キンジュウ

直弥

第1話 霊渉(1)

 見るからに遮光性に優れた、重めの紺色のカーテンを閉め切った部屋の中。三十二型の液晶テレビと、新旧七種のテレビゲーム機を並べたスチールラック。漫画なり小説なりイラスト集なりの他に、ハードカバーのとある文豪の全集。自然科学系を中心とした、学術書とまでは言い難い初心者向けの新書。雑多で種々様々な書物が並べられた本棚が壁一面。更にはノートパソコンとその作業用であろうローデスク。通信販売のカタログに使われるイメージ画像そのままといった感じの、とってつけたような部屋の中で。


「…………」

「…………」


 ポーカーフェイスを気取った大の大人が二人、トランプを手にして向かい合っていた。男と女。男の手札は二枚で、女の手札は一枚。それぞれ相手には何の札であるか分からないように裏面を見せている形。つまりは傍目にも一目で分かる、ババ抜きの最終盤で。


「ほいっ」


そんな掛け声とともに意を決した女が、男の持つ札の内の一枚を引いた。そして。


「はい、あがりー。またウチの勝ちでーす」


 言って。したり顔でダイヤとクラブ二枚のキングを男に見せびらかしてから、女が捨て山の中へと滑り落とした。ブリーチがかったミルクティーブラウン――いやかなり白よりでむしろ真珠色か――の髪を、高めのポニーテールでまとめていて。膝上のショートパンツ、キャミソールという大胆な恰好の。もし制服を着ていれば、高校生と言い張っても通用しそうではあるが、相応の恰好と立ち居振る舞いをしていれば誰からも当然に大人扱いされるであろう塩梅の顔立ち。身長の方も一六〇センチ台半ばと、女性としては平均よりは少し高め。初対面の人間が年齢当てクイズを試みれば、平均値も中央値も二十代の半ばに収まるだろう。だが声だけを聴けば、あまりに舌足らずで子供っぽい。どうにも不可思議な女性。対して。


「マジかー」


 手元に残った一枚のジョーカーを手にしながら、渋い顔で溜め息を吐く男。白髪というよりはよりくすんだ色合いの、いわば銀鼠色の髪をした。その髪色に反して老爺や壮年というわけではない。顔立ちからすると女と同世代、二十代半ばといったところの青年。背は高く一八〇センチ以上で、強面というほどではないが少々いかめしい顔立ち。そんな彼に、女は。


「三回連続で最後にジョーカー残すとか、逆にすごいんじゃね? これはもう、何かろくでもないことが起こる暗示なのかもしれないなー」


 臆することも遠慮することもなく、おどけた調子のまま言葉を紡ぐ。


「保険入っとけば良かったのになー。でもハリーじゃあ審査落ちか。仕事がなー」

「ババ抜きに勝っただけで、よくそこまで煽れるな」

「才能かな」

「性格だろ」

「ははっ」


 屈託もなく。清々しいまでの笑い声を女が響かせると、つられて男も口角を上げる。男女の仲である以前に、十年以上を家族同然に生きてきた者同士だからこその、あけすけな空気感。ケンカするほど仲の良かった子供時代を超えて、もはや余程の事情がない限りケンカになりようがないほど、お互いを分かり合えてしまった二人の。


「まあ、なんでもいいけど。勝負は勝負、約束は約束だからねー。よろしくー」

「ああ、しょうがないな」


 言って。捨て札の山にジョーカーを投げ入れた榛が立ち上がって。テーブルの端に置いていた財布とスマートフォンを手にし、それをジーンズのポケットに仕舞いこみながら告げる。


「帰ってきたら先に寝てたとか、そういうのやめろよな」

「ねーって。そんな勿体ない」

「……じゃ、行ってくるわ」

「行ってらっしゃい。帰って来たら大事な話があるんだっけ?」

「人の死亡フラグを勝手に立てるな」



 ◆――それからものの数分後。



「はあっ、はあっ……」


 夜の帳に閉ざされた田園風景の中。まばらに佇む日本家屋と、ひび割れた空き瓶でいっぱいになったコンテナを軒先に並べた個人商店。だだっ広い平面駐車場を構えた、マイナーチェーンのスーパーマーケット。軽自動車の衝突でも容易く折れそうなほどか細い電柱。座席と車道までの距離が近すぎるロッジ風のカフェテリア。どこもかしこも灯りは消えていた。


