第5話 夜合 完
「だが安心しろ。お前らを殺しに来たわけじゃない。人に戻す薬を作っていると聞いて、面白そうだから見に来たんだ」
「な、何を……」
安西が怯えるように後ろに下がる。それが普通の鬼の反応だ。他の二人は、そんな安西の様子を見て狼狽えている。どうしていいか分からない様子だった。
「知りたいんだ。何故そんな薬を作っているのか。それだけ聞いたら帰るよ。この植物を置いて」
バサバサと花束を揺らす。安西はそんな五葉の様子を見ていたが、やがて深く息をつき、こう言った。
「私たちを殺す気はないんだな」
「殺す気ならもうやっている。不意を突けば一瞬だった」
実際には必殺の間合いには遠いが、しかし、言うだけなら何でも言える。
安西が探るように
「松木君から聞いたのか。彼は……無事なのか」
「ああ。彼から聞いた。街で見つけてね、それで接触した。彼は無事だよ。なんなら電話でもしてみるといい。花屋でバイト中だから、出ないかもしれないが」
「……分かった。それで、どこまで聞いている」
「あんたらがここで人間に戻る薬を作っていて、松木やその他の鬼にも配っていると聞いた」
「そう。それが全てだ……他に言う事はないよ。何が聞きたい」
「何故そんな薬を作っているのか、その理由を聞きたい」
「理由……だって?」
安西は怪訝そうに聞き返した。
「それは……我々鬼を殺すのは君達夜合じゃないか? 我々は怯えながら生きている。
「夜合はもういない。俺は夜合と言ったが、それは分かりやすいからだ。実際は元夜合だ。もう組織はなくなったし、鬼を探して殺しまわる奴もいない」
「しかし君は……街で見かけた松木君に接触した」
「殺すためじゃない。興味があったんだよ。鬼のくせに人みたいな様子だったから、それが気になった。好奇心さ」
「例え夜合が無くなっても、我々の立場は変わらん。人間社会にとっては邪魔なもの、不必要なものだ。戸籍も死人扱いで無くなってるから、何もできない。家も借りられない。免許も取れない。洞窟で蛙や蝙蝠を食って生きるのは、余りにも耐えがたいんだよ。だから、人に戻りたい。鬼には鬼の苦しみがあるんだ。君らは鼻で笑うかもしれんが」
「人間を食えばいいじゃないか。鬼として生きればいい」
「君は……何を言ってるんだ? 夜合だろ、君は?」
「夜合の立場は関係ない。これはあんたらの話さ。人に戻りたいとあんたは言ったが、別に鬼のまま人間を食って生きていればいいじゃないか。実際、あんたらの先輩は人間を食いながらも千年もの長きに渡って人間社会に潜んでいた。それを真似すればいい。洞窟で蛙なんか食う必要はない」
「ひ、人を殺せというのか……」
安西が戸惑うように言った。それはそうだろう。人から、それも他ならぬ夜合から、人間を食えばいいと言われるなど。しかし、五葉は続けた。
「それが鬼だろう。何をためらう。正にそこが、俺の聞きたいところなんだ。鬼が人間を食う、食いたいと思うのは、それは自然なことのはずだ。なのにあんたらは人間を食わず、人に戻る薬なんかを作っている。人で言えば即身仏か? 絶食して生きたまま木乃伊になるような、そんな不自然なことに思える。しかし即身仏には意味がある。それは祈りだからだ。何故あんたたちは、人に戻る道を選んだ?」
「……確かに、私達鬼は人間を食うのが当たり前の生き物だ。そう、だった……。しかし頭珠天が死に、その軛から解き放たれたんだ。無理に人間を食わなくても良くなった」
「あんたは嫌々人間を食っていたのか?」
その問いに、安西は目を伏せて黙り込む。だが意を決したように、再び話し始める。
「一番最初はともかく、それ以降は抵抗はなかったよ。いや……喜んで食っていたんだろうね」
「それが何故、絶食して人に戻る薬なんかを?」
「その薬が出来たから……としか言いようがない。突如希望が訪れたんだよ。私たちの、死と血の満ちる泥濘の中であがくような生き方に、光明が差したんだ。また人に戻れるのならと……そして、その研究は実を結びつつある」
「今のあんたらは薬を飲んでいるのか」
「ああ、飲んでいる。普通の鬼は人の食事はほとんど栄養にならないが、我々は少量の動物の血液と普通の食事で大丈夫だ」
「もし俺たちがもっと早くにあんたと出会っていたなら……もっと早く戦いは終わったのか」
「かも知れん。しかし……頭珠天が許さんだろう。分からん」
「そうだな」
薬ができたのはたまたま。こいつらが人に戻ろうとしているのは偶然という事か。何とも妙な話だ。しかし、そんなものかも知れない。五葉はそう思った。
分かった。もう帰るよ。
五葉がそう言おうとした時、若い方の男が素っ頓狂な声を上げた。首を押さえ、かきむしるようにして暴れる。隣のもう一人の男もだ。
肉が千切れ、骨の捩じれる音が聞こえた。二人の男の首が段々と後ろを向き、そして一周して前に戻ってくる。二人の男は首を捩じり折られ、床に転がり手足を痙攣させていた。
「何てことを……! 何もしないといったじゃないか!」
安西が二人を見て気色ばむ。
タチアナさんの力だ。しかし何故? 五葉にも理由が分からなかった。二人が何か攻撃を仕掛けようとしているようにも見えなかった。
「……安心しろ。心臓をつぶしてはいないから、一時間ほどで戻る」
「何故こんなことを? 質問には答えただろう! 最初からそのつもりだったのか!」
「……最後の質問だ。答えてくれ」
「ふ、ふざけるな! これ以上何を答えろというんだ!」
