14:裏腹

 時に、Xの言動は私には理解しがたい。

 このプロジェクトに異界潜航サンプルとしてXを加えてからそれなりに経つが、総合的に見るならばXは極めて使い勝手のよいサンプルである。こちらの指示を忠実に守った上で、その指示に含まれない部分に関しては臨機応変に対応する。正直、X以外のサンプルでここまで上手く調査が進むかどうか、と言われても私は首を傾げざるを得ない。

 その一方で、時々、私はXについて何も知らないのだということを、思い出すことになる。

 まさに、今、この瞬間のように。

 Xの視界を繋げたディスプレイに映るのは、妙に暗く薄汚い路地裏。酷く痩せて、もつれた髪をした若い男が、壁を背に地面にへたり込んでいた。見ているこちらの方がかわいそうになるくらいに震えながら、涙目でXを見上げている。

「い、命だけは助けてくれ……、俺が、悪かったから……」

「命だけは、助けてくれ、ですか」

 対するXの顔はもちろん見えないが、その声はいつも通りに淡々として。

「同じ言葉を、あなたは何回聞いたのですかね?」

 Xは右手に握りこんだナイフを持ち上げる。よく研がれた大ぶりのナイフは、人を殺すのに極めて適した形をしているように、見えた。

 このナイフは、一瞬前までは目の前の男のものであった。

 そもそも、異国のスラムを思わせるこの『異界』において、Xはどうやら悪目立ちをしていたらしい。あちこちから視線を感じながらも観測のために街中を歩いているうちに、路地裏に迷い込み……、そして、突如として現れたこの男に襲われたのだ。

 しかし、私が緊急引き上げを試みようとするよりも先に、Xが男の腕を捻り上げ、握っていたナイフを取り落とさせたかと思えば、次の瞬間には男が地面に伏していたのだった。一体Xが何をしたのか、画面の情報だけで判断することは難しかったが、たった数秒で男を伸したのだということだけは伝わった。

 そして、Xは落ちたナイフを拾い上げて――、今に至るというわけだ。

「人を、狙ったのは、これが初めてだ! 本当だ、信じてくれ!」

 そうですか。と、信じているのかいないのか判じがたい、平坦な声。きっと、Xの表情も、どこまでも凪いでいるに違いない。普段から感情をほとんど見せないXだが、こういう時には一種の威圧感を伴うのかもしれない。その手に凶器を握っているなら、尚更。

「どうして、人を襲おうと思ったのです? 私から剥げるものなんて、大したものではないでしょう」

「あんたの体が欲しかったんだ……、腕一本売らせてくれるだけで、よかった」

「なるほど?」

 場所が変われば常識も異なるもので、ここではそういう常識がまかり通っているということらしい。数多の『異界』を巡ってきて、『こちら側』の感覚では理解できないようなものも多く目にしてきたXだ、ひとまず「そういうもの」として飲み込んだのだろう。

 男の体の震えがさらに増していくのがわかる。緊張と恐怖に唇をわななかせながら、かろうじて声を上げる。

「なあ、頼むよ……、許してくれ……」

「別に、私の許しが欲しいわけではないでしょう」

「へ?」

「あなたが、一刻も早くこの場を脱したい、と願うことと、私の許しとの間に何ら関係はないということです。行くなら、どうぞ、ご自由に」

 間抜けな声を上げる男に対し、Xはナイフを手にしたまま道を譲る。男は目を白黒させて開かれた道と、Xとを交互に見やる。それはそうだろう。私だってまさかXが何をするでもなく、男をそのまま帰すとは思わなかったから。

 男はふらふらと立ち上がり、それでもしばらくXを凝視していた。もしくは、Xが手にしているナイフを、かもしれない。すると、Xは男から手元のナイフに視線を落として言った。

「私の気が変わる前に、行った方がいいと思いますよ」

 ――私は、何も、許してはいないので。

 どこまでも穏やかな声とは裏腹な、冷ややかな言葉。これには男も震え上がり、足をもつれさせながらXの前を通って、路地の向こうへと駆けていく。

 その背中が見えなくなるまで見送っていたXは、長く息をついて、男が残していったナイフを翳す。磨き抜かれたナイフには、Xの顔がわずかに湾曲して映る。しばしその刀身を見つめていたXは、急に興味を失ったかのように、ナイフを放った。からん、という乾いた音が路地に響く。

 地面の上のナイフを一瞥すらせずに、Xは歩き出す。

 私はその足取りをディスプレイ越しに見つめながら、Xの心境に思いを馳せずにはいられない。命の危険に晒されながら、迷いなく踏み込んでみせる胆力は、Xの強みと言えるだろう。だが、その一方で不安をも誘うものであると感じる。

 言ってしまえば、気味が悪いのだ。落ち着き払った態度も、どこか噛み合わない言葉も。一体、Xが何を考えてそうしているのか、私にはやはりわからない。わからないのだ。

 そんな私の心境など知らぬまま、Xは普段と変わらぬ足取りで歩いていく。ごみごみとした道を抜けて、次の区画へ。

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