「っ、はあっ……つうっ……」


 空さえも分厚い雲に覆われて星は見えない。白い月も齢は分からないほどにおぼろ。そんな夜道を、つい先ほどまで明るい部屋でトランプに興じ、ハリーと呼ばれていた男がひた走っていた。つまり大の大人が、断じてジョギングではない必死さで。 


 殺人鬼にでも追われているような形相。

 殺人鬼の方が、まだマシだったのかもしれない。


 彼に迫っているのは怪物だった。比喩的なものではなく真正の。影そのもののように漆黒の毛色。全体的なシルエット、形だけならネコ科動物に見える肢体はしなやかで、トラよりもチーターやヒョウに近い。しかし、サイズが尋常ではない。ティラノサウルス並みか、いやそれ以上か。少なくともアフリカゾウは超えている体高で。動物園の檻よりも、漫画か映画フィルムのコマから抜け出してきたような異形の獣。


 だが、かような怪物であればありがちな唸り声も咆哮も上げておらず無言――どころか、無音。どういう理屈だというのか。怪物の方は一切の足音さえも立てていない。舗装の粗いアスファルトの欠片一つも巻き上げず。これではまるで幻、あるいは幽霊。ただ正体がなんであろうと、追う者と追われる者の距離は確実に縮まってきていて。ついに、つま先が触れるほどに迫ると、覚悟を決めたような顔で振り返った男が拳を握って――青い稲妻が、怪物の眉間に直撃した。


「!?」

「――■■■■■」


 男が拳を振るうより先に、初めてこの世のものとは思えない咆哮を上げながら、怪物は倒れた。そうしてその冗談じみた巨躯は、完全に地に着くよりも先に消失した。最初から何もなかったように。幽鬼のように。


 落雷。いや、違う。確かに曇り空ではあるが、それは明らか。何故ならそれは上ではなく真横から、レーザー光線よろしく真っ直ぐに飛んできて怪物を狙い撃ったのだから。自然現象による雷撃、ステップトリーダにも匹敵する秒速一九〇キロ。にもかかわらず男がその事実に気付いたのは当然の話。稲妻は、彼の肩を紙一重に掠めて、彼の背方から放たれたものだった。


「危なかったね、おじさん。普通の人があれを相手にするなんて無茶だよ。というか、無理」


 嘆息混じり。わざとらしいほどの呆れ声に、男が振り返る。か細くもないが、野太くもない。変声期前の少年らしい声というのがしっくりとくる。果たしてその先に立っていたのは、やはりというか、一見して何の変哲もないごく普通の少年であった。歳は十三、四歳ほどか。髪は自然な黒色で、瞳の色は藍色。ピアスのように華美なアクセサリーの類は一切身に着けていない。しかし顔立ちはかなり整っていて、まつ毛も長い。中性的で透明感のある、美少年といって誰も否定しないであろう容貌。


「田舎だからってこんな時間に外を出歩くなよ、危ないぞ」

「どう考えたって危なかったのはそっちだと思うけど」

「……お前、さっきの化け物のこと知ってるのか?」

「まあね」

「というか、お前も大概おかしかったな。なんだよ、あの雷みてえなヤツは」

「超能力」

「だろうな」

「え、リアクション薄くない?」


 呆れるでも驚くでもなく。あまりにも淡白な男の言い分に、むしろ少年の方が軽い戸惑い覚えていた。


「ちっちゃい子が言ってるわけじゃないんだよ? 中学生ぐらいの歳で、大真面目な顔してこんなことを言っちゃう奴、どうかと思わない?」

「直に見せられた以上、疑いようがないだろ。肩も掠めたし。手品じゃ説明出来ない。もっと詳しい話をしてくれ。特にあのバカでかいネコみたいなのに関することとか」

「…………」


 意外にも真剣な面持ちで訊ねる男に、少年は却って慎重になってしばし口を噤んだ。子供相手と思って適当に話を合わせているだけなのか、それとも本当の本気なのかを図りかねて。だがやがて口を開いて。


