態にある国はないはずだけど……出兵?」
唯一戦争をしていた王国とは、2年前に停戦協定が結ばれ、今日まで平和が保たれている。
クロイスンは少しだけ気になって、学校の図書館へ入ると、書類の封を開けた。
中には紙の書類数枚が紐に通されているが、おそらく詳しい作戦の内容は書いていない―――ただの訓練兵に渡すものだから、中身はせいぜい作戦の概要や集合場所が書いてある程度だろう。
気にすべきはその作戦名で、表紙には『YD作戦―――マヨワールの森における魔物駆除計画書』とあった。
魔物といえば、100年前の産業革命――物体に魔力を込める技術の発見――の前は人類の脅威たり得たが、『魔力銃』の生産開始によってそれは皆無になったといっていい。
それを、わざわざ掃討する……ふと、クロイスンはマイコルとのやり取りを思い出した。
「まさかとは思うけど」
答え合わせでもするかのように、書類をめくって軽く目を通すと、
「…………はあ」
クロイスンは肩の力を抜いて、息を吐いた。
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