其之二 災禍の都
陰陽道における〝陰〟は山の北、または川の南を、〝陽〟は山の南、または川の北を意味するので、〝洛陽〟という地名は
その洛水からは水が引かれ、
また、政治の中心となる大尉府・司徒府・司空府という三つの行政府があり、商業の中心として、金市・馬市・羊市の三つの市場が作られている。交易のために各地各国から商人たちが上洛してきていて、外国の珍しい品々も売り買いされた。
城外西郊にある
政治・経済・民族、まさに、天地人の中心となっている都が洛陽である。
「ほれ、着いたぞ」
洛陽の南門の一つである開陽門が見えてきたところで
もちろんそれは都そのもののことだと思った弟子たちだったが、そうではない。
盧植は路地を右へと曲がり、人でにぎわうある建物の門前で立ち止まった。
敷地は百二十三歩(およそ百七十メートル)四方、構内には長さ十丈(およそ二十三メートル)、広さ二丈(およそ四.六メートル)の講堂がある。
「ここが太学じゃ。
「ええ、知っていますが。それにしても何ですか、これは?」
「講義で何度も話したぞ。徳然は分かるな?」
「あっ、
劉徳然の答えは盧植を「そうじゃ」と
「この者たちが見ておるのは、
劉備と公孫瓉に待っていた恐ろしい罰。城門をくぐる前にその罰を言い渡されて、
「ええー!」
盧植のピンチを救い、いくらか点数稼ぎしたつもりだった公孫瓉だったから、その驚き様は決して大げさなものではなかった。
「言ったじゃろうが。信賞必罰、勧善懲悪こそ正しき道じゃ。わしはこれからその経文を書いた本人に会ってくる。ズルをすれば、すぐに分かる。いいな、全て覚えるんじゃぞ」
「先生、褒美の方はないのですか?」
とんでもない懲罰を食らって、逆に大ピンチに陥った公孫瓉は立ち去ろうとする師を呼び止めて、先の武功で何とか食い下がろうと試みた。
「……そうじゃな。全て暗記し終えたら、後は自由に行動してよい。必ず日暮れまでには宿に戻るんじゃぞ」
盧植はそう言い残すと、弟子たちを置いて去って行った。途方に暮れる劉備と公孫瓉。
「とんだ罰でしたね、
「感心してる場合か。分かってんのか、この状況を?」
盧植推薦の洛陽の最新人気スポット。劉備と公孫瓉は目の前にずらりと並ぶ石碑と人だかりの光景に嘆息するしかなかった。まさに盧植の思惑はここにあった。
秦の
経文の正しい意味が伝わらないことを憂慮した蔡邕ら儒学者たちが、
実際の碑文は『
端麗な文字は人々を魅了する。よって、能書家・蔡邕によって碑文が書された石経は必然的に学術的価値だけでなく、芸術的な価値をも高めることとなった。
石経は太学門外に建てられた。
それでも、新たな石経が立つ度に人々が群れ集まって観覧し、学生たちはびっしりと刻まれたその経文を食い入るように眺めて、暗記するか模写するのである。
「うわぁ、みんな熱心だね」
まるで観光名所にでも来たように、一人その光景に感激する劉徳然を完全に無視して、
「冗談じゃないぜ、こんなの覚えられるわけがねぇ。まともにやってたら、日が暮れるどころか、年が明けちまう」
「こう人が多くては見るだけでも大変そうですね」
公孫瓉は天を仰ぎ、劉備は顔をしかめた。
「お前、本気で暗記する気か? 頭を使え」
公孫瓉は機転の
「あれ見ろ」
首を振って指し示す。そこには救済の立て札があった。
―――大学構内にて石経写本販売中。学生諸君、是非お買い求めを―――
「便利なもんがあるじゃねぇか。玄徳、あれを手に入れてこい」
「でも、まずいんじゃ……」
「内容さえ同じなら、ここで突っ立って覚えるのも、本を見て覚えるのも変わりゃしねぇ」
