其之二 災禍の都

 洛陽らくようは古くから栄える大都市であり、後漢の都である。広大な領土の中心にあって、まさに中原ちゅうげんの地に立地する。平地にあって交通の便が良く、西は副都・長安ちょうあんと、東は各州都と繋がる。西には函谷関かんこくかん、東には汜水関しすいかんという堅固な関所があって都を守っているだけでなく、北には邙山ぼうざんの山並みと河水がすい(黄河)があり、南には河水支流の洛水が流れ、地勢的にも優れていた。

 陰陽道における〝陰〟は山の北、または川の南を、〝陽〟は山の南、または川の北を意味するので、〝洛陽〟という地名は洛水らくすいの北に位置するところから来ている。

 その洛水からは水が引かれ、ほりが城外に巡らされている。城壁は高く堅固で、東西南北に十二の城門をようする。城内には北宮・南宮という二つの宮殿が築かれていて、天下の中心人物である皇帝が住まい、重大な政策はここで朝議にかけられた。

 また、政治の中心となる大尉府・司徒府・司空府という三つの行政府があり、商業の中心として、金市・馬市・羊市の三つの市場が作られている。交易のために各地各国から商人たちが上洛してきていて、外国の珍しい品々も売り買いされた。

 城外西郊にある白馬寺はくばじは中国初の仏教寺院で、およそ百年前の明帝の時代に建立された布教活動の中心施設である。西域から移民してきた人々がその周りに住んでいた。南郊には勉学と論談の中心である太学たいがく(国立大学)があり、全国から優秀な頭脳が集まっていた。

 政治・経済・民族、まさに、天地人の中心となっている都が洛陽である。

「ほれ、着いたぞ」

 洛陽の南門の一つである開陽門が見えてきたところで盧植ろしょくが言った。

 もちろんそれは都そのもののことだと思った弟子たちだったが、そうではない。

 盧植は路地を右へと曲がり、人でにぎわうある建物の門前で立ち止まった。

 敷地は百二十三歩(およそ百七十メートル)四方、構内には長さ十丈(およそ二十三メートル)、広さ二丈(およそ四.六メートル)の講堂がある。

「ここが太学じゃ。伯珪はくけいは知っておるな。何度も都へ来ておるんじゃから」

「ええ、知っていますが。それにしても何ですか、これは?」

 公孫瓚こうそんさんは、いや、劉備りゅうび劉徳然りゅうとくぜんも路地を埋め尽くすような人だかりに驚いている。

「講義で何度も話したぞ。徳然は分かるな?」

「あっ、智侯ちこう先生の石経せきけいですね」

 劉徳然の答えは盧植を「そうじゃ」とうなずかせた。

「この者たちが見ておるのは、経文けいぶんを記した石碑じゃ。伯珪と玄徳げんとくもそれにならってもらう。その経文を端から端まで全部暗記せよ」

 劉備と公孫瓉に待っていた恐ろしい罰。城門をくぐる前にその罰を言い渡されて、

「ええー!」

 盧植のピンチを救い、いくらか点数稼ぎしたつもりだった公孫瓉だったから、その驚き様は決して大げさなものではなかった。

「言ったじゃろうが。信賞必罰、勧善懲悪こそ正しき道じゃ。わしはこれからその経文を書いた本人に会ってくる。ズルをすれば、すぐに分かる。いいな、全て覚えるんじゃぞ」

「先生、褒美の方はないのですか?」

 とんでもない懲罰を食らって、逆に大ピンチに陥った公孫瓉は立ち去ろうとする師を呼び止めて、先の武功で何とか食い下がろうと試みた。ひげでて考える盧植。

「……そうじゃな。全て暗記し終えたら、後は自由に行動してよい。必ず日暮れまでには宿に戻るんじゃぞ」

 盧植はそう言い残すと、弟子たちを置いて去って行った。途方に暮れる劉備と公孫瓉。

「とんだ罰でしたね、公孫兄こうそんけい

「感心してる場合か。分かってんのか、この状況を?」

 盧植推薦の洛陽の最新人気スポット。劉備と公孫瓉は目の前にずらりと並ぶ石碑と人だかりの光景に嘆息するしかなかった。まさに盧植の思惑はここにあった。

 熹平きへい石経せきけい――――盧植の良き友人であり、あらゆる学問に通じる当代随一の大学者であり、稀代きだいの名書家でもある蔡邕さいようの手によって書かれた経文を石碑に刻んだ、自己啓発と勉学奨励のためのモニュメントである。

