3 怒涛の出勤初日
断るチャンスは何度もあった。
真新しいブルーの白衣を身に着けレジの前に立った時、咲哉は、初めてドラッグストアのアルバイト店員になってしまった事を実感した。
甚だ遅い。
新たな夢を見つけて踏み出す予定だった。
何故こうなってしまったのか。
思い当たる節はある。
そろそろ、先の見えない就職活動に心が折れそうだった。
返す返すも間が悪い。
学生時代にドラックストアの早朝納品のアルバイトをしていた経験が、なにやら縁を感じさせた。
あの時も転機だった。交通事故で大怪我を負って、回復した頃だった。体を動かすアルバイトをしたかった。自分を試すために。
再び訪れた転機。しばらくここで凌げという天啓なのかもしれない。さすれば道は開けん、と。
神の御言葉。空耳だった。
やっと見つけた新人逃すまじ。そんな俗世の声が聞こえるかのように、背中に突き刺さる店長の圧。しかし、それだけなら逃げ切れた。
そんな店長の意を酌んで、ここぞと言う絶妙のタイミングで話をそらし、雇用関係を既成事実化しようとする沢田さん。理由は判然としない。けれど何故だか沢田さんの言う事は聞かなければならないような気がする。
2020年、ドラックパピヨン、京都13号店スタッフとして勤務。
咲哉の履歴書に、はっきりとその一行が追加されてしまった。
考えていても仕方がない。
タイムカードはしっかり刻印されてしまった。
時給960円だって、ないよりはいい。
ずっといい。
コロナが治まるまでの辛抱だ。
教えられた業務をこなすのみ。
今日は休みの店長から、沢田さんの指示に従うようにと、事前に言われていた。沢田さんは店長が信頼する腹心の部下なのだ。
まずは、レジ業務に慣れる事。
商品のバーコードをスキャンする。ポイントカードの提示を求める。代金を受け取り、おつりを渡す。
「いらっしゃいませ」
「ありがとうございます」
一口にレジ業務と言っても結構複雑だ。現金、カード、電子マネー。期限や使用ルールがまちまちなサービス券。間違えないかと、内心ドキドキしている。
「200円はポイントで、150円を現金で、残りはカード3回払いでお願いします」
嫌だ、と、言いたい。
そうまでして必要なのか、5000円の美容液。
もちろん笑顔で応対する。一たび白衣に袖を通せば、お客様は神様だ。
神様の行列が途切れた。
「そんなに固くならなくても大丈夫よ」
咲哉の肩を叩いたのは同じレジスペースの入っている男性社員。名札には“医薬品登録販売者、波窪”とある。またしても年齢不詳。紹介してもらったどの女性スタッフより言葉使いが女性っぽい。そして、ひ弱そうだ。
出入口のすぐ近く。同じブース。背中合わせのような状態で二台のレジをそれぞれ担当している。
店内にレジは四台。主に稼働しているのが、この二台のレジだ。
その他にビューティーコーナーと医薬品コーナーにそれぞれ一台ずつのレジがある。こちらの2台は特別な接客が必要な場合や、メインのレジが清算や不具合などで動かせない時などに使われる。
研修中の咲哉は、メインレジを回す。波窪さんは不測の事態に備えながら、混んできた時にはもう一台のレジを回す。新人のフォロー係だ。
「冷静でなきゃ駄目、だけど適度な緊張も必要。難しいかな、何か困った事があったら、私に言ってくれたらいいよ」
「ありがとうございます」
いささか頼りなげな外見のフォロー係に不安を覚えていた咲哉だったが、親切なアドバイスをもらい、素直に頭を下げた。
「いらっしゃいま、せ…」
元気に発声してみたものの、その一言を吐き出す事すら難しい。次の神様は、控え目に言ってご機嫌斜め。ガンッと大きな音を立てて買い物かごをレジ台の置く。顎マスクでガムを噛みながら威嚇するように睨みつける。
「はよせえやっ!」
