第18話 壊れちゃった

「やっべ……ケンジさん壊れちゃった……」


 ベアリスは思わずソファから立ち上がり、ケンジの姿を映し出していた水晶玉に近づく。水晶には楽しそうに笑いながらファーララと二人で花畑の中を四つ足で元気に走り回るケンジの姿が映っている。


「うわ~、何なんですかこれ。もうちょっとホモサピエンスらしくしてくださいよぉ……」


 ぽんぽんと水晶を掌底で叩く。昭和の家電じゃないんだからそんなことで直るか。さらに言うなら、壊れたのは水晶玉ではなく、ケンジの方である。


「まいったなぁ……追い込みすぎちゃったかなあ?」


 とはいえ、彼女は追いこんだつもりなど全くない。これだけ気を使って異世界を選んでやったと言うのに、彼はいったい何が不満だというのか。彼女にはそれが全く分からなかった。



――――――――――――――――



「何やってんだ俺はァ!!」


 ベッドの中からがばっと起き上がりながら俺は叫んだ。


 俺がファーララとバルススの町の中に四つ足で駆け出してから、約1か月後の朝の事である。ようやく俺は正気に返ったんだ。


 言い訳をさせて貰うのなら、別にこの1か月間、ずっと四つ足であははうふふと楽しく暮らしていたわけではない。


 午前と午後にそれぞれ2時間強、バルスス族の男たちを鍛え上げ、二足歩行のアドバイス、武器を手にしたときの体重移動の仕方を指導し、その合間に女房衆の文字制作も見てやってた。


 ただ、空いた時間はずっとファーララとあははうふふしてた。アフター5はもっぱら四つ足よ。


 それはともかく、はっきり言ってかなりバルスス族の戦力の底上げができた。みんな、二足歩行ができるようになったことで、両手がフリーになって、次々と新しい武器を考案したり、使い方を工夫し始めている。


 なんかこう……人類の進化の現場に立ち会ってるみたいだし、実際そうなのかもしれない。


 俺は、もしかしたらこの世界に多大な影響を与える知恵をヒューマン達に授けてしまったのかもしれない。自分が恐ろしい。


『ケンジさんもヒューマンでしょうが』


 うわ、久しぶりに女神の声聞いたな。


『すいません、アフターフォローがしっかりしてないと言われればそれまでですが、この1か月、なんかケンジさん凄く声をかけづらい状態だったので……』


 まあ、確かにな。自分自身でもそう思うわ。俺だったらお花畑であははうふふ言いながら四つ足で駆け回る人間なんかに絶対話しかけないもん。


 でも、さあ……


 この1か月、本当に楽しかったんだよなあ……こう、都会の喧騒を忘れて、田舎で牧歌的に生きる、的な。なんかさあ、脱サラして田舎でソバ打ち始めるおっさんの気持ちが分かった気がしたよ。


『そば打ちと四足歩行を同列に語らないで下さい』


 まあ確かに。


 楽しかったと同時に、このままじゃダメだな、ってのも分かった。まずバルスス族。1か月もみっちり歩く練習したってのにまだ立っていられるのは10分間くらいだ。全然上達しない。それでも短時間なら戦えるとは思うが。ヤル気あんのか。


 この中じゃ一番努力してるのはやっぱりファーララで、彼女はなんと1時間は支え無しで立っていられる。信じられない。


 いや信じられるだろうが。人間だぞ。なんかいつの間にか俺もこっちの価値観で物を語るようになってきちゃったな。いかんいかん、毒されてきてるぞ。この世界にいるとホント人間がダメになってくるな。


 ぱんぱん、と俺は自分の頬を叩いて気合を入れる。魔王を倒さなきゃいけないんだ。今日こそはスパルタで行くぞ! 俺はドアのついてない自室の出入り口から出ていこうとする。


「ケンジさん!!」


 その瞬間体当たり、いや、ファーララが飛びついて抱き着いてきた。


「おはようございますケンジさん!!」


「お、おはようファーララ……」


 まあ……明日からだな。厳しくするのは。今日は日が悪い。


「おっ、ケンジ様朝から熱々だねぇ」

「ご両人、今日も仲が良くていいねえ!」


 二人を見ていた王宮に暮らす人々も気軽に声をかけてくる。四足歩行を始めたあたりから、皆も俺の事を『勇者様』じゃなくて『ケンジ』と呼ぶようになってきた。なんか、本格的に仲間として認められた感じだ。


 俺は、どうすべきなんだろう。


 人間関係は快適の一言なんだが、しかし文明的には満足には程遠い。まず衛生観念というものがない。食中毒というのはこの世界じゃ悪い精霊が食いものにとり憑いたせいだと信じられてるし、うんこは川の流れてる上にある枝の上でする。


 さらにそのうんこの流れてる川の魚を捕まえて皆食べてる。


 樹上生活ってこともあって農業があまり発達しておらず、食糧事情も大分不安定みたいだ。以前飢饉になった時、市民だけじゃなく、首長オールムの十人いる子供の内二人も餓死したと聞いた。


 ベアリスは「共助の考え方が強い」と言っていたが、実際には食べ物の保存がきかないから腐らせるより分け与えた方がいいのが理由だ。共助じゃなくて原始共産制である。


 ホントに俺、ここで暮らしていくのか……? 病気になったら、治す方法は祈祷だぞ……?


 ファラーラは大分二足歩行が上手くなってきた。


 彼女と手をつなぎながら並んで歩いていると、慌ただしい声が聞こえてきた。バルスス族の青年が俺に呼びかける。


「大変だ、ケンジさん!! 魔族が攻めてきた!!」



――――――――――――――――



「クハハハハ! 愚かな人間どもめ! 魔族にひれ伏せぃ!!」


 魔族の戦闘能力に、城下町の一般市民では全く太刀打ちできなかった。まるで、そう、それこそ蜘蛛の子散らすように三々五々に逃げていく一般市民たち。入り組んだ樹上都市のため、魔族も深追いできないのがせめてもの救いであった。


「弱い! 弱いぞ人間共ォ!! まるで相手にならんな。この魔王軍四天王筆頭、一撃絶命二足歩行流空手創始者、黒鉄のカルナ=カルアフース永世十段率いる悪魔空手アクマカラテ軍団の前に手も足も出んか!!」


 青黒い肌に、頭部には一対の水牛のような角。涼やかな顔立ちの魔族、カルナ=カルア率いる魔族は、確かに情報通り、その全てが二足歩行であった。


「早く! 早くケンジ様をお呼びするんだ!」


 そう叫んだ男の腹をカルナ=カルアの手刀が貫いた。にやりと顔を歪めて笑顔を作る。



「何者が来ようと同じ事……勇者でもなければ俺の進撃を止めることなどできん!!」


 そう言って高らかに笑う。その姿はまさしく暴力の化身であった。


「二足歩行流空手?」


「そうだ! 二足歩行と空手を組み合わせた全く新しい最強の……」


「なんかすげーランクダウンしてない? お前それでいいの?」


 聞き覚えのある声。カルナ=カルアはゆっくりと声のする後ろに振り返る。


「アイエエエエ! ユウシャ! ユウシャナンデ!!」

「イヤーッ!!」

「グワーッ!!」


 カルナ=カルアはケンジのファイアボールを至近距離で喰らって吹っ飛んだ。

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