『ペンデンスの花』

戌井きょうたろう

蒼汰が死んだ日

 蒼汰のお墓参りをするのは久しぶりだった。

 電車を二度乗り換えて、最寄りの駅から二十分ほど歩いたところに彼の墓地はあった。

 今日が彼の命日であることを思い出したのはなぜだろうか。カレンダーに記録していたわけではない。育てていたペンデンスのぶよぶよとした葉を見ていて、社会人になった自分はまるで死んでいるみたいだな、なんて考えていたら、ふと彼のことを思い出したのだ。

「なんで死んだんだよ」

 それは彼に向けた言葉だっただろうか?

 気付けば言葉が口をついていた。多分、蒼汰が死んだ理由が分からない自分に対しての自嘲でもあった。送信エラーになることが分かっていてメッセージを送るような、そんな感覚だ。

 自殺だったそうだ。理由は教えてもらえなかった。

 彼は何か問題を抱えているようには見えなかった。それどころか特別な人間にさえ思えた。中学の頃、彼は自作した曲で動画を作り、それが一部のネットの界隈でちょっと話題になったことがあった。作成者が学生だと知れると、ネットメディアから取材を受けたりもしたそうだ。彼には、不思議な魅力があったように思う。彼は色んな意味で特別だった。

 しかし、彼の反応は俺の予想と違っていた。放課後の帰り道で彼はこう言った。

「俺がまだ学生だったからみんな騒いでるだけだよ」

 みんな退屈だから、一緒になって盛り上がれる話題が欲しいだけだと彼は説明した。

 俺はその話を否定するわけでも肯定するわけでもなくただ聞いていた。俺たちには、単純に肯定するとか否定するとかではないところで理解するような感覚があった。

「お前といると、何というか素で喋れる」

 蒼汰がそう言った時の表情をよく覚えている。気恥ずかしさの混じった笑顔。

 彼はあまり自分の家が好きではなかったようで、よく俺の家に転がり込んできた。そういう時はだいたい二人で徹夜して話をしたりしたものだ。

彼の家には歳の近い優秀な弟がいて、両親がよくその弟と蒼汰を比べてくるのだという。それに、教育方針の違いで昔から父と母の小競り合いが絶えず、二人からそれぞれ愚痴を聞かされる羽目になるからそれも嫌だったらしい。

「嫌なことあったらまた家来いよ」

 俺は蒼汰によくそんなことを言っていた。

 だからなぜ死ぬ前に自分に相談なり、何か言ってくれなかったのかとは思っていた。彼を特別な友人と思っていたのは俺だけだったのだろうか。それとも、俺にも問題があって彼はそれを嫌って相談してくれなかったのだろうか。

 蒼汰は、まるで誰かに借りた人生を生きているみたいだと言っていた。同じ時代に、同じ場所で、同じように生まれたら、誰でも自分のような人間になれると彼は言った。彼の持っているものは彼にとって何一つ特別な意味を持っていなかった。自分でなければいけなかったものなんて何もない。彼は悲観する様子もなく、淡々とむしろ不思議そうにそう述べた。

「だからさ、自分の作る人間関係が自分を特別にしてくれると思うんだよね」

 そう彼が言ったことに対して、俺が「お前のこと親友だと思ってる」なんて、ちょっと冗談じみた口調で言うと、彼は複雑そうにはにかんで俺もそう思ってると返した。気恥ずかしさで、冗談めかして言ったけど、多分そこに嘘はなかった。少なくとも、彼と親友であることは俺にとって特別だった。

 でも蒼汰は何も言わず一人で死んだ。

 死ぬ時は独りなんだ。特別だろうが、そうでなかろうが関係ない。でも、せめて死ぬ前に何か言ってくれたって良かったのに。ひょっとしたら、俺なら何かできたかもしれないのに。

 墓地を去り、帰りの駅へと向かう。本当は安全上良くないのだろうけど、ついイヤホンをして音楽を聴きながら歩いてしまう。通勤の時も専らイヤホンで音楽を聴いている。それは、音楽が好きというよりその方がなんとなく気が楽だからだ。