大声が響く。
「あ、はい…」
手が震える。この時が早く過ぎますようにと、祈るようにバーコードを読み進める。
「レジ袋は」
言い終わる前に、神様の不快そうな声が割って入る。
「はぁぁ?!」
目を見開く神様。咲哉は精一杯腹に力を込める。
「レジ袋はお入り用でしょうか」
「聞こえへんねんっ!」
アクリル板に拳を叩きつける神様。確かに、マスクとアクリル板は店員と客のコミュニケーションを阻害している。だからと言って、この態度は酷過ぎやしないか。
お客様は神様なんかじゃない。咲哉は助けを求めるように、振り返って波窪さんを見た。
突然の事に茫然としていた様子の波窪さん。咲哉の視線にはっと気づいたように頷き、右手を挙げた。
「次のお客様、こちらへどうぞ」
世の中、神も仏もない。
「お前新人やろ!客をなめとんのか!」
もちろんなめてなどいない。震え上がっている。
大声を上げ続ける男。怒りの原因はもはやよくわからない。
関わり合いにはなりたくないと、他の客は遠巻きに様子を伺っている。 つまりその渦中であるレジは混んでなどいない。客に絡まれている新人スタッフが望む助けは、さばききれない客のレジ応援ではない。
殊勝な表情で斜め下を見つめるしかできない咲哉。
ゆっくりと、決して終わらないように、次のお客様のバーコードをスキャンしている波窪さんの気配を背後に感じながら、咲哉は先ほどの御高説を思い返していた。
緊張感を持って、冷静に。後ろの大先輩は、言葉通りに最善の策を実行したのかもしれない。我が身に危険が降りかからないための最善の策を。
「お客様!」
よく通る女性の声が、今にも掴みかかって来そうな男を遮ったのは、後ろのレジがようやく会計を終えた頃。
「何か失礼がございましたでしょうか」
沢田さんだった。
男が沢田さんに向かう。
「申し訳ございません!」
謝罪の言葉を口にしながらも、どこか自信を感じさせる視線。怯える新人相手とは違うせいか、男のトーンが若干下がる。それでも怒鳴り声には変わりない。
同調したり、謝罪したり、接客テクニックと忍耐力で男の怒りを鎮めていく。ようやく男が帰って行った。
「ごめんな、なかなか助けに来れんで、向こうで他のお客さんにつかまってて、無理やり切り上げたんやけど」
「いえ、ありがとうございました。ほんとに、ありがとうございました」
心底ほっとして、頭を下げる咲哉。
なんとしても、沢田さんには味方になってもらいたいと思う。
「かまへんよ。こういう時、前に立つのが上のもんの仕事やから」
慰めるように優しい声で咲哉の肩に手を置く沢田さん。その声とは裏腹に厳しい視線は、真っすぐ波窪さん刺している。視線に殺傷能力があるとしたら、結構な流血だろう。
「どんな時でもお客様を待たせるわけにはいきませんから」
見え透いた言い訳を口にしながら、腕時計に目を走らせる波窪さん。
「じゃあ、休憩行って来ます」
意に介す素振りもなく去って行く波窪さん。
「あいつ、いつか殺したる…」
俯き、地の底から響くように低く呟く沢田さん。
顔を上げると、咲哉に向けて、ニッと笑う。
むしろ、笑っている方が怖い。
「私、卑怯者は大っ嫌いやねん」
咲哉も薄く笑う。
なんとしても、沢田さんを敵に回したくはないと思った。
「お疲れさまです」
バックヤードで休憩していると、背の高い若い男が入って来た。年は咲哉とさほど変わらないように見える。綺麗に通った鼻筋に理知的な目元。メガネがよく似合っている。西洋人を思わせるような白い肌。ちょっぴり悔しいくらいに男前。
「二階堂です。よろしくお願いします」
「あっ、こちらこそ、本城です」
爽やかで、礼儀正しく、感じも良い。勝てる所などひとつもない。今後二度と自分と比較しないようにしよう。瞬時に誓いを立てる咲哉だった。
