09:神隠し

「あの子はどこに行ったの?」

 一緒にいたのでしょう、という鋭い声がいくつも降ってきて、身が竦む。喉が渇く。頭の中がぐちゃぐちゃにかき回される思いに囚われる。

 そう、一緒にいた。確かに一瞬前まで一緒にいたはずなのに、割れた夕焼け空の隙間に駆け出していく背中を最後に、その姿は私の目には見えなくなってしまった。

 脳裏にあの子の笑顔が焼きついて離れない。鏡に映った私とほとんど同じ顔で笑っていた顔ばかりが思い出されて、いつだって、それ以外の顔が浮かぶことはない。

「ねえ、一緒に行こう」

 小さな手が差し出されたのは、果たして現実だっただろうか。思い出せないけれど、最後までその手を握ることはできなかったのだということだけは、確かだった。

 だから、一緒にいたはずのあの子は消えてしまった。

 ここではないいずこか。此岸と彼岸、この世とあの世、もしくは、いくつも存在し得るといわれる平行世界。つまるところ、無数に広がる可能性の、どこかに。

 ――そんな、夢を、見た。

 

 

 この日の『潜航』も問題なく済んだ。今回の『異界』は随分広かったので、Xによる探索にも時間がかかり、結局時間切れで引き上げることになった。Xの心身の健康を維持するためにも、一定の制限は必要だ。『潜航』は今日だけではないし、できることならXという従順なサンプルをそう簡単に使い潰したくはなかったから。

 そんなことを考えながら収集した情報をデータベースに登録していると、寝台に腰掛けたXがじっとこちらを見ていることに気づいた。

「どうかしたの、X? ……いいわよ、発言しても」

 発言を許可しても、Xはすぐには話し始めず、ちょっとだけ首を傾げて私の顔を見て、それからぽつりと言った。

「顔色が、悪くありませんか?」

「私が?」

 はい、とXは神妙な顔で頷く。新人が「え、どっか悪いんですか、リーダー」とXの言葉を真に受けて問いかけてくるが、私はかぶりを振る。

「別に、どこも悪くないと思うけれど」

 言いながら、頬に手のひらを当ててみる。それだけで自分の体調を測れるわけではないのだが、何となくそうせずにはいられなかった。

 熱があるわけではなさそうだし、血が足りないわけでもない。それでも顔色が悪いとXが言うからには、何かが普段の私とは違うように見えているのだろう。きっと。

 そこまで考えたところで、ふと、思い当たることがあった。

「ああ、そうね。今日、夢見がよくなくて。眠りが浅かったのかもしれないわね」

「夢見、ですか」

「あなたは、よく夢を見る?」

 私は逆にXに問うてみた。Xは記憶を手繰るようにしばし視線を彷徨わせた後に言う。

「見ている、と思いますが。目覚めたときには、忘れていることが多い、ですね」

「そうね。夢なんて、ほとんどそんなものよね」

 わずかな後味だけを残して、あとかたもなく消えてゆくもの。だから、私が見たものはきっと、夢というよりも「記憶」なのだと、思う。

 そうだ、「記憶」なのだ。私を責めるように降ってきた声も、あの子と一緒にいたという思い出も、そして、私たちの目の前で裂けて、あの子を飲み込んでいった夕焼けも。確かな胸の痛みと共に、改めてそれが自分の中での「事実」であったと確かめながら、口を開く。

「私が見たのは、初めて『異界』に触れた日の、夢。思い出、と言い換えてもいいかもしれないわね」

「『異界』に、触れた、日?」

「そう。今に至るまで私を突き動かす、思い出」

 本当は、全てを話してしまってもよかったのかもしれない。あまたの『異界』を垣間見てきたXならば、きっと疑いもなく飲み込むであろう出来事。それでも、まだ、私の中で言葉にすることが躊躇われて、私はその代わりに唇を歪める。

 上手く笑えたかどうかは、わからなかった。

「……なんてね。大した話ではないわ。気にしないで」

 冗談めかしてみせたけれど、Xの目は真っ直ぐに私を見ていた。やがて、ほんの少しだけ口の端を歪めて。

「今日は、ゆっくり眠れると、いいですね」

 それだけを、言ったのだった。

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