「あれも超能力の産物だよ。おじさん、あれとどこでどうやって出くわした?」

「スーパーの駐車場で。女の人の悲鳴が聞こえてさ。なんだと思って行ってみたら、いた」

「女の人は?」

「影も形もなかった。無事に逃げられてたんなら、それで良いとか思ってたけど。あれって」

「罠だろうね。標的をおびき寄せるための」

「標的って、なんだって俺が」

「狙いはおじさんじゃなくて、僕の方だよ。というか一般人相手なら、正面から仕掛ければそれで十分だし。あなたは偶然通りかかっただけだよ。ごめんなさい、巻き込んで」


 頭を垂れて。声を落としながら、少年はそんな言葉を口にした。歳不相応な、おおよそ子供らしくもない謝り方で。よほどの畜生でなければ、そんな彼を責め立てることなど出来ないだろう。男も恐縮するように複雑な表情を浮かべ、次の言葉が口を突く。


「助けてもらっといて文句なんかないよ。それより、お前が狙われてるって方が心配かつ深刻だ。何かやらかしたのか?」

「子供に人殺しさせようとするような連中から逃げ出したのを、やらかしたって言うならね」

「っ! なんなんだ、そのとんでもない奴らは」

「僕がいた組織。僕たちが持っている超能力、正式には『霊渉れいしょう』っていうらしいんだけど。そういう力を持った人たちの集まりだよ。中でも僕の霊渉は珍しいものらしくって。まあそれが幸いして、前線に出るような任務に狩り出されることはあんまりなかったけど……それでも、あんなところにはいたくなかった。心まで化け物になりそうだったから」


 そう言って、少年はうつむき、服の裾をぎゅっと握り締めた。芝居にしては類型的が過ぎるその仕草が、却って真実味を帯びた印象。しかしそれ以上に。少年が何か具体的な事件、事象を思い浮かべているように見えたのか。男は、逡巡しながらも次の言葉を紡ぐ選択をした。


「……そもそも、なんでそんな組織にお前が」

「話すと少し長くなるんだけど……僕は元々、霊渉なんて存在も知らない普通の人間だったんだよ。霊渉は、ある特殊な遺伝子を持つ人間だけが発現させる可能性を持っててね。僕もそれを持ってたんだって。だから、攫われたんだよ」

「漫画みたいな話だな」

「ホントに。霊渉も大昔には当たり前の存在だったらしいんだけど、今は世間的に存在すらしないことになってるんだよね。だから、民間人のあなたが知らないのも当然だよ」

「ホントにまるっきり漫画じみた話だけど……先に実物を直に見ちまってると、やっぱ作り話とも言い捨てられないな。どう考えてもホログラムとかの類じゃなかったし」

「拍子抜けするぐらい、あっさりと信じてくれて助かるよ。まあ、そういうわけで。あの怪物の使い手は、逃げた僕を連れ戻しに来たってこと」

「どうする気だよ、これから。そいつ、実は今も近くにいたりするんじゃねえのか?」

「その心配はないと思う。あの人――岩崎っていうんだけど、戦闘については完全に霊渉の怪物頼りだったし。その怪物が手負いのままで深追いしてきたりはしないはず」

「……その怪物も見かけ倒しっぽかったけど。お前に一撃でやられたし」


 見たままを口にした男に、少年はわざとらしく溜め息を吐いてリアクションして。


「何を言ってんだろうね。むしろ見かけよりヤバイぐらいだってのに。普通の人間じゃ爪先を掠めたたけで細切れになってるんだから。反射神経だってとんでもない。あなたが囮になってくれてなきゃ、こっちの霊渉も躱されてたよ」

「爪先を掠めただけで、って……。そんなもん、戦車でも持ち出さなきゃ勝てなさそうだが」

「勝てないよ。戦車があっても」


 しれっとあっさりと、少年は断言する。ミニバンどころか軽トラックをも、ただ轢くだけでお釈迦に出来るような――あるいは鉄筋コンクリート製のビルにも容易く風穴を開けるような徹甲弾を放つ主砲を、当然のように搭載する現代の戦車を以てしても、先の獣には勝てやしないと。しかしそれも当然の話で。