「少しでもいいので、募金をお願いいたします」

 駅の付近に差し掛かった時だった。

 募金のお願いをしている集団がいた。ちゃんと許可を取っているのか、テーブルとイスが用意されていて、テーブルの上には何やらパンフレットのようなものが置いてあった。

 どこかのボランティア団体だろうか。立ち止まって見てみると東南アジアやらアフリカやら貧しい国の人々への募金のようだった。

「あっ、お兄さん。ちょっと話だけでも――」

 少し立ち止まる様子を見せると、そこにいた男性の一人に声を掛けられた。イヤホン越しでも聞こえるハキハキとした声だった。細い金属フレームのメガネとしわ一つないスーツを身に着けた、四十くらいの人だ。イヤホンを外すとおじさんはこちらに寄ってきた。

「あぁ、今すぐ募金とかそういうんじゃなくて、お話を聞いていただけるだけでも良いんで」

 なんだか面倒だなと思いつつも、一旦目を合わせてしまうとなんだか立ち去るのも気が引けた。やんわり断ろうかと思い、すいません急いでいるのでと言うと、手短に済ませますので話だけでもと言われ用意されていた椅子へと誘導された。

「いやぁ、すみません。これから一雨来るらしいんで、手短に済ませますので」

 男性はそう言って笑いながらパンフレットを取り出して説明を始めた。

 貧しい国で起こっている内戦や犯罪、教育もまともに受けられない人がいること、劣悪な労働環境などについて説明された。そしてそれらは先進国が安い労働力として貧しい国の人々を搾取しているから起きているということも。

 昔はそういった類のことは遠い国の話だとは思っていたが、働くようになって搾取されるというのがどういうことかは分かる気がした。

「結構こういうこと言うと、偽善だとか言われちゃう世の中ですからね」

 男性は自虐気味に笑みを浮かべた。

「そんなことはないです」

 それは半分嘘で半分本当だった。何かを変えなければいけない、それ自体は正しいことだと思うし、変えようと思うことそれ自体は偽善だと思わなかった。

 男性の方は意外そうな表情をした後、明るい笑みを浮かべて説明を続けた。何か手ごたえのようなものを感じさせてしまったのかもしれないと思い、少し罪悪感を覚えた。

 もちろん、募金するのは良いことだろうと思う。でも、自分がそれをして何になるのか。本当は、自分の募金なんて世界の富豪の募金に比べれば大したことはないだろうし、それをしたところで自分が何か貢献している感覚とか、生きている実感とか、人との繋がりとかを感じられそうだとも思えなかった。

「――と、ここまで説明しましたが、いかがでしたか? ほんのちょっとだけでも良いんです。ほんの少し、生活の中にある余裕を分けていただくだけで」

 向こうは「いける」と思ったのか、自信を持って提案してきているようだった。

 ここまで聞いたんだからもういいだろうと思っていたのに困ったことになってきた。どう断ろうかと考えてまごついている内に男性は畳みかけるように語ってきた。

「今、決めなくてもいいです。ここにご連絡先を記入していただければ――」

 男性はそう言ってペンと用紙を出してきた。さすがに連絡先を教えるのは抵抗があったので急いでその場を去ろうと席を立った。

「すいません。ちょっとここで失礼します」

「あぁ、連絡先だけでも教えていただくことは難しいですか?」

「ちょっと……すいません」

「少しだけでいいんです。少しだけでも力を貸していただけませんか?」

「ちょっと俺じゃ……俺には、ちょっと」

 遠慮するようにしていたら、熱が入ってきたのか相手も立ち上がって身振り手振りを交えながら説得にかかってきた。

「そんなことないですよ。あなたは話を聞いてくださったじゃないですか。なかなか今のご時世、興味を持ってくださる人いないですよ」

 そう言われて、なぜだか自分でも分からないが、自分の中の刺激されたくなかった感情が堰を切って溢れてきた。

「俺は何も特別な人間じゃないんです。誰も、何も変えられないんだから、ほっといてください」

 そう言った後で、相手が呆気に取られた様子を見て後悔したが、何か言われないうちにそそくさとその場を去った。自分でもなんでそんなことを言ったのか分からず戸惑いながら、うつむきがちに小走りで駅へ向かった。

