其之一 幽州の師弟

 蒼穹そうきゅう。雲海。輝く太陽……。

 青と白の隙間からゆったりと光が溢れ、そこから色を奪っていく。

 美しいと思った。天にいると思った。そして、自分が一面の雲海の上にふわふわ浮かんでいることに気付いた。風が吹き上げて、さらに体が持ち上げる。

『あれ、どうして空を飛んでいるんだろう……?』

 途端に風が消え、浮力を失った。焦った。落ちる。雲海に突入し、視界が途切れ、それを突き抜けた。雲の下は別世界だった。雷鳴とどろく嵐の空。天井を闇のベールで覆われた暗く陰鬱いんうつな世界。その中を落ちた。いや、ほとんど光がなく、空気感もないため、落ちているという感覚がない。雲海だったはずの白雲の塊は黒雲の天蓋てんがいとなって陽光をさえぎっていた。

 自分が貫いた雲海の、僅かに光が漏れているその穴が段々と小さく遠ざかっていくのを見て、やはり、落ちているのだと分かった。懸命に手足をばたつかせてみたが、事態は何も変わらない。落ちるのを止めるすべがない。

『落ちたらどうなる……?』

 想像すると、とてつもなく怖くなった。恐怖を感じた時、軟らかな風を感じた。

『今は嵐のような世の中。飛ぶには危険じゃ』

 突風にあおられた。……先生の声?

『それでも空を飛びたいと願うなら、嵐にも負けぬ羽と天高く昇れる翼を手に入れよ』

 稲妻が光った。天蓋の黒雲の中に何かうごめいた。

『お前には人をきつける資質がある。まずは地に降り立ち、その足で四方を巡るとよい』

 再び稲妻がきらめいた。黒雲から巨大な生物の体がのぞく。うろこに覆われたあまける大蛇。龍。

『そして、この嵐を収め清めることができたなら、お前は龍に乗って、天を翔けることができるじゃろう……』

 三度目の稲妻は雷撃となって体を撃った。痛みはなかった。が、それで落ちるスピードが急加速した。空の終わりが見えた。叩きつけられる……!


「うわぁぁぁぁー!」

 静寂を破って絶叫する。跳ねるように飛び上がって、奏案そうあん(小型の学習机)に派手に足を打ち付ける。驚いたのはむしろ周りの人間の方だった。

「何をやっとるか、玄徳げんとく!」

 先生の雷が落ちた。それがまるで耳元で鐘を鳴らされたかのように響いた。

「は……。あ……先生、分かりません」

「何じゃと?」

「どうやって嵐を収めるのですか?」

「あん? 何を訳の分からんことを言っとるか。寝ボケとらんで、しっかり聞かんか!」

「えっ?」

 周囲の生徒が一斉に笑った。三十人ほどの学生が座ることができる講堂。講堂を満たしていた冷たい冬の空気がその活気に温まる。笑われた少年はぼんやりとした顔をきょろきょろさせて、事態を呑み込んだ。今は授業中だ。あれは夢だったのかと半信半疑ながら、不覚にも爆笑の嵐を巻き起こしたのは自分なのだと、まだうつろな頭ながらに自覚する。

「全く、お前と伯珪はくけいにはほとほと手を焼かされる。伯珪はズルけてばかり。お前はいつも上の空……」

 厳粛さが漂う長身の教授が小さく縮こまった問題児を見下ろして説教する。

「罪不孝より大なるはなし、と『孝経こうきょう』にある。母上や叔父上に申し訳ないと思わんのか?」

『孝経』は経書の一つで、儒学におけるバイブルである。孝行の精神の重要性を説いたもので、この塾の講義でもよく取り上げられる教科書である。

「……はい、反省しています」

 厳しい目つきでにらみつけられ、その生徒はうつむいてぽつりとつぶやいた。

「やれやれ、お前の将来が思いやられるわい」

 初老の教授はこの門生にあきれた。その教授、盧植ろしょくあざな子幹しかんという。幽州涿たく郡涿県の人で、幽州きっての知識人である。

 幽州は都・洛陽がある中原ちゅうげんから遠く、中原から見れば、最北に位置する辺境の地だ。国境の向こうは異民族が住まう土地柄、常に侵略の危機に面しており、実際騒乱が絶えないといった物騒な地域であった。盧植は幽州人らしく武芸軍略にも通じる文武両道の才人で、ずっと故郷の涿県で門生を集めて教授していたが、博士(大学教授)に選ばれて都へ出仕することになった。しばらくして博士を辞職したが、盧植は遠く離れた幽州には戻らずに、都にほど近い緱氏こうし県というところで、小さな私塾を開いて教授する日々を送っていた。