 秦の焚書坑儒ふんしょこうじゅで、多くの経書が焼かれて失われた。残った経書も記されてから長い年月が経ってしまって、損傷が酷い。複写本には誤字脱字が多く、それが勉学のさまたげになることもしばしばだった。

 経文の正しい意味が伝わらないことを憂慮した蔡邕ら儒学者たちが、五経ごきょうを校訂した経文を石碑に刻み、世間に正しい経文を伝えたいと上奏したのが認められ、今年、熹平四(一七五)年に建立が開始されたので、名付けてそういう。

 実際の碑文は『易経えききょう』、『論語』、『尚書』、『春秋』、『公羊くよう』、『魯詩』、『儀礼』の七経からなり、蔡邕が書した隷書れいしょをもとにして刻まれた。石碑一基の高さは一丈(およそ二.三メートル)、幅は四尺(およそ九十センチ)。

 端麗な文字は人々を魅了する。よって、能書家・蔡邕によって碑文が書された石経は必然的に学術的価値だけでなく、芸術的な価値をも高めることとなった。

 石経は太学門外に建てられた。建立こんりゅう作業はこれから九年間かけて続けられて、全部で四十六基、石碑の両面に刻字された文字は二十万字を超える壮観なものになるわけだが、この時はまだ五基目が建てられたばかりだった。

 それでも、新たな石経が立つ度に人々が群れ集まって観覧し、学生たちはびっしりと刻まれたその経文を食い入るように眺めて、暗記するか模写するのである。

「うわぁ、みんな熱心だね」

 まるで観光名所にでも来たように、一人その光景に感激する劉徳然を完全に無視して、

「冗談じゃないぜ、こんなの覚えられるわけがねぇ。まともにやってたら、日が暮れるどころか、年が明けちまう」

「こう人が多くては見るだけでも大変そうですね」

 公孫瓉は天を仰ぎ、劉備は顔をしかめた。

「お前、本気で暗記する気か? 頭を使え」

 公孫瓉は機転のかない弟をたしなめた。そして、

「あれ見ろ」

 首を振って指し示す。そこには救済の立て札があった。

  ―――大学構内にて石経写本販売中。学生諸君、是非お買い求めを―――

「便利なもんがあるじゃねぇか。玄徳、あれを手に入れてこい」

「でも、まずいんじゃ……」

「内容さえ同じなら、ここで突っ立って覚えるのも、本を見て覚えるのも変わりゃしねぇ」

 公孫瓉は後先を考えず、利に走る発言をして劉備を困らせる。

「ここでつまらねぇ時間を延々と過ごすのと、都見物に繰り出して有意義な時間を過ごすのと、お前、どっちがいい?」

「そりゃあ……」

「だろ? だったら、早く買ってこい。金は俺が出してやるから」

「……」

 公孫瓉に金を渡されても、踏ん切りが付かない劉備。ごうを煮やした公孫瓉は、

「ちぇ、まだ迷ってるのか。なら、その迷いを吹っ切ってやろう。俺はお前の兄弟子だ。兄の言うことに従うのが〝てい〟だよな、確か……」

 煮え切らない弟に兄は問答無用の教えを突き付ける。儒教の教えでは年少者は年長者の言うことに従わなければならない。それが〝悌〟の心である。都合のいい殺し文句だ。それでも、劉備の逡巡しゅんじゅんの虫を殺すには十分だった。

「分かりましたよ。でも、徳然はどうするんですか?」

 真面目に学問に打ち込む従弟を悪い誘惑で惑わせたくない。

「ほっとけ。もう俺たちのことは眼中にない。いなくなったことに気付くのは、すっかり日が暮れた頃だ」

 劉徳然はすでに人ごみをき分けて、一つ目の石経の前に陣取り、経文の暗唱に余念がなかった。これは徳然に対する懲罰ではないのだが、率先して勉学に励むその様子に、劉備も安心して課外授業をサボることができるのだった。