公孫瓉は後先を考えず、利に走る発言をして劉備を困らせる。
「ここでつまらねぇ時間を延々と過ごすのと、都見物に繰り出して有意義な時間を過ごすのと、お前、どっちがいい?」
「そりゃあ……」
「だろ? だったら、早く買ってこい。金は俺が出してやるから」
「……」
公孫瓉に金を渡されても、踏ん切りが付かない劉備。
「ちぇ、まだ迷ってるのか。なら、その迷いを吹っ切ってやろう。俺はお前の兄弟子だ。兄の言うことに従うのが〝
煮え切らない弟に兄は問答無用の教えを突き付ける。儒教の教えでは年少者は年長者の言うことに従わなければならない。それが〝悌〟の心である。都合のいい殺し文句だ。それでも、劉備の
「分かりましたよ。でも、徳然はどうするんですか?」
真面目に学問に打ち込む従弟を悪い誘惑で惑わせたくない。
「ほっとけ。もう俺たちのことは眼中にない。いなくなったことに気付くのは、すっかり日が暮れた頃だ」
劉徳然はすでに人ごみを
せっかくの勉学奨励のモニュメントも盧植の期待も、この二人にはまるで効果がなかった。
案の
「あれ、先に宿に戻ったのかな?」
劉徳然は完全に勉強ボケになっていて、二人の性格を忘れてしまったかのようにそんなことを
その頃、劉備と公孫瓉は
「何だってんだ?」
ほろ酔いの公孫瓉は気分を害されて、有無を言わさず客を追い出した酒場の主人にあたった。しかし、そんなことはお構いなしに、
「だから、もう店じまいなんだよ。悪いことは言わねぇから、早く帰んな」
酒場の主人は公孫瓚に言うと、ピシャリと戸を閉めてしまった。
「おいおい、どうなってんだ?」
辺りを見回して、余計に訳が分からなくなった。すでに
銅駝街は洛陽城内の歓楽街である。通りの左右に
全ては夜禁令のせいだった。現在、洛陽には夜間外出禁止令が発令されているのだ。
ここ最近、洛陽では〝
その百鬼夜行ならぬ百鬼夜盗の存在に民衆は恐怖に怯え、何事もないことを祈りながら、夜が明けるのを身を潜めて待っているのである。
が、そんな店主の情報を
「もう帰りましょう。先生の言いつけは守った方がいいと思います」
「心配するな、玄徳。あと一杯だけだ」
「ですが、強盗団が出ると聞いたでしょう」
「びびるんじゃねぇ。その強盗団が現れたら、この俺がとっ捕まえてやる」
劉備の憂慮を
劉備は思わず嘆息した。故郷の幽州に負けず劣らず、冬の洛陽は非常に寒い。
夜なら、それはなおさらで、酒で体の温まっている公孫瓉とは違い、まだ酒に興味のない劉備はただのお供である。
しばらく路地を歩いたが、やはり、店など見当たらず、誰ともすれ違わない。
当てもなく歩いていると、高級な屋敷が立ち並ぶ一角に入り込んでしまった。
「夜禁令のせいで、みんな出歩いていないんですよ。それにこんなところに酒場があるとは思えません。私たちも帰りましょう」
宿に帰りたい一心の劉備は辛うじて明かりを保っている辺りのように、この兄弟子の頭の中にも賢明な判断を下せる明敏さが残っていると信じて次の
「天下の都が
まだ酔い足りない公孫瓉は十分に酔っぱらった者のものとしか思えない台詞を吐いて、未だ目的達成を諦める気配はなかった。もうこの兄弟子は酔いが回って頼りにならない。
公孫瓚が見た明かりは
「ちょうどいい。そいつらに聞いてみよう」
ところが、公孫瓉はそんな賢弟の配慮を無視して劉備の手を振り切ると、危うい足取りで明かりの方へ近付いて行った。劉備の予感は正しく、公孫瓉は声をかける前にその一団によって
「何しやがる、放せ!」