 門生の方は名を劉備りゅうびあざなを玄徳といった。師と同じ涿郡涿県の出身の十五歳だ。

 早くに父を失い、家は貧しく、むしろを織ったり、草鞋わらじを編んだりして何とか生計を立てるという暮らしぶりだった。しかし、そんな苦しい生活を送る母子家庭の環境だったにもかかわらず、劉備の母は盧植が緱氏県に再び私塾を開設し、門生を募集していると聞くと、志学しがく(十五歳)を迎えた息子をこの高名な学者のもとに遊学に出したのである。全ては愛息の将来を考えてのことだった。幸い、学費の大半を叔父が工面くめんしてくれることになった。

 ところが、親の心子知らず。劉備は狩猟や音楽には熱を入れても、勉学になると身が入らない。盧植は劉備の家庭環境も家計状況も聞き知っていたので、同郷の贔屓ひいき目もあり、特に目をかけていたのである。気の抜けた問題児ではあるが、気にかかる愛弟子まなでしでもあるのだ。

「わしがお前の年の頃はよそ見せず、いつも集中して師の言葉に耳を傾け、そりゃあ真面目に学問に打ち込んだもんじゃったわい」

 盧植が昔を懐かしみながら説教を続ける。その言葉は決していつわりでも作り話でもない。

「お前を見ておると、どことなく我が師を思い出す。わしの師は当世一の学者でなぁ……」

 盧植がまた昔話を語り出した。盧植は名門・馬融ばゆうの下に学んだ。

 盧植の師は馬融、あざな季長きちょうといい、右扶風ゆうふふう茂陵ぼうりょうの名門豪族・馬氏の出である。

 その容姿はうるわしく、音楽を愛し、派手な服を着、思うがままに生きて、自分を律することをしなかった。大学者ではあったが、儒者のモラルにはこだわらない人物でもあった。講堂では自らは赤いとばりを施した高堂に座して、その後ろには女性の歌舞団をはべらせていたという。弟子は千人以上を数えたといい、その教え方も奇抜で、まず前列の高弟に講義を授け、兄弟子が弟弟子に順々に伝えてゆくというスタイルをとった。中でも盧植の受講態度は際立っており、数年の学期中、一度たりとも自失したことがなく、千人の門生の中でも特に馬融に認められるほどであった。そして、ついには最前列(首席)で講義を受けるまでになった。

「わしは師に認められたお陰で今がある。あの時、学問に打ち込んでおらなんだら、どうなっておったか……」

 盧植の嘆息に劉備は反省の色を見せて言った。

「先生、これからは心を入れ替えて勉強します」

「調子のいい奴じゃ。……ならば、玄徳と伯珪は明日わしの供をせよ。都でよい勉強をさせてやろう」

 盧植は意味ありげな言葉を劉備に投げかけて、にやりとほくそ笑んだ。

「明日ですか?」

「何じゃ、その顔は? まさか都合のいい理由をつけてズルけるつもりではあるまいな?」

「そんなことは……ないですよ」

 図星をつかれ、劉備の態度が怪しくなる。

「この世は信賞必罰……とはいえ、今の世はそれが正しく行われておらんから、大きく乱れておるんじゃがの……」

 盧植は今度は門生全員に向けて語りかけた。

「将来何をするにしろ、学問があって得をすることはあっても、損をすることはない。道に迷った時には学問が助けとなることもあるじゃろう。身を立て親に孝行を尽くすためにも、今は心して学問を学ぶ時じゃぞ」

「はい、先生!」

 門生たちは気持ちのよい返事で師の思いに応えた。

「よろしい。ふ~、もう日が傾いておるわ。今日の講義はここまでとする」

 冬の落陽の早さを気にした盧植のその一言で、その日の授業は終わりとなった。

 学生たちがぞろぞろと部屋を退出していく中、劉備に近付いてきたのは、

「さすが先生。全部お見通しだね」

 従弟の劉徳然りゅうとくぜんだった。真面目一徹の優等生である。劉徳然は劉備の学費を出してくれている劉元起りゅうげんきの一人息子で、劉備と一緒に涿県から遊学に来ている。