 せっかくの勉学奨励のモニュメントも盧植の期待も、この二人にはまるで効果がなかった。


 案のじょう、劉徳然が劉備と公孫瓉の二人の姿が見えないことに気付いたのは、夕暮れ時のことだった。碑文が見えづらくなって辺りを見回すと、もう周りには誰もいなかった。

「あれ、先に宿に戻ったのかな?」

 劉徳然は完全に勉強ボケになっていて、二人の性格を忘れてしまったかのようにそんなことをつぶやいた。そして、頭の中で記憶した経文を繰り返しながら、暗さを増してゆく道を駆け足で一人宿へ向かった。

 その頃、劉備と公孫瓉は銅駝街どうだがいの酒場から追い立てられるように外へ出たところだった。

「何だってんだ?」

 ほろ酔いの公孫瓉は気分を害されて、有無を言わさず客を追い出した酒場の主人にあたった。しかし、そんなことはお構いなしに、

「だから、もう店じまいなんだよ。悪いことは言わねぇから、早く帰んな」

 酒場の主人は公孫瓚に言うと、ピシャリと戸を閉めてしまった。

「おいおい、どうなってんだ?」

 辺りを見回して、余計に訳が分からなくなった。すでに都大路みやこおおじには人っ子一人見えなくなっていた。目をこすってみる。俺はそんなに酔っぱらってねぇぞ。

 銅駝街は洛陽城内の歓楽街である。通りの左右に駱駝らくだの銅像が建てられていることからそう呼ぶ。酒場や飲食店が立ち並び、華やかな衣装を着た貴族たちがり歩き、普段なら夜間でも人でにぎわっているところだ。しかし、今は全ての店が早々に店じまいしていた。華々しい都の雰囲気も、喧騒に満ちた街のにぎわいも、夜陰の到来を前にただ寂寥感せきりょうかんだけを残して消え去ってしまった。まるでゴースト・タウンのように不気味に静まり返っている。その原因は何か?

 全ては夜禁令のせいだった。現在、洛陽には夜間外出禁止令が発令されているのだ。

 ここ最近、洛陽では〝百鬼ひゃっき〟を名乗る夜盗集団が暗躍していた。夜陰にまぎれ、高貴な身分の士人宅に押し入っては強盗を働くのだ。その手口は凶悪そのもので、金品財宝を奪った挙句あげく、老若男女問わず容赦なく皆殺しにするのである。しかし、華の都にこれだけの惨劇をもたらしながら、不思議なことにまだその一人たりとも捕縛されていない。忽然こつぜんと現れ、忽然と姿を消す。百鬼はまさに神出鬼没の強盗団だった。

 その百鬼夜行ならぬ百鬼夜盗の存在に民衆は恐怖に怯え、何事もないことを祈りながら、夜が明けるのを身を潜めて待っているのである。

 が、そんな店主の情報をに受けない公孫瓉はおぼつかない足取りで、あるとは思えない酒場を探して路地を彷徨さまよう。

「もう帰りましょう。先生の言いつけは守った方がいいと思います」

「心配するな、玄徳。あと一杯だけだ」

「ですが、強盗団が出ると聞いたでしょう」

「びびるんじゃねぇ。その強盗団が現れたら、この俺がとっ捕まえてやる」

 劉備の憂慮をねつけ、豪語する公孫瓚。劉備は迷惑気味に公孫瓚に付いていくものの、都の地理に詳しくない上に、濃くなる夕闇が視界を奪って、自分たちが今どこにいるのかさえ分からなくなった。道を尋ねようにも辺りには誰もいない。

 劉備は思わず嘆息した。故郷の幽州に負けず劣らず、冬の洛陽は非常に寒い。

 夜なら、それはなおさらで、酒で体の温まっている公孫瓉とは違い、まだ酒に興味のない劉備はただのお供である。

 しばらく路地を歩いたが、やはり、店など見当たらず、誰ともすれ違わない。

 当てもなく歩いていると、高級な屋敷が立ち並ぶ一角に入り込んでしまった。

「夜禁令のせいで、みんな出歩いていないんですよ。それにこんなところに酒場があるとは思えません。私たちも帰りましょう」

 宿に帰りたい一心の劉備は辛うじて明かりを保っている辺りのように、この兄弟子の頭の中にも賢明な判断を下せる明敏さが残っていると信じて次の台詞せりふを待った。だが、そんな劉備の淡い期待をあっさりと裏切って、