 改札を通ってホームに着きイヤホンを付ける。音楽を聴きたいというより、ただイヤホンを付けて安心したかった。そして何の音も出ていないイヤホンをしたまま、次の電車が早く来ることを祈った。

 別にボランティアや募金を馬鹿にしたわけではなかった。今更自分が、というのが率直な感想だった。

 罪悪感はあった、ただ、それよりも「今ここで多少自分がお金を出したところで何も変わらないのではないか」という無力感の方が勝っていた。

 詐欺の可能性もあるかもしれないし、どこにお金が使われているのかも実際には分からないじゃないか。

 言い訳をするように後からそう思い直す。

 自分自身に何か期待をかけるようなことはできない。できないんだ。

 社会人になった今の俺は、彼と違って何も特別じゃない。

 うんざりだった。

 たとえば今の仕事。俺でなければいけない理由はない。むしろ、特定の誰かしかできない仕事は危険だ。その人がいなくなれば誰もその代わりができないというのはビジネスにとって致命的だ。そんな仕事はありえない。

――営業はな、お客さんから信頼されるのが仕事なんだよ。同じ商品を売ってたとしても、この人から買いたいって思わせるのが良い営業マンだ。

 かつての自分の上司がそう言っていたのを思い出す。初めてのトラブル対応の時だ。原因はこちらが提示した見積もりの不備だった。その時は、その言葉にそれなりに納得していた。でも、彼が半年前に別の事業所に異動になってからだんだんとそうしたことも信じられなくなってきた。

 結局はどんな仕事にも規則やマニュアルがあり、できることとできないことはあらかじめ決められている。現場はあらかじめ決められていることをその都度適用していく。俺たちは文字通り人材であり、ヒューマンリソースであり、資源でしかない。

 人間関係は? これも分からない。大人になると、どんな人間が自分に利益をもたらしてくれて、どんな人間が今後関わることがない人間かある程度分かるようになってくる。実際それは正しいのかは分からない。けれど、そんな感覚に囚われるようになる。他人を、自分にとって損か得かという物差しでまず見てしまう。

 それは打算で利益を優先するとか、そういう話ではない。誰もが無駄を嫌い、リスクを嫌い、不快な人間よりは一緒にいて心地の良い人間と過ごしたがるというだけの話だ。

 結婚相手だって友達だって、人同士を比較して、「もっといい選択があるんじゃないか?」とか「もっといい人がいるんじゃないか?」と思って、より良い人を選ぼうとする。それ自体みんなやっていることだし、今更責めるべきことじゃないのかもしれない。

 でも、そんなことをしている内に自分さえマッチングアプリのプロフィール以上のものでないように思えてくる。性別、趣味、休日の過ごし方がどんなものか、年収がいくらで、家事がどれくらいできるか、あるいはどれだけ愉快な人間か? どれだけコンテンツ力があるか? そういうものの集積。

 俺たちは、まるで商品サンプルのように自分を展示する。数値化されたパラメーターと条件の塊。

 自分よりも有用で有能な人はいっぱいいる。天は二物を与えず、なんて言うがそれは嘘だ。そして、自分は彼らの代替品でしかないのだと思わされることさえある。そんなものはネガティヴな考えだ。そう自分に言い聞かせても、どこかで説得力のない空疎な慰めに聞こえた。

 家に帰る頃には雨が降り始めていた。急いでベランダに干しっぱなしだった洗濯物を取り込んで、ペンデンスを軒下へ避難させた。徐々に雨の勢いが強くなり、水滴が当たる音が激しくなっていくのを聞きながらふと考え込む。

 本当に問題なのは、自分の人生にとってさえ自分の存在が不要に思えてくることだ。

 夜、布団に入る頃には土砂降りだった雨は勢いを弱めていた。

 風が落ち着き、雨の音は次第に一定のリズムを刻み始めた。それは、ノイズのように、みんなの日常の背景に流されていく。

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