バッグをロッカーに置き、咲哉と同じブルーの白衣を羽織る二階堂君。これから仕事のようだ。
白衣は三種類ある。一般販売員の男性用がブルー、女性がピンク、医薬品登録販売者の有資格者がグリーン。
「大丈夫ですか?」
気づかわし気な表情をする二階堂君。意味を図りかねた咲哉が首をかしげる。
「Gに絡まれたって聞きました」
「G?」
「当店自慢のブラックリスト客コードネームG」
「ああ、あの人か」
レジの怒鳴り男の事だ。”G”と名前がついているらしい。お馴染みのブラックリスト客が他にもいるのだろう。”A”や”B”じゃないところが、末恐ろしい。
「けっこういるんですよ、厄介なヤカラが」
咲哉の思いを読んだようにそう言う二階堂君。
「特に向かいの市営住宅には酷いのが多くて。昼間っから酒飲んでるアル中の生活保護とか」
収入額と民度は一定程度比例する。
蔑むような暗い表情が一瞬二階堂君の目元を走り、すぐに元の理知的な好青年が戻って来る。
「そういう僕も市営住宅なんですよ。アル中じゃなくて、母子家庭の苦学生です」
冗談っぽく笑う二階堂君。
「そっか、偉いね」
厄介な客が多いのは気が重い。しかし苦学生を前に弱音を吐くわけにはいかない。
「これでも、今はだいぶましになったんですよ」
二階堂君の整った顔が歪む。
「マスク争奪戦やトイレットペーパーパニックの頃は、ほんと最悪でした。人類なんか滅亡しろって、本気で思いましたよ。普通の人間まで獣になって襲ってきましたから」
人が獣になる瞬間。そんなものは、ゾンビ映画くらいにして欲しい。ずっしり気分が重くなる。そんな咲哉の気持ちを読んだように、二階堂君の声は、急に明るくなる。
「あと、コードネームABCGのネーミングはランダムじゃないですから」
扉に手をかけながら、振り向く二階堂君。
「凶悪な順です」
あれで”G”…。
ニッと笑う二階堂君。
以外と人が悪い。案外勝てる所があるかもしれない。
「あっ…お疲れ様です」
爽やか好青年と入れ違いに入ってきたのは、年齢は同じくらい、印象は正反対の女の子だった。伏し目がちでボソボソと挨拶。色白な肌の質感は二階堂とよく似ているのに、それが魅力ではなく、不健康に思えてしまう。
「新人の本城です。よろしくお願いします」
「…田中です」
「学生さんですか?」
「あ、はあ」
否定とも肯定ともとれる返事。若干頷いたようにも見えるので、学生なのだろう。鼻の横の黒子が目立つ。顔立ちは取り立てて何処が悪いわけでもないのに、全体に地味で暗いイメージ。
ピンクの白衣のサイズが合っていないように見える。その違和感で、結構な高身長である事に、初めて気が付いた。身長に合わせると痩せた体にはブカブカなのだ。
そそくさと出て行く田中さん。こんな女の子が、ゾンビの蔓延る世界を生き抜く事ができたのだろうか。
背筋を伸ばして颯爽と歩くだけで、今背負っている不幸のいくつかは、解決するんじゃないだろうか。もちろん不幸かどうかなどわからない。余計なお世話だ。
他人の心配をしている立場ではない。咲哉はひとつ大きく息を吸い、売り場へ戻った。
何気なく目をやった視線の先に、山と積まれたマスクがあった。二階堂君の話で思い出した。
マスク騒動。
コロナウイルス流行が始まり、あっという間に世の中からマスクが消えた。少ない商品に人々が殺到する映像を咲哉もテレビで何度も見た。その画像は、時に目をそむけたくなる醜悪さだった。震源地はいったいどんな惨状だったことか。二階堂君の苦い表情が浮かんだ。
「次は、何をしたらいいですか?」
長い事、何故か斜め上をぼんやり眺めている波窪さんの横をダッシュで通り過ぎ、申し訳ないと思いながら、慌ただしく走り回っている沢田さんを捕まえて、指示を仰ぐ咲哉。
「ああ、ちょうど良かった、そこの上の荷物を下してくれるかな」