「天下の都が辛気しんき臭ぇこった。……おっ、明かりが見えたぞ。希望を捨てるな。あの明かりに向かって突き進め!」

 まだ酔い足りない公孫瓉は十分に酔っぱらった者のものとしか思えない台詞を吐いて、未だ目的達成を諦める気配はなかった。もうこの兄弟子は酔いが回って頼りにならない。


 公孫瓚が見た明かりは松明たいまつの炎だったようだ。それを掲げた何者かが近付いてくる。松明の数は複数だ。公孫瓉に小声でそれを伝えたのは、何か異様な雰囲気を感じ取ったからだった。噂の強盗団かもしれない。

「ちょうどいい。そいつらに聞いてみよう」

 ところが、公孫瓉はそんな賢弟の配慮を無視して劉備の手を振り切ると、危うい足取りで明かりの方へ近付いて行った。劉備の予感は正しく、公孫瓉は声をかける前にその一団によってたちまち拘束されてしまった。

「何しやがる、放せ!」

 公孫瓉は声を荒げて抵抗した。腰の剣に手を伸ばそうとしたが、武装した一団を統率する男に剣を突き付けられて、おとなしくするしかなかった。

「お前は百鬼のうちの一匹か?」

「あぁん?」

「こうも簡単に捕まるとは拍子ひょうし抜けだな」

「俺は何もしてねぇぞ!」

 公孫瓉を威圧するように、その男の強烈な眼光が松明の炎とともに熱く降り注いだ。酒臭い息を振りいて、公孫瓚が口だけの抵抗を見せる。

「夜間外出禁止令は知っているな。洛陽城内全域に発令中である。法令違反によりお前を拘束する」

「ふざけるな、放しやがれ!」

 なおも公孫瓚は抵抗を試みるが、背後から拘束する男が無言で首に手を回して力強く締め付けると、気が遠くなって公孫瓚の目がうつろになった。酔っているとはいえ、力自慢の公孫瓚をこうもあっさりおとなしくさせるとは只者ではない。

 隊長らしき男と同じく、まだ若い。陽が落ちるのは早く、もう辺りは完全な闇に包まれている。

「それは全く存じませんでした。何とぞお許しください!」

 暗がりから様子を見守っていた劉備が飛び出してきて、平伏して頭を下げた。

 相手が官兵だと分かり、穏便に済ませるのが一番よい方法だと判断したのだ。

 予期せぬ少年の登場とその態度に、拘束を指示した男は怪訝けげんに思わざるを得なかった。

「お前は?」

「劉備と申します。そちらは兄弟子の公孫瓉、ともに盧植門下の者でございます」

 盧植は高名だ。先生の名前を出せば、信用を得られるのではないかと期待した。

「ほう。あの盧先生の門下生か……」

 その通り、隊長の男は盧植を知っているような口ぶりだった。

「お前たちが本当に盧先生の門下生というのなら、鬼とは考えにくいが……。はて、盧先生は『韓子かんし』は教えなかったのかな?」

 そう皮肉ってみたが、サボりの常習犯だった二人は返答に困った。

『韓子』とは、儒教の徳治主義に対抗して法治主義を唱え、政治体制と秩序維持のために法律や刑罰の重要性と必然性を説いた韓非かんぴの著作である。後に『韓非子』と呼ばれる不朽の名著だ。人間の本性ほんしょうは悪であるという性悪説のもとにあらわされ、厳格な法の運用による民衆制御を訴えている。これは始皇帝に高く評価されて、秦の統治に大きな影響を与えた。