公孫瓉は声を荒げて抵抗した。腰の剣に手を伸ばそうとしたが、武装した一団を統率する男に剣を突き付けられて、おとなしくするしかなかった。
「お前は百鬼のうちの一匹か?」
「あぁん?」
「こうも簡単に捕まるとは
「俺は何もしてねぇぞ!」
公孫瓉を威圧するように、その男の強烈な眼光が松明の炎とともに熱く降り注いだ。酒臭い息を振り
「夜間外出禁止令は知っているな。洛陽城内全域に発令中である。法令違反によりお前を拘束する」
「ふざけるな、放しやがれ!」
なおも公孫瓚は抵抗を試みるが、背後から拘束する男が無言で首に手を回して力強く締め付けると、気が遠くなって公孫瓚の目が
隊長らしき男と同じく、まだ若い。陽が落ちるのは早く、もう辺りは完全な闇に包まれている。
「それは全く存じませんでした。何とぞお許しください!」
暗がりから様子を見守っていた劉備が飛び出してきて、平伏して頭を下げた。
相手が官兵だと分かり、穏便に済ませるのが一番よい方法だと判断したのだ。
予期せぬ少年の登場とその態度に、拘束を指示した男は
「お前は?」
「劉備と申します。そちらは兄弟子の公孫瓉、ともに盧植門下の者でございます」
盧植は高名だ。先生の名前を出せば、信用を得られるのではないかと期待した。
「ほう。あの盧先生の門下生か……」
その通り、隊長の男は盧植を知っているような口ぶりだった。
「お前たちが本当に盧先生の門下生というのなら、鬼とは考えにくいが……。はて、盧先生は『
そう皮肉ってみたが、サボりの常習犯だった二人は返答に困った。
『韓子』とは、儒教の徳治主義に対抗して法治主義を唱え、政治体制と秩序維持のために法律や刑罰の重要性と必然性を説いた
当然、盧植は『韓子』も教授している。ただ劉備の頭に残っていないだけで、盧植がよく口にする〝信賞必罰〟という言葉も『韓子』の出典である。
「こいつも拘束しろ」
男の命令で劉備までも拘束された。劉備の体をボディ・チェックした兵士が
「これは盗品か?」
男は松明の炎で押収品を照らして、竹簡を広げて内容を一通り確認した。
竹簡とは紙が発明される以前の本である。
「それは石経の写本でございます。勉学のために本日購入致しました」
「こいつはどこで手に入れた?」
隊長の男は特に短刀を綿密に調べながら聞いた。
「
「ほう……」
「私たちは今日上洛したばかりで、都の事情に
隊長の男は短刀を興味深そうに眺めながら、劉備の弁明を聞いていた。しかし、
「やはり、『韓子』を知らんようだ。法に
『韓子』を読破し、規律を重んじるその男は劉備の嘆願を冷徹に
物証は得た。押収した短刀は以前押収した百鬼事件のものと
残忍なイメージの百鬼にはそぐわない少年と、いとも簡単に捕まった酔いどれ男。
妙だとも思う。こちらを
「謝るな、玄徳。俺たちは何も悪くねぇ!」
ここで、意識を戻した公孫瓉がまたもや暴言を吐き始めた。劉備までもが罪人扱いされて兵士に引き立てられ、怒りでさらに酒が回ったのか、
「夜禁令か何だか知らねぇが、まだ完全に日が暮れてなかっただろうが。捕まえられるいわれはねぇぞ!」
やっぱり酒の力は怖い。劉備はこの兄弟子が酔いの力を借りて、公権力に対し、無謀な理屈でチンピラのように
「お前の言う完全な日没まで間もなかった。それまでに宿に戻れたというのか?」
洛陽城内は貴族と官僚しか住むことができない。その中でも、
「おうよ。俺たちの宿はそこだ、そこ。あとほんの数歩で戻れたんだ」
公孫瓉が目の前の屋敷を
外の騒動をよそに、屋敷の奥から優雅な琴の