安西の目が血走ってきている。体も一回り大きく膨らんできている。かなり弱くなっているとは言え鬼の力は健在らしい。興奮してそれが顕れてきた。五葉は冷静にその様子を見ていた。
「人に戻ったとして、何をするんだ? あんたは人間を殺し、食った。そんなあんたが、人に戻れると思うのか?」
「それは……」
安西はたじろぎ、目を伏せて体を震わせる。
「仕方なかったんだ! 食わなければ死ぬ! 鬼は……それでも私は、人でありたいんだ!」
五葉は安西をもう一度見鬼の目で見た。白に近い青。人ではない。鬼だ。
「……鬼は鬼だ。死ね」
五葉はそう言い、花束を足元に捨てた。
安西が首を抑えあがく。タチアナの力だ。しかし捩じるより早く、安西は地面を蹴って飛び上がり、三メートルほどの高さで背中から壁にしがみついた。
「やめてくれ! もう私達の事は放っておいてくれ!」
「お前は鬼だ」
安西の体が下に引っ張られる。五葉にはタチアナの力は見えないが、力の流れが雰囲気で分かった。
「くそ!」
安西が壁を蹴り、五葉に飛び掛かる。その安西の体をタチアナが横に吹き飛ばし、壁に叩きつけた。
床に倒れた安西の手足を折ろうとタチアナが力を込める。しかし、安西もそれを察知し素早く体をひねって力を外す。
五メートルの距離で、安西と五葉は向き合っていた。
「やめてくれ、頼むから。今更こんなことをして何になる? そんなに鬼が憎いのか? 私が許せないのか?」
憎い? 許せない? さあ、どうだろう。俺はなぜ、こいつを殺そうと思っているのだろうか。五葉ははっきりとした言葉で説明できなかった。その代わりに、こう言った。
「死ね」
安西が地を蹴り、斜め右に移動する。タチアナの力が安西を抑えようとするが、安西は素早く左に跳んで身を躱す。そして五葉を突き飛ばし、その手で五葉の頭をつかみ、壁にたたきつける。
万力のような力が五葉の頭を締め付ける。しかしこれは力の半分も出ていないだろう。本気になれば、人の骨格など砂糖菓子のようなものだ。
「私たちに罪があったとしても、それでも、生きていたいんだ。人としてやり直したいんだ! それがそんなに悪い事か!」
言いながら、安西は赤い目から涙を流していた。しかし、五葉にその様子は見えなかった。安西の手が視界をふさいでいる。見えなければ念動力も使えない。それを知ったうえで、安西はこうしているのだった。鬼の戦い方だった。
五葉は自分の頭を押さえる手を外そうとするが、びくともしない。鬼の力は完全に五葉の命を握っていた。
「……今更人に戻ってどうなる」
締め上げられながら、絞り出すように五葉が答えた。
「鬼になるのはごろつきやはみ出し者がほとんどだ……鬼になる前からろくな奴じゃなかった……そんな奴が人に戻って、何をしようというんだ」
「……黙れ」
静かに、安西が言った。そして叫ぶ。
「黙れ! お前に何が分かる! お前に俺の何が分かるっていうんだよ!」
安西は激昂し五葉の頭を握りつぶそうとした。五葉もその力を感じたが、しかし、すぐに拘束は緩んだ。
「ぐ……くぅ……!」
安西は自分の首を押さえていた。タチアナの力が締め上げ、捩じろうとしているのだ。安西の体が数センチ床から浮き上がり、完全にタチアナの制御下に入った。
五葉は荒く息をつき、頭をさすった。着ているシャツのボタンが千切れ、鳩尾の辺りまではだけ、タチアナの人面瘡が覗いていた。
タチアナの力は見えているものにしか作用できない。そしてその目は五葉の目でなく、人面瘡の目でもいいのだ。実際に胸に目玉があるわけではないが、何故かタチアナはそれで見える。咄嗟に五葉が思い出し、そして難を逃れた。
「お前たちは人になれない。鬼は鬼だ。どこにも行けない。そこで死ね」
宙に浮かぶ安西の左胸が陥没し、内側で骨や肉の潰れる音が聞こえた。そして安西の目から光が無くなる。全身から力が抜け、そして崩れるように床に倒れた。
鬼には強い再生能力があるが、心臓を破壊された鬼は即死する。タチアナが、安西の心臓を潰したのだった。
五葉は壁に背をつき、そのままずるずると下にしゃがみこんだ。頭がひどく痛い。しかし骨にひびが入っているわけではないだろう。危ないところだった。
「何故……あんなことを? タチアナさん」
五葉に殺す意思はなかった。協力する気もなかったが、しかし、放っておけばいいだろうと思っていた。だがタチアナが急にあの二人の首を折って、こうせざるを得なかった。
胸に触れる。二回、否定だ。違う? 何が違うというのか。細かく聞こうにも、パズルがないから分からない。
しかしこうなって改めて考えてみると、俺は最初からこうしたかったのかも知れない。人に戻る薬など、鬼には不要だ。鬼は人の終わり。終わったものに、再び人の人生はあり得ない。それにあいつらの色は、いくら白くても青だったじゃないか。五葉はそう思った。
だとすれば、結局俺は、奴らを殺そうと決めていたのだろう。無意識に、そう願ったのだ。それがタチアナさんにも分かったのだ、きっと。
胸に触れていると、他人のように温かく感じる。自分の体だが、しかし、ここにはタチアナさんがいるのだ。
さあ、あそこで倒れている二人も殺さなければならない。松木もだ。それに、他にもいるようなら全部殺さないと。
俺とタチアナさんは夜合だ。鬼は殺す。人生とは、そういうものだ。
心を重ねて 登美川ステファニイ @ulbak
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