「ちゃんと先生の講義を聞いた方がいいよ。盧先生みたいな高名な先生に教わることができるなんて、こんな機会は滅多にないんだから」

「ああ」

 そんな劉徳然の真っ当な意見を聞いても、劉備は素っ気ない返事を返すだけだった。

「まさか僕の父さんが学費の面倒をみてるからって、どうでもいいって思ってるんじゃないだろうね?」

「まさか! 叔父さんには感謝してるよ、本当に」

 劉徳然の嫌疑けんぎを慌てて否定する。実は徳然の母は劉備の学費を出すことには反対だった。

「――――徳然の分はいいけれど、どうしてあの子の分まで出してやるの? 親戚とはいえ、家は別です。我が家の家計だって楽ではないんですよ」

 しかし、徳然の父の劉元起は劉備の秘めたる才能を見抜いていた。

「――――いや、我が一族でもあれは傑出している。いずれ大成するだろう。いつか親戚なのを誇れる時がやってくる」

 そう言って、妻をなだめたという。

「じゃ、明日は先生の言う通り、しっかり勉強してきてよね」

 徳然が帰ろうとするのを劉備が引き止めた。

「何だよ、徳然。一緒に行こうぜ」

「どうして僕が? これは二人のための罰だよ?」

「俺たちには罰かもしれないけど、徳然はもっと勉強したいだろ?」

「そりゃあ……。でも、いいのかなぁ?」

「俺が先生に口をいてやるよ」

 劉備が早速学舎を飛び出して行って、住まいに戻ろうとしていた盧植にそのむねを伝えた。盧植はしばしの瞑目めいもくの末、それを許可した。

「……まぁ、よかろう。それより、きちんと伯珪にも伝えておくんじゃぞ」

「はい」

 劉備は勉強熱心な徳然に親身にすることで、この時ばかりは少しでも叔父からの恩に応えようとした。

 

 緱氏県は都・洛陽の隣県で、河南尹かなんいん(首都圏)に属する。洛陽を守る東の防壁であり、五岳の一つである嵩山すうざんの山並みのふもとに位置し、洛陽からは、およそ五十里(二十キロメートル)余り。まさしく目と鼻の先である。

 盧植が故郷の幽州にではなく、都に近いこの場所に私塾を開いたのには大きな理由があった。

 六年前、洛陽で〝清流派〟と呼ばれた正義派官僚たち多数とその関連者が一斉に逮捕・処罰されるという〝党錮とうこ事件〟が起き、全国に衝撃が走った。政権をくつがえそうとしたクーデターを謀ったという容疑であったが、重罪とされた官僚は極刑に処され、他は免官の上、終身禁錮が言い渡された。

 終身禁錮処分が科されると、官吏としての登用の機会が閉ざされ、郷里で一生を過ごさなければならない。これは政界からの永久追放にほかならない。

 盧植は文武両道の清流人である。党錮事件の後に仕官したので、直接党錮には関わっていないが、政界を浄化しようとする彼ら清流派人士の志を深く受け継ぎ、洛陽の清流派官僚と交友しながら、子弟の養育も行おうとしていたのである。そのためには洛陽の近くに居を構えるのが最適で、環境も静かな緱氏県を選んだのだった。

 その昔、前漢の武帝が嵩山すうざんに対して封禅ほうぜんの儀式を行った時、地をまつる〝坤禅こんぜん〟の祭祀はこの緱氏県で行われたという。

 高名な盧植が私塾を開いたニュースは遠く離れた涿郡にもすぐに伝わって、劉備や劉徳然など同郷の子供から、都で優雅な暮らしをする青年たちまでが集まってきた。

 都に近い立地は子弟の教育にも都合がよかった。時々、盧植は社会見学と称して、洛陽に門生を連れて行った。洛陽城の郊外には太学(国立大学)があって、全国の優秀な学生が集う。そこを見学させるのは門生を奮起させるよい刺激にもなるし、都の華やかな雰囲気はよい息抜きになる。将来、自分の門生から何人の官僚が育つか分からないが、都の実態を知っておいて損はない。何を感じ取るかはそれぞれでも、何かのかてにはなるだろう。特に、劉備ら田舎者にとっては都見学は大層刺激的なものになるだろう――――そんな盧植の思いをよそに、劉備は兄弟子とこの降って湧いた災難について話していた。

