10:水中花

 窓の外、青く広がる世界に、赤い花が群れ咲いていた。

 ドレスの裾のような、ひらひらとした花弁を揺らし、咲き誇る花。その赤さを目に焼き付けながら、ソファに腰掛けたXは傍らに立つ女に向かって言う。

「きれいな花ですね」

 すると、女はくすりと笑みをこぼして言った。

「これは花じゃないんですよ。赤い部分も、全部、藻の一種」

「藻、ですか」

 わかっているのかわかっていないのか。そんなふんわりとした反応を返すXが面白かったのか、女はくすくすと笑いながら長く伸びた黒い尾を振る。

 そう、女は確かに私から見る限り「女」と表現できる姿をしてはいたが、その全てが人の形をしているわけではなかった。人にあるはずの二本の脚の代わりに伸びているのは、独特な形の魚の尾だ。

「人間のお客様はこういうものを喜ぶらしいので、ひとつ、用意してみたんですよ」

「なるほど?」

 赤い花は風に吹かれているのとはまた異なる揺れ方で、絶えずゆらめいている。Xは藻だと言われたそれをもう一度確かめた後に、女を見やる。人懐こそうな笑みを浮かべた女は「どうしました?」と小首を傾げてみせる。

「ということは、ここには、人の客も来るんですか?」

「ええ。ほとんどは、偶然流れ着くみたいですけどね。お客様のように」

 もう一度「なるほど」と呟くように言って、Xは辺りを見渡す。

 Xの目の前を行き過ぎたのは、色鮮やかな魚。そして、Xが今いるホールには、大小さまざまな魚の他に、女と似た人間の上半身に魚の下半身をした者や、巨大な魚のようだが二足歩行をしている者など、異様な姿をした者たちがちらほらと見える。彼らはめいめいの過ごし方をしているが、どこか浮かれているように見える、というところは共通していた。

 Xも私とそう変わらない評価を下したのだろう、視線を目の前のテーブルと、そこに置かれたひとつのグラスに落とす。

「……皆さん、楽しそう、ですね」

「訪れてくださったお客様に、ほんのひと時、非日常を満喫していただく。それが『りゅうぐうじょう』のお役目ですから」

「りゅうぐうじょう」

 りゅうぐうじょう。竜宮城。

 それは古くから伝わるおとぎ話、浦島太郎に登場する城の名前。亀を助けたところ、海の底に存在する城に招待された浦島太郎。城の主、乙姫の歓待を受けて宴の日々を送るが、いざ自分の住んでいた場所に帰ったときには、あまりにも長い時が過ぎ去ってしまっていた、という物語。

 要するに『こちら側』ではない場所――『異界』に迷い込んだ者にまつわる物語であり、リップ・ヴァン・ウィンクルやティル・ナ・ノーグなど、世界各国似たようなエピソードには事欠かない。

 Xも流石に浦島太郎くらいは知っていたらしく、わずかに不安げな声音で女に問いかける。

「ほんのひと時、って、本当ですか? 突然、数十年経ってたりとか、しませんよね?」

 今のところ私たちは『こちら側』正常にXを観測できているが、この『異界』から引き上げるときに異常が発生しないとも限らない。『こちら側』と『異界』の時間の流れが異なる可能性は、どこまでもゼロではないのだ。

 けれど、女はあっけらかんと言うのだ。

「それは、おとぎ話の『竜宮城』のお話ですよね?」

「え? あ、そう、ですけど」

「ここも、おとぎ話の『竜宮城』をイメージしていますし、お客様には数十年分に等しい楽しみをご提供させていただく心構えですが、時間の流れがずれてしまうなんて、そんなこと現実にあるわけないじゃないですか」

「そういうもの、ですか」

 この『異界』ではそういうこと、らしい。正直なところ、私からしてみれば、人魚が当たり前のように存在していることと、時間の流れがずれてしまうことの間にそこまで大きな差があるようには思えないのだが。

 女は手にしていたメニューを差し出してくる。

 その仕草だけ見れば、『こちら側』の飲食店と何ら変わらぬ様子で。けれど、明らかに『こちら側』とは異なる世界において、明らかに人ではない女が、にっこりと笑って言うのだった。

「では、お客様。お飲み物は何がよろしいですか?」

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