 当然、盧植は『韓子』も教授している。ただ劉備の頭に残っていないだけで、盧植がよく口にする〝信賞必罰〟という言葉も『韓子』の出典である。

「こいつも拘束しろ」

 男の命令で劉備までも拘束された。劉備の体をボディ・チェックした兵士が竹簡ちくかん二巻と短刀を隠し持っていたのを見つけて、隊長の男にその押収品を手渡した。

「これは盗品か?」

 男は松明の炎で押収品を照らして、竹簡を広げて内容を一通り確認した。

 竹簡とは紙が発明される以前の本である。竹冊ちくさくひもで結んだもので、丸めて閉じるので、数える際は一巻、二巻というふうに〝巻〟の字を充てる。

「それは石経の写本でございます。勉学のために本日購入致しました」

「こいつはどこで手に入れた?」

 隊長の男は特に短刀を綿密に調べながら聞いた。

今朝けさ野盗に襲われまして、その時に手に入れました」

「ほう……」

「私たちは今日上洛したばかりで、都の事情にうとく、夜禁令のことを知らなかったのです。どうかお許しください」

 隊長の男は短刀を興味深そうに眺めながら、劉備の弁明を聞いていた。しかし、

「やはり、『韓子』を知らんようだ。法にそむいた者は厳しく処罰されねばならん。それが誰であろうと、どんな理由であろうとだ」

『韓子』を読破し、規律を重んじるその男は劉備の嘆願を冷徹にねつけた。

 物証は得た。押収した短刀は以前押収した百鬼事件のものと酷似こくじしている。だが、写本は確かに石経のものだ。盧植の門生と名乗る者が持っていても不思議ではないが、偽装かもしれない。隊長の男は改めて捕えた二人を確認した。

 残忍なイメージの百鬼にはそぐわない少年と、いとも簡単に捕まった酔いどれ男。

 妙だとも思う。こちらをあざむくための演技なのか。何か裏があるのか。

「謝るな、玄徳。俺たちは何も悪くねぇ!」

 ここで、意識を戻した公孫瓉がまたもや暴言を吐き始めた。劉備までもが罪人扱いされて兵士に引き立てられ、怒りでさらに酒が回ったのか、

「夜禁令か何だか知らねぇが、まだ完全に日が暮れてなかっただろうが。捕まえられるいわれはねぇぞ!」

 やっぱり酒の力は怖い。劉備はこの兄弟子が酔いの力を借りて、公権力に対し、無謀な理屈でチンピラのようにみついたのを見て思った。

「お前の言う完全な日没まで間もなかった。それまでに宿に戻れたというのか?」

 洛陽城内は貴族と官僚しか住むことができない。その中でも、歩広里ほこうりと呼ばれるこの辺りは高級高官など大貴族の邸宅が集まっているエリアだ。宿などない。

「おうよ。俺たちの宿はそこだ、そこ。あとほんの数歩で戻れたんだ」

 公孫瓉が目の前の屋敷をあごで示した。劉備は背筋が寒くなった。誰の屋敷か分からないのに、公孫瓉は悪ぶれることもなく堂々と嘘をついている。無茶苦茶だ。いや、もはや完全に酩酊めいていしているのか。

 外の騒動をよそに、屋敷の奥から優雅な琴のが漏れ聞こえてきた。隊長の男はその奏者をよく知っている。

「お前たちはこの辺で見ない顔だ。ここが誰の屋敷か知っていて言っているんだろうな?」

「つまらねぇこと聞くな。とにかく、俺たちゃここの客なんだよ」

「ほぅ、そいつは失礼したな」

 眼が笑っていない。もう完全に不審者扱いされている。調べられたらおしまいだ。

 夜禁令違反に虚偽申告罪? とにかく、罪人にされて、盧植先生からは破門されてしまうに違いない。ああ……。劉備の頭はもう負のスパイラルでいっぱいだ。

「では、丁重ていちょうに送らせてもらおう。主人の智侯先生にもおびせねばなるまい」

 劉備は男が口にした名前に聞き覚えがあった。

『……誰だっけ? 確か先生が言ってたんだよな。チコウ、チコウ……蔡智侯さいちこう。あ、石経を書いた偉い人の名前だ。先生はその人に会いに上洛するって言ってたな』

 と、そこまで思いだしたところで愕然がくぜんとした。蔡智侯こと蔡邕はその名が全国にとどろき渡る有名人であり、高級官僚なのである。ちなみに、先の地震に対する説を述べたのも蔡邕である。そんな御仁ごじんの屋敷に無関係の酔っぱらいと少年が客とかたり、ずかずかと乗りこむのだ。いくら盧植の友人とはいえ、こんな不敬の二人を許すだろうか? いや、まず何よりこの状況を理解してもらえるはずがない。