沢田さんが指さす先。棚の上に大量のストックのペットボトル飲料があった。
「わかりました」
脚立に上り、ペットボトルを指示された台の上に下す。それを沢田さんが要領よく棚に並べていく。動きに一分の無駄もない。
思えば、波窪さんの動きは無駄しかなかった。
何気なく気付いた沢田さんの口元。よく見るとマスクが布製だった。今はもう豊富にあるマスク。従業員の勤務時間用には配布もされている。咲哉もバックヤードに用意されていたそれを使っている。
「どうかした?」
咲哉の動きが一瞬止まったのを感じたのか、沢田さんが聞いた。
「沢田さん、布マスクなんですね」
「ああ、これ」
そう言って少し笑う沢田さん。
「あの頃は大変やったんよ」
忙しく手を動かしつつ、先程の二階堂と同じフレーズから沢田さんの話が始まった。
最初の緊急事態宣言の頃。ドラックストアは酷い状態だった。
マスクはない。消毒液はない。日本中で品薄なのだから、入荷はあっても、ごくわずか。いつ入るのか、どれだけ入るのか。従業員にもよくわからない。
店先で、電話で、ひっきりなしに問い合わせ。
「ないんかいっ!使えんなっ!」
そんな捨て台詞を吐いて出て行く客はまだいい方。
「出せや!隠してるやろ!」
「俺、持病あるのに、感染したらお前のせいやからな!人殺し!」
「いつ入るねん!教えろや!」
「毎日来たってるお得意様やぞ!なんで取り置きが出来んのや!」
信じられない罵詈雑言を長時間。それがひとりやふたりじゃない。
脅迫は心を無にして耐えるのみ。それ以上に情に訴えるタイプが沢田さんは苦手だったそうだ。
「沢田さん。お願い」
わざわざ名指しでの泣き落としが延々小一時間。暴言を吐くわけではないので、話を切るのが難しい。
駐車場には、独自の情報網を持つらしい転売ヤーが軽トラで待機。
配達のトラックを待って、無断で中を漁ろうとするヤツ。
段ボールを追いかけてバックヤードに侵入するヤツ。
これが本当に日本なのか。
咲哉もそんな話を時折ネットで見かけて知ってはいた。けれど、特殊な例だと思っていた。
しかし違った。土地柄で違いはあるだろう。少なくとも京都市内の、決して良くはないが、そこまで特別治安の悪い地域でもないこの店で、これらの出来事は日常だった。
まだまだ、未知のウイルス。テレビに映る映像は、次々人が倒れていく海外のニュース。
こんなにパワフルに働いている沢田さんも、実は喘息の持病があって、実際恐怖に震えていたらしい。
しかし、緊急事態宣言下。多くの店舗は休業で、行き場を失った人々は、開いている店に殺到する。スーパーしかり、ドラッグストアしかり。
やっと家から出ることが出来た解放感。はしゃぎまわる子供達。おしゃべりに興じる大人達。
感染対策の道具は全て品薄。
誰もこんな環境で働きたくないから、人手は足りないし、クレーム客は絶えない。
それで仕事はさらに遅れ、心身ともに疲弊。
勉強して医薬品販売の資格を取得しているくらいだからよくわかる。今まさに自己免疫力が低下しているに違いない。そんな時に呼ばれる。
「熱があるんですけど」
「感染が怖いから病院には行きたくないんです」
「どの薬飲んだらいいですか?ゴホッ、ゴホッ」
そんな、時給1200円のコロナ最前線。
退職、休職を願い出るパートやバイト従業員の多さに危機感を覚えた本部からは、特別ボーナスの支給が発表された。
緊急事態宣言中に出勤した非正規社員、ひとりあたり5000円。
「命の値段、5000円」
そう言って笑う沢田さん。
高給の本部社員は政府の指示をお利口に守り、リモートワークに努めるそうだ。
そんな、自宅から送られてくる、売り上げアップ、経費削減、利益拡充を命じるメールの冒頭には、“緊急事態宣言下、大変な状態の中、日々の業務従事されている社員の皆様、ありがとうございます”という一文がつくようになったそうだ。