 劉備たち門生の多くは講堂に併設された学生寮で生活している。学生の数に対して十分とは言えない広さの平屋。いくつかの部屋に間仕切りされているが、一番端の部屋に幽州からの遊学生たち三人が入っている。学習用の草卓と雑魚寝ざこね用の茣蓙ござ布団ふとん以外は何もない質素と表現する以外にないような部屋である。講堂のみならず、学生寮にまで質素倹約・質実剛健が信条の盧植スタイルが行きわたっている。

 劉備と劉徳然のルームメイトの青年が暇を持て余し、仰向けに寝転んで呟いた。

「あー、何とかならねぇもんかな?」

「今回ばかりは無理でしょう。これは怠惰な私たちに対する懲罰みたいですから、これを無視したら、破門されてしまいますよ」

 劉備の答えを聞いて、その青年は勢いよく体を起こした。そして、

「う~ん、さすがに破門はまずい。先生はあれで筋金入りの堅物だからなぁ……」

 壁に立てかけてあった弓を引き絞って、話し相手の劉備に向けて何度も空射からうちしながら、憮然と呟く。

 その青年は公孫瓉こうそんさんあざなを伯珪という。幽州の遼西りょうせい令支れいし県の人で、今年で二十三になる凛々りりしい若者である。劉備より八歳年長で、同じ幽州出身の劉備を弟分として可愛がっている。

「こりゃ、今日の狩りは諦めるしかないか……。それなら、いっそ吹雪ふぶきにでもなってほしいもんだぜ」

 遊び仲間たちと嵩山に入って狩りに興じる予定だった公孫瓚は、ぶつくさ不満を垂れながら、取った弓をまた壁に立てかけた。その代わりに草卓の上に置いてあった剣をつかみ、さやから抜いて刃の具合を確かめる。劉備以上に学問に身が入っていないのは一目瞭然だ。

 今でこそこんな不良学生の公孫瓚であるが、実は十代で遼西郡の特別遊学生に選ばれて上洛し、まず劉寛りゅうかんという大儒のもとに入門したエリート学生だった。

 劉寛、あざな文饒ぶんじょう。儒学に通じた皇族で、高貴な身分ながら、下賤げせんの者に対しても常に温情をもって接する文字通りの温厚君子だった。その穏和ぶりは都では随分有名で、誰も怒っている姿を見たことがないと噂されるほどであった。ただ、そんな性格なため、公孫瓉が講義をサボっても、決してしからず、それを黙認してやった。確かに一つの美徳であるかもしれないが、それがまだ若い公孫瓉を学問から遠ざける甘さにも繋がったのである。

 現在劉寛は光禄勲こうろくくんという宮城宿営を司る高級官僚となって、公務に多忙を極めている。

 公孫瓚は二度目の遊学で盧植の門下に入っても、そのスタイルは一向に変わらず、授業をサボっては狩りに出かけたり、悪友とつるんで羽を伸ばすことをしょっちゅうやっていた。弟分の劉備もそんな兄弟子に付き合わされて、時々授業をサボることがあった。

 公孫瓚にとって劉備は同郷かつルームメイト、そして、弟弟子という関係性以上にどこか馬が合う。劉備は普段性格がおとなしく温厚で、目立たず、律義であるため、公孫瓉にとっては扱い易いのである。意外と度胸があるところも公孫瓉は気に入っている。

 三人は寮を出ると、門前まで歩いた。日差しは差し込んでいるものの、ちらちらと雪が舞っている。早朝の寒さに体を震わせながら、盧植の登場を待つ。

 明らかに不満そうな顔でたたずむ兄弟子に劉備が気を利かせて言った。

「都なら何か代わりの楽しみを見つけられますよ」

 だが、そう言う劉備自身の表情はえない。公孫瓚との付き合いで上洛は初めてではなかったし、多くの人でごった返す都会の雰囲気は慣れていないせいもあって、好きではなかった。

「……だといいがな」

 公孫瓉はすでに頭の中を都の酒で温め始めたようだ。想像に顔が緩む。

「まるで反省の色がないね」

 劉徳然はこの二人には付いていけない、と呆れるだけだった。

 ふと、二人の態度が急変した。盧植が現れたのだ。

「今日はズルけずに来たか、伯珪」

「はい、先生。先生のお供とあらば、喜んで」

 さすがに師を前にしては公孫瓉もえりを正して行儀よく振る舞う。これ以上、印象を悪くしてはマズい。白い息を吐きながら粛々と盧植に付き従う。

 城門を出て、西への街道を行く。距離が近く、半日もかからないということもあって、師弟共にかちでの移動だ。劉備が物静かなのはよく知っているが、公孫瓚が一言も発せずにいるのは、見たことがない。