「火力どうこうの問題じゃなくて、そもそもあの怪物って、霊渉による攻撃と人間の肉体以外は、あらゆる物質がすり抜けるんだよ。だから武器や兵器じゃどうしようもない。まあ逆に怪物側も人体以外に物理的な干渉が出来ないから、人にしか壊せないし殺せないけどね」

「逆にっつうか、それはむしろ脅威じゃないのか? だって、どんなに頑丈な建物とかシェルターの中に隠れてても、平気ですり抜けて侵入してくるってことだろ?」

「あ、ホントだ」

「……気付かないはずあるか?」

「盲点だったんだよ! ま、まあどっちにしろ、今はまだまともに動けないはずだよ」

「にしてもなあ。その手の専門機関とかないのかよ? お前を保護してくれるような」

「知らない。頼れそうな人の心当たりも全然」

「せめて警察にでも行けよ、じゃあ」

「信じてくれるわけないよ。こんなわけの分からない話」


 一般人代表らしい常套句を吐いた男に、少年は肩を竦めながら言うが。


「自分の能力があるんだから、それを見せればいいだろ」

 男も負けじと、素人感に溢れた正論を述べた。が。

「目立ちたくないんだよ。例の組織以外にまで僕の存在がバレたら、余計厄介なことになりそうだし」

男の言い分をまたあっさりと否定して。少年は二の句を紡ぐ。

「霊渉能力者なら、警察の守りなんかも余裕で突破してくるよ。無駄な被害も増える」

「意外と考えてるんだな、お前」


 言いながら、男は感心したように頷いた。少年はやはり見てくれ通りの年齢ではあるらしいが、並みの同年代よりはいくらか老成達観しているのも確かだと。


「しかし、だとしたらどうするよ? お前を連れ戻そうとしている組織を潰滅でもさせない限りは、安心も出来ないんじゃねえか?」

「それが出来ても、安心は出来ないよ。僕の霊渉が本当にそんなに珍しいものなら、他の組織にだって狙われるだろうし」 

「じゃあ、お前はずっと逃げ続けるつもりかよ? 生きている間中、ずっと」

「たいがいの生き物は、その方がむしろ自然な姿でしょ?」

「いやいや……」


 極論。生物種全体に対する割合における頂点捕食者の割合など、確かにほんの一握り――どころかほんの一摘み未満であろう。大半の種は死ぬまで被食者であり続ける。だがヒトはそれを文明という力で克服したはずではないのか。


「色々心配してくれたって、あなたじゃ何も出来ないしな」

「ハッキリ言ってくれやがる」

「だって、事実だし。霊渉って、ただ持っているだけで身体能力も底上げされる副作用があるんだよ。僕たちと普通の人とじゃあ、ただの殴り合いでも勝負にならない。じゃあ、そろそろ行くから」

「どこへだよ」

「さあ。でもともかく、岩崎さんの霊渉が無力化している内に、またどこか隠れる場所を探さなきゃ。どこかいい場所知らない?」

「そんなもん俺から訊いて、もし後で俺が岩崎とかいうのに脅しかけられたら、どうする気なんだよ。わざわざ手掛かりを残すなって」

「だからブラフ用に使うつもりだったのに。それぐらい察してよ」

「初対面でんなことまで察せるか。いい根性してるじゃねえか」

「どういたしまして。じゃあ、今度こそ本当に行くから」

 言って。少年は男に背を向けて歩き始めた。一歩、二歩――

「待て」

「え」


 掛けられた声に、反射的に振り返った瞬間に少年の顔は硬直した。心は戦慄した。少年を呼び止めた声の主は、少年がよく知る相手。つまり、先ほどまで話していた男ではなく。


「多田さん……っ」

「白々しいわ。今更さん付けなんて」


 含み笑いと共に言い捨てた。多田と呼ばれたのは、不精髭を生やしながらも顔立ちにはどこか幼さの残る、ちょうど少年と男の中間辺りの年齢と思しき青年で。少年が先ほどまで話していた男は、彼の足元に横たわっていた。

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