何処からも、誰からも、一言一句違わぬコピペ。
そんな風に日々心をすり減らしていた沢田さん。手先の器用さを生かして、手作りの布マスクを製作した。布マスクブームが訪れる少し前。
「あの流行りもの好きの都知事より早かった」
そう言って胸を張る沢田さん。
抗菌素材を使って、ダーツをつけて、機能性にも配慮した、ぱっと見は市販の不織布マスク。
店に出ると、いつものように、客に絡まれる。これはもう、毎日、間違いなく絡まれる。
「おいっ!なんで、マスクないねん!」
「申し訳ございません。全国的に品薄なもので、入荷未定となっております」
「ほんまにないんかっ!」
「申し訳ございません」
「嘘つけ!こっちは困っとんねん!ほんまは隠してんねやろっ!」
「申し訳ございません。入荷がほとんどない状態ですので」
そして、しつこい客は必ず次の論法で来る。
「じゃあ、なんで、お前、毎日マスクしとんねん!え!」
参ったか!と言わんばかりに、客が沢田さんのマスクを指さす。
「いえ、これは、手づくりの布マスクです。こんなご時世ですから、いつ手にはいるかわからない不織布マスクを探してイライラするより、布マスクで安心していられる方が自己免疫力を高められますので、お勧めですよ」
沢田さんがそう言うと、客は心底忌々しそうな顔をしてどこかへ行ってしまうらしい。それがささやかな楽しみだったそうだ。
「肌ざわりがいいから、今も愛用してるねん」
と、沢田さんが言った時、遠くから声がした。
「沢田さん!沢田さ!沢田さん!」
一瞬沢田さんが遠い目をする。
店長の声だ。今日、店長は休みだったはずだ。
「ああ、あと残りここに綺麗に入れといてくれる」
「あ、はい。何かあったんですかね?」
「大した事はないと思うよ」
「けど、今日店長休みじゃないですか、なのにわざわざ」
言いかけた咲哉の声を遮るように、沢田さんが被せてくる。
「言うてなかったっけ?店長に休みはないねん」
「え?」
「シフトに入ってる日は、シフトの時間に出勤するねん。シフトに入っうてない日は、好きな時間に出勤するねん。出勤せえへんっていう選択肢はないねん」
これがよくある名ばかり管理職というヤツだろうか。なんてブラックな会社。そんな咲哉の思いも遮る沢田さん。
「ちゃうねん。会社もスタッフも止めて欲しいねんけど、心底止めて欲しいねんけど、本人が来たくて来るから、誰も止められへんねん」
「沢田さん!」
声が次第に近付いてくる
「休日の店長は、いつ来るかわからんから性質が悪いねん」
そう言い残して店長の元へ走る沢田さん。
「今行きます!」
言われた通り、黙々と残りの仕事を片づける。終わった所で、信じられない事に、まだ斜め上を見ている波窪さんの横を通り過ぎ、沢田さんの指示を仰ぎに向かう。
店内の隅にあるパソコンの前。沢田さんは手帳片手に私服姿の店長の指示を受けていた。
「それからな、カイロが減ってるから補充しといて欲しいねん」
最初にあった時と変わらない早口で大きい声。圧が強い。メモを取る沢田さんの顔が若干引きつっている。
「あとな、今月の買い上げ点数UP対策商品、プロモ展開しといてくれるか」
「レジ横にチョココーンでいいですか?」
「おう、それでええ、そんで最後にな、リコール情報はいっとった商品、ちゃんと引いてるか確認しといて」
「はい、わかりました」
最後の指示に、うんざりしながらもホッとした表情を見せる沢田さん。
「それから、ダイエット用のナッツ、どっかのネット一枚使って派手にポップつけて欲しいねん」
最後じゃなかったのか。
横で聞いていた咲哉。前につんのめって、思わずこけそうになる。その気配に気づいたのか、店長の視線が咲哉を捉える。