「何を黙りこくっておる?」

 道中、明らかに不自然な態度の公孫瓉に盧植が聞いた。

「いやぁ、上洛は久しぶりなものですから、少し緊張します……なぁ、玄徳?」

 劉備は素早く二度三度頷いて、二人はぎこちなさを緊張としてよそおった。

「ほ~。お前たちも緊張するのか?」

 盧植はわざとらしくうそぶいてやった。

「ところで、伯珪。いつも講義をズルけて何をしておる?」

 不意に核心を突かれて、今度は咄嗟とっさにいい嘘を思いつかず、公孫瓉は頭の整理がつかないまま素直に言葉を口にしてしまった。

「え? あ、実は弓の腕を磨いておりまして……」

「そう言えば聞こえはいいが、とどのつまり、狩りに興じておるだけじゃろうが?」

 その様子を後ろで見ていた劉徳然が、「やっぱり先生は何もかもお見通しだ」と劉備にささやいて、くすくす笑った。

「え? あー、それも一つの鍛錬ですから。それに弓だけでなく、剣も槍もやっております」

「学問をしに来ておるのに、何故そこまで武を求める?」

「私が目指すのは、軍を率い、賊を討つ将軍職です。幽州は常に鮮卑せんぴ烏桓うかん寇略こうりゃくおびやかされていますし、奴らから民や土地を護るには武芸を身につけておかなければなりません。それに、幽州では文より武の方が重んじられますので……」

 盧植も納得する真っ直ぐな回答と言ってよいだろう。

 鮮卑、烏桓は共に北方異民族で、幽州は長年その侵略に悩まされている。特に鮮卑族は檀石塊だんせきかいという強大なリーダーの下、最盛期を迎えており、精強な騎馬軍団をようして、その勢力範囲は幽州から涼州まで、漢の領土の北部全域に及んだ。

 この五月にも鮮卑が越境侵入して、幽州は大きな被害を出したばかりだった。

 幽州からは、大規模な鮮卑討伐軍を編成して元凶を断つべきだという強硬論が度々上がっていて、その意見が朝廷で閣議にかけられているという状況だ。

 そのような背景もあって、公孫瓚が思い描く理想はその討伐軍を率いて大きな戦功を挙げることだった。盧植が白い息を吐き出しながらうなる。

「ふ~む。わしも幽州の人間ゆえ分からんでもないが……」

 一方、同じ幽州人である劉備は、そんな師弟の会話を全く聞いていなかった。

 盧植と公孫瓚から少し離れた後方を一人歩く。視線は下を向いている。その先にあるのは、薄く積もった雪で一面白くなった平原に突如口を開けた暗黒の溝。

 そのふちに沿って、闇の中を覗き込みつつ、それに呑み込まれないようにして慎重に歩く。十年前の地震で出来たという巨大な地割れ。なだらかな平地が縦横に上下に裂けている様は、龍が大地を破って出ていったようなイメージを劉備の頭に描かせた。

『あんな夢を見たからかな?』

 いつだったか盧植の講義でこの地割れが取り上げられたことがあり、その時は、劉備も珍しく講義に聞き入ったものだ。その講義の後、あの変な夢を見る数日前、公孫瓚に誘われて授業をサボり、数人の仲間とこの暗黒の断層を見るためにやってきて、肝試しに縁沿いを歩いてみたり、どこまで深いのか石を落してみたりした。

 先生の友人の学者――――名前は忘れてしまったが、その学者の説では、地震は万物を作るエネルギー〝陰陽〟のうち、陰のエネルギーが大きくなりすぎてバランスを壊すことが原因で起こるという。とにかく、吉兆ではない。だから、気味悪がって皆近付きたがらない。そんなところに近付きたがる劉備も変だが、後ろからずっと後を付いてくる連中も変だった。

「何か御用ですか?」

 振り返って、劉備が聞いた。少年ながらも、その声は相手の疑義を問いただすように迫力に満ちている。

「お? ……お前に用はねぇよ。お前の師匠にはあるがな」

 不意を突かれた三人組の一人が答えた。三人とも全身黒装束で、不敵な表情を浮かべ、不穏な空気を漂わせ、いかにもあやしい連中であることを誇示している。

「先生はあなたたちに用はないと思います」

 それを感じた劉備がぴしゃりとやり返した。

「何だと、くそガキ!」

「生意気な口ききやがって。そこの穴に放りまれてぇのか?」

 そんなやりとりで盧植たちが後方の異変に気付いた。弟弟子が不審なやからに絡まれていると知って、公孫瓉が目つき鋭く歩み寄ってきた。徳然は盧植の後ろに隠れるようにして事態を見守る。