 公孫瓉は無謀にも隊長の男のエスコートに従って、そのまま蔡邕邸入ろうとした。

 うたげでももよおされているのか。邸外のトラブルとはおよそ無縁の優雅な琴の音。ところが、風流な空気もお構いなし。

「……んん、ありゃ徳然か? 徳然、下りてきて俺たちの潔白を証明しろ!」

 蔡邕邸の門前に足を進めた公孫瓉が突然、屋敷の上を見上げて大声を上げた。

『何を言っているんだ。何で徳然が……』

 酔いが回り過ぎて、幻覚でも見たのか。劉備はこの兄弟子が絶対に酩酊していると確信して呆れた。だが、官兵がある意味公孫瓉の狂言を肯定する発言をした。

「曹部尉、不審者です!」

「どこだ?」

「あの屋根の上に!」

 兵が屋敷の屋根を指差す。振り返る。雲間から顔を出した月の光に照らされて、くっきりと浮かぶ人型のシルエット。神出鬼没の盗賊団。出たな。

「奴は百鬼だ、射落とせ!」

 隊長の男は瞬時に判断して、兵たちに射撃を命じた。そして、

「元譲の一隊は屋敷を囲い込め!」

「他に怪しい奴がいないか警戒しろ!」

「お前たちはこの二人をこの場で拘束しておけ!」

 次々と指示を飛ばし、自らも身をひるがえして逃走に転じた屋根の上のシルエットを追う。だが、そのシルエットの動きは尋常ではなかった。不安定な足場にもかかわらず、信じ難いほどの俊敏な動きで屋根から屋根へと飛び移る。まるでそれは銅駝街で軽業芸かるわざげいを披露する曲芸師のようだ。拍手喝采の代わりに浴びせられる弓矢は、それを捉えられない。

 百鬼と間違われて拘束され、蔡邕邸に足を踏み入れた途端に始まった捕り物ショー。劉備はこの急展開に唖然とするばかりだ。兵士に体を押さえつけられながらも、視線は黒いシルエットの動きを追った。もちろん、それが徳然だとは微塵みじんも思ってもいないのだが、異常事態に目が釘付けになる。

 黒い影を残し、数多あまたの矢を避けながら月光のスポットライトの下を軽やかに舞い踊る。百鬼とは無関係の劉備の目には、それはまさしく一つのショーのように映った。

 しかも、そのシルエットは劉備の視線を感じたわけではなかろうが、不敵にも最初いた屋根の上に戻ってきて、仁王立ちになるという演出ぶりだ。お前たちに俺を捕まえることはできない。そんな台詞が聞こえてきそうだった。

 酔いどれ公孫瓉も訳も分からず目の前で繰り広げられる捕り物劇を黙って見物していたが、次第しだいにじれったくなってきた。

「チッ、見てらんねぇぜ。おい、貸してみろ」

 そう言うと、公孫瓉は自分を拘束している兵士が携帯していた弓を半ば強引ごういんに奪い取った。これでまた罪状が増えた。それを見た劉備は『もうどうにでもなれ』と投げやりになる。悪夢でもいい。夢から覚めて、それがまた授業中であっても、先生にこっぴどく叱られた方がよっぽどましだ。

「邪魔だ」

 公孫瓉は弓を奪い返そうとした兵士を突き飛ばして、獲物に狙いを定めた。

 さっきはあれを徳然だと言っていたくせに、今はそれに弓を向けている。まぁ、あれが徳然のはずはないのだが……。

 軽蔑と呆れが入り混じった視線を送る劉備を差し置いて、公孫瓚の座った目が獲物の動きの先を読む。獲物が跳躍ちょうやくした。それを見た公孫瓉が一呼吸置いて、虚空こくうに矢を放った。

 ヒュンと矢が風を切る音が聞こえたかと思うと、低い呻き声がそれに続いた。

 劉備が目を見張った。矢は見事に獲物を捕えたのだ。他の兵が放った矢を避けて飛んだ獲物の着地点目掛けて放たれた矢がその足に当たり、そいつは着地に失敗して、屋根から滑り落ちた。

「どうだ、これが狩りの極意ごくいよ!」

 息巻く兄弟子。自分が置かれている状況そっちのけで、獲物を仕留めて得意顔だ。そんな公孫瓉とは反対に、劉備の体には一気に緊張が走った。屋根から滑り落ちたと思ったシルエットがもう一跳躍して、劉備の目の前に着地したのだ。

 それは着地と同時にふところから飛刀を投げつけてきた。一つは劉備を拘束していた兵士に当たり、もう一つは劉備を襲った。キンッ!

 甲高かんだかい音がして、劉備は間一髪難を逃れることができた。地に堕ちた鬼を追ってきたあの青年隊長がそれを剣で弾き落としたのだ。

元譲げんじょうの部隊は守りを固めろ!」

 隊長の男はまた指示を出して、

「追え、逃すな!」

 自ら部隊の先頭に立って、その鬼の追跡に駆け出した。


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