29:地下一階

 研究所の地下一階には、Xの独房が存在する。

 当初は拘置所から研究室に通うという話になりかけたが、『異界』への『潜航』はできれば毎日、それも時間いっぱいまで行いたい、という我々の主張が通った形になる。我々がアプローチできる『異界』は毎日、刻一刻と変化する。数多くのデータを取るためには、どうしてもそれだけの時間を異界潜航サンプルに付き合ってもらう必要がある。そういうことだ。

 Xは、拘置所から派遣されている刑務官に引き連れられて、我々の研究室を訪れる。いつもほとんど変わり映えのしない服装、手首にかけられた手錠。そして、何を考えているのかよくわからない、ぼんやりとした表情。

 今日も私は、そういうものだ、と思いながら、実際のところ何ひとつとして理解してなどいない、異界潜航サンプルを迎えるのだ。

「おはよう、X」

 Xは私の声に対して、軽い会釈で応じる。Xは私が許可しない限り発言をしようとしないが、言葉以外での表現は豊かな方だと思っている。具体的に何を考えているのかはわからないにせよ、Xが「何を伝えようとしているのか」は大体伝わるから。

 スタッフたちもまた、Xに気さくに挨拶をする。Xは律儀にもそれぞれの挨拶に頭を下げて応えながら、定位置である、研究室の奥に位置する寝台へと歩んでいく。

 いつからか、スタッフたちもXに対して気兼ねをしなくなったような気がする。私が目を離している間に、雑談に興じていることすらある――Xはあくまで相槌を打つだけであったが。円滑な『潜航』のためにはスタッフとサンプルの意思疎通も必要なことかもしれないが、Xと打ち解けすぎることに関しては、少しばかり危惧を覚えなくもない。

 我々は、あくまでXを「使う」側なのだ。生きた探査機であるXを使って『異界』を調査していくことが我々の職務。時にはXを切り捨てることも選択肢のうちだ。

 その一方で、Xほどのサンプルは稀有であることも認めざるを得ない。そう簡単に切り捨てるには惜しいほどに、Xは我々に従順であり、かつ『異界』の探査についての経験を積んできている。

 いつだったか、Xと言葉を交わしたことがある。発言を許可すると、Xは不思議そうに問いかけてきたものだった。

「私以外に、異界潜航サンプルは存在しないのですか」

「今のところは、ね。新たなサンプルを選出して、『異界』について教え込むには、それなりの労力が必要だから」

 この点についても、Xは素晴らしく物分かりがよかった。『異界』など、普通ならば一笑に付すような夢物語だ。異界潜航プロジェクトも、集団幻覚の一種だと思われても仕方ない。

 だが、Xは私たちの言葉に一つも疑問を差し挟むことなく、指示に従って『異界』へ潜ってみせたのだ。そういうものが存在する、ということを疑いもしなかった。これだけで、Xが特別なサンプルであることがわかる。

 同時に、我々にとってはXが最初のサンプルであり……、どうしても、以降のサンプルをXと比べてしまうことになるのだろう。

 とはいえ、それはもう少し先の話。今は、まだ、Xがここにいる。

 ここに、いるのだ。

「あなたにはまだまだ働いてもらうつもりよ」

 私が言うと、Xは少しだけ表情を動かした。Xの表情は、本当にわずかにしか変化しない。だから、それが一体どんな表情なのかを判断するのは私には難しい。ただ……、後に続いた言葉で、きっと。

「光栄です」

 ……笑ったのかもしれない、とは、思った。

 そんな記憶を呼び起こしながら、私は寝台に腰掛けるXを見やる。

 どうかしたのか、と言いたげな、虚ろな視線を受け止めて、私はそっと息をつく。

 地下の独房と研究室、そして遠い『異界』を行き来するだけの生活。それを「光栄」と評したXの内心を、私は結局知らないままでいる。

 そうだ。誰も、誰も、Xのことを知らないまま、『異界』の観測は続いていく。

 ――遠くない未来に、必ず終わりがくると、Xを含めた全員が理解していながら。

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