「おい、てめぇ。何、かましてくれてんだ? 俺がてめぇを叩き落としてやろうか?」

 公孫瓚が不穏な台詞せりふを発して劉備と不審者たちの間に割って入る。こういう時の公孫瓚は心底心強いが、その態度はまるでチンピラのようだ。

「随分態度のわりぃ生徒を育ててるじゃねぇか、先生よ」

 黒衣の男の一人が盧植の方に顔を向け、無礼な口をきく。

「下らぬ言いがかりじゃな。用件は何じゃ、物取りか?」

「さぁ、どうだかな?」

 三人組がこれが答えだとばかり、一斉に腰の短刀を抜いた。

「皆、逃げよ!」

 盧植が弟子たちに指示した。ところが、

「いえ、ここはこの公孫瓉にお任せください!」

 その命に反して公孫瓉が勇壮に進み出た。その顔に余裕の笑みと喜色をにじませて。

「無茶をするでないぞ、伯珪!」

「ご安心ください。何のための武か、日頃の鍛錬の成果をご覧に入れます」

 評価挽回ばんかいのチャンス到来。自分の武芸には自信がある。ごろつき三人なぞ相手ではない。公孫瓉は武人らしく常に帯剣している。この時はそれが幸いした。

 抜剣、気炎を吐いて、

「先生には指一本触れさせんぞ!」

 ごろつきどもに……というより、後方の盧植に対して大いにアピールした。

「この馬鹿も先生の弟子かい? なら、一緒に死になっ!」

 公孫瓉は飛びかかってきた男の動きを見切って、短刀の一撃をかわし、逆にその短刀を弾き飛ばしてみせた。大言壮語ではないその実力に盧植も思わずうめいた。

「今度は首を飛ばすぞ」

 公孫瓉がひるんだその男の首筋に刃を当てて、ドスの効いた声で警告した。

「調子に乗るんじゃねぇ!」

 それは逆効果で、残りの二人が鼻息を荒くして公孫瓉を襲った。公孫瓉は二人同時に相手にしても全く動じることなく、それぞれを斬り払って手傷を負わせた。背後で最初の男が落とした短刀を拾おうとしたが、劉備がそれより速くこぶしほどの石を拾い上げると、その男に投げつけた。石は見事に顔面に命中し、男は「ぎゃっ」と声をあげて大きくのけぞった。男は顔を押さえてふらふらと何歩か後退すると、何もない宙を踏んだ。そして、悲鳴とともに奈落の底へ落ちて行った。

 意もしない形で仲間を失って、残りの二人が慌てる。劉備はその隙に短刀を拾い上げて、戦闘態勢をとった。

「……このガキ、やりやがったな!」

 公孫瓚に斬りつけられて腕を押さえた男が劉備を鋭く睨みつけたが、もう一人の仲間も手負いになってしまったのを見て、

「チ……ズラかるぞ!」

 黒衣の二人は目的を果たせず、すごすごと退散していった。公孫瓉が追いかけようとしたが、盧植が制止した。

「あれはただのごろつきではあるまい。……都へ急ぐぞ」

 あれは自分の命を狙ってきた。濁流派の刺客だとしたら、盧植には心当たりがあった。

『こんなことになるとは、弟子たちを連れてきたのは間違いじゃったか……』

 生徒たちの安全を憂慮し、眉をひそめて悔悟する盧植だったが、それを打ち消すのは公孫瓉のはつらつとした声だった。

「先生、早速私の武が役に立ちましたね」

「確かに見事な腕前じゃったな」

 盧植が素直に殊勲の公孫瓚を褒めてやった。劉備を見やる。まだ十五の劉備は動揺した様子も見せず、奪った短刀を振って剣の達人を気取っている。

『一見凡庸かと思いきや、なかなか胆の太い奴じゃ。この二人を連れてきたのは不幸中の幸いじゃったかもしれん……。じゃが、徳然は間違いじゃったなぁ……』

 劉備・公孫瓉とは対照的に、自分の後ろで腰を抜かして動けないでいる劉徳然を見て、思わず嘆息する盧植であった。

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