駆け込み乗車

おかずー

駆け込み乗車

「次はx駅、次はx駅。y線にお乗換えの方はこの駅でお降りください」

 僕はシートの端っこに座って、イヤホン越しにアナウンスを聞いた。家からの最寄り駅は次の次の駅である。しかし、時間に余裕がある時などはあえて次の駅で降りて、一駅歩くようにしている。三十歳を過ぎてから目立つようになってきた腹をへこませるためだけど、一駅歩いたところで特段変わらないことも最近分かってきた。今日はどうしようか。このままメタボ体型まっしぐらでいいのか。痩せるには日々の努力を積み重ねることが重要だぞ。でもなあ。もう二十二時を過ぎているし、明日も仕事だ。早く帰って寝た方がいいぞ。耳の横で天使と悪魔が囁きあう。

 結論が出ないうちに駅に着く。乗り換え駅なので、それなりに空間を埋めていた乗客たちの半分ほどが降りていく。立っていた人たちが安堵した表情で空いているシートに腰を下ろす。さあ、自分はどうしようか。明日から頑張ればいいじゃん。笑いながら悪魔が言った。そうだよな。明日から頑張ればいい。僕は太ももの力を抜いて、もうしばらくシートに体重を預けることにする。

 ピイイイイイイ!と車両の外で音が鳴った。扉が閉まる寸前、一人の女性が駆け込んできたので、慌てて開いた。その後、怒ったように扉は勢いよく閉じられた。

 駆け込んできたのは一人の女性だった。大学生だろうか、手には透明のキャリングケースを持っている。彼女はついさっきまで僕の正面に座っていた女の子だった。有名な人気女優に似ていたので印象に残っていた。

 彼女が戻ってきた理由はすぐに分かった。忘れ物をしたのだ。とても大切なものを忘れたのだろう。彼女は顔を引き攣らせたまま、さっきまで自分が座っていた場所の周りを見回している。彼女が座っていた席に座った、こちらも大学生くらいの男性は、訝しげに、しかし我関せずといった様子でイヤホンをしたまま静かに目をつむった。

 彼女は忘れ物を見つけられないまま、キャリングケースの中身をかき回しながら、やはり目当てのものを探し当てられずに再び周囲を見回し始めた。

 彼女はなにを忘れたのだろうか。僕は少しばかり興味が沸いた。

 たとえば、傘を忘れたとする。今日は朝から雨が降っていて、夕方に止んだ。だから傘を電車の中に忘れるということはよくある。けど、傘を忘れたとしても、わざわざ電車に戻ってくることはしないだろう。後から問い合わせるか、もしくは諦めて新しい傘を買うか。今は五百円も出せばそれなりにいい傘が買える。それに傘の場合だと、わざわざキャリングケースを漁らない。

 たとえば、財布。現金以外にも、クレジットカードやキャッシュカードだって入っているかもしれない。悪用されたらどうしよう。不安になる。免許証だって入っているかもしれない。ああ、あの免許証の写真すっごく写りが悪いのに。そんなことすら考えるかもしれない。

 たとえば、スマートフォン。これが確率としては一番高い。今はなんだってスマートフォンでやってしまえる。友達との連絡やSNS以外にも、買い物や読書、映画鑑賞に株取引だってできる。なにより個人情報が山積みに入っている。スマートフォンを落として悲惨な目にあうといった映画まであったほどだ。もし彼女がスマートフォンを落としたのであれば、彼女の狼狽ぶりも納得できる。

 たとえば、恋人にもらったプレゼント。指輪とか、ネックレスとか。あるいは手帳や日記帳、デジタルカメラ。母親の形見。自転車の鍵。たとえば、たとえば。

 僕が妄想を続けるうちに電車はぐんぐんと進んで行く。いつの間にか、彼女はすっかりと諦めた様子で、シートに腰を降ろしていた。

「次はz駅。次はz駅」

 アナウンスが聞こえた。僕は先ほどと同じように、シートの端っこに腰を下ろしたまま、イヤホン越しにそのアナウンスを聞いた。

 電車がブレーキをかけて減速を始めると同時に、今度こそ太ももに力を込めて腰を浮かした。電車はホームに入る直前、ファアアアアアアアアアン!と大きなクラクションを鳴らした。そしてゆっくりと息をひそめて停車した。

 扉が開く。彼女は意を決したようにすっくと立ち上がり、勢いよく飛び出していった。彼女は向かい側に停車していた電車へ、先ほどと同じよう駆け込んでいった。ちょうど扉が閉まりかけていたタイミングだったので、慌てて扉が開き、そしてやっぱり怒ったように乱暴に閉じられた。

 僕はゆっくりと電車を降りて、改札へと向かった。改札を抜けた瞬間、彼女のことを忘れた。

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駆け込み乗車 おかずー @higk8430

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