「本城君、頑張ってるか?」
「あっ、はい」
「沢田さんは、めっちゃ忙しいからな、はよ仕事覚えて助けたってな」
「頑張ります」
あなたのせいでは?と思いながら、もちろん口には出さずに頷いた。
「沢田さん、カイロの補充出来た?」
「いえ、今さっき聞いたばかりなんで」
ついさっきメモを取り終えたばかりの件だ。魔法でも使わなければ、出来ているわけがない。
証拠はないが、おそらく沢田さんは、魔法使いではない。
場を和ませるための冗談だろうか。
「そうか、出来る時でええわ」
真顔でそう言う店長。冗談ではないようだ。
沢田さんもニコリともしない。
「それから、波窪、あいつ、棚替え終わらせとった?」
店長の口調が一転憎々し気に変わる。先程までは圧が強いと思っていたけれど、好意的な話し方だったのかもしれない。
「さあ、私には、そこまでチェックしてる余裕はないんで」
沢田さんの声に僅かな棘を感じる。
「ちょっと、見てくるわ」
速足に去って行く店長。
「次のレジまでに、やって欲しい事あるんやけど、ちょっと待ってな」
手早く手帳を繰りながら、マウスを動かす沢田さん。
「店長、むっちゃ、慌ただしいですね」
咲哉の言葉に、思わずのように、息を漏らす沢田さん。
「沢田さん、大変ですよね」
「大変やで、でも、店長には恩があるから、出来る限り無理も聞こうと思ってる」
マウスを動かす手が早くなると同時の言葉も早口になる。
「前の店長が物凄いパワハラで、私、虐められてたんやけど、助けてくれたんが、今の店長」
今の店長の圧も、十分パワハラだ。そんな緩い基準でさえ、”物凄いパワハラ”というのだから、前店長はさぞ酷い人だったのだろう。
「店長はこのあたり一体のエリア店長やから、前店長の上司格やねん。だから、本部にパワハラを相談したら、今の店長が話を聞きに来てくれて、わかった、なんとかしたるって」
それだけ言うと、作業に没頭しているように口を閉ざす沢田さん。
「それで、どうなったんですか」
気になって、先を促す咲哉。
「ん…私は、前店長の下で働くのは辛いから、異動させて欲しいって言うただけやねんで」
沢田さんらしくないような、言い訳がましさ。沢田さんの何を知っているわけでもないが。
「クビになったみたい。自主退職という名の、実質クビ」
気まずそうな口調。退職に追い込んだ事を気にしている様子の沢田さん。
「パワハラ店長なんかクビになるのは当然ですよ。気にする必要ないじゃないですか」
「そやねん、みんなそう言うねん。店長も本部の人も、あいつは前もパワハラでスタッフ大量退職事件とかおこしてんねんから、沢田さんが気にする必要ないって。でも、私のせいですか?って聞いたら、誰も、違うとは言うてくれへんねん」
辛い日々。めでたくパワハラ店長クビ。それでも沢田さんにとって、後味の悪い結末だったのだろう。
「よし」
作業がひと段落ついたようで。手をとめ咲哉に向く沢田さん。その時、早い足音が再び近づいてきた。
「くそー!あいつ、全然やっとらへんやんけ。絶対、朝一でやっとけ、死んでもやっとけって言うといたのに」
さすがに死んだら出来ない。その言葉も勿論口には出さない。
「んで、あいつ、どこ行ってん」
斜め上をぼんやり眺めていた波窪の姿が頭に浮かぶ。
「波窪さんなら、ついさっきまで向こうの棚の前にいましたけど…」
遠慮がちにそう言う咲哉。
「ほんまか?おらんかったぞ。逃げたな。また逃げよったな。あいつ殺したる。絶対殺したる」
出勤初日、二度の殺害予告の現場に立ち会った咲哉だった。
この職場、ただで済むとは思えない。感じた予感は間違いではなかった。
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