「お前たちはこの辺で見ない顔だ。ここが誰の屋敷か知っていて言っているんだろうな?」
「つまらねぇこと聞くな。とにかく、俺たちゃここの客なんだよ」
「ほぅ、そいつは失礼したな」
眼が笑っていない。もう完全に不審者扱いされている。調べられたらおしまいだ。
夜禁令違反に虚偽申告罪? とにかく、罪人にされて、盧植先生からは破門されてしまうに違いない。ああ……。劉備の頭はもう負のスパイラルでいっぱいだ。
「では、
劉備は男が口にした名前に聞き覚えがあった。
『……誰だっけ? 確か先生が言ってたんだよな。チコウ、チコウ……
と、そこまで思いだしたところで
公孫瓉は無謀にも隊長の男のエスコートに従って、そのまま蔡邕邸入ろうとした。
「……んん、ありゃ徳然か? 徳然、下りてきて俺たちの潔白を証明しろ!」
蔡邕邸の門前に足を進めた公孫瓉が突然、屋敷の上を見上げて大声を上げた。
『何を言っているんだ。何で徳然が……』
酔いが回り過ぎて、幻覚でも見たのか。劉備はこの兄弟子が絶対に酩酊していると確信して呆れた。だが、官兵がある意味公孫瓉の狂言を肯定する発言をした。
「曹部尉、不審者です!」
「どこだ?」
「あの屋根の上に!」
兵が屋敷の屋根を指差す。振り返る。雲間から顔を出した月の光に照らされて、くっきりと浮かぶ人型のシルエット。神出鬼没の盗賊団。出たな。
「奴は百鬼だ、射落とせ!」
隊長の男は瞬時に判断して、兵たちに射撃を命じた。そして、
「元譲の一隊は屋敷を囲い込め!」
「他に怪しい奴がいないか警戒しろ!」
「お前たちはこの二人をこの場で拘束しておけ!」
次々と指示を飛ばし、自らも身を
百鬼と間違われて拘束され、蔡邕邸に足を踏み入れた途端に始まった捕り物ショー。劉備はこの急展開に唖然とするばかりだ。兵士に体を押さえつけられながらも、視線は黒いシルエットの動きを追った。もちろん、それが徳然だとは
黒い影を残し、
しかも、そのシルエットは劉備の視線を感じたわけではなかろうが、不敵にも最初いた屋根の上に戻ってきて、仁王立ちになるという演出ぶりだ。お前たちに俺を捕まえることはできない。そんな台詞が聞こえてきそうだった。
酔いどれ公孫瓉も訳も分からず目の前で繰り広げられる捕り物劇を黙って見物していたが、
「チッ、見てらんねぇぜ。おい、貸してみろ」
そう言うと、公孫瓉は自分を拘束している兵士が携帯していた弓を半ば
「邪魔だ」
公孫瓉は弓を奪い返そうとした兵士を突き飛ばして、獲物に狙いを定めた。
さっきはあれを徳然だと言っていたくせに、今はそれに弓を向けている。まぁ、あれが徳然のはずはないのだが……。
軽蔑と呆れが入り混じった視線を送る劉備を差し置いて、公孫瓚の座った目が獲物の動きの先を読む。獲物が
ヒュンと矢が風を切る音が聞こえたかと思うと、低い呻き声がそれに続いた。
劉備が目を見張った。矢は見事に獲物を捕えたのだ。他の兵が放った矢を避けて飛んだ獲物の着地点目掛けて放たれた矢がその足に当たり、そいつは着地に失敗して、屋根から滑り落ちた。
「どうだ、これが狩りの
息巻く兄弟子。自分が置かれている状況そっちのけで、獲物を仕留めて得意顔だ。そんな公孫瓉とは反対に、劉備の体には一気に緊張が走った。屋根から滑り落ちたと思ったシルエットがもう一跳躍して、劉備の目の前に着地したのだ。
それは着地と同時に
「
隊長の男はまた指示を出して、
「追え、逃すな!」
自ら部隊の先頭に立って、その鬼の追跡に駆け出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます