其之一 幽州の師弟
青と白の隙間からゆったりと光が溢れ、そこから色を奪っていく。
美しいと思った。天にいると思った。そして、自分が一面の雲海の上にふわふわ浮かんでいることに気付いた。風が吹き上げて、さらに体が持ち上げる。
『あれ、どうして空を飛んでいるんだろう……?』
途端に風が消え、浮力を失った。焦った。落ちる。雲海に突入し、視界が途切れ、それを突き抜けた。雲の下は別世界だった。雷鳴
自分が貫いた雲海の、僅かに光が漏れているその穴が段々と小さく遠ざかっていくのを見て、やはり、落ちているのだと分かった。懸命に手足をばたつかせてみたが、事態は何も変わらない。落ちるのを止める
『落ちたらどうなる……?』
想像すると、とてつもなく怖くなった。恐怖を感じた時、軟らかな風を感じた。
『今は嵐のような世の中。飛ぶには危険じゃ』
突風に
『それでも空を飛びたいと願うなら、嵐にも負けぬ羽と天高く昇れる翼を手に入れよ』
稲妻が光った。天蓋の黒雲の中に何か
『お前には人を
再び稲妻が
『そして、この嵐を収め清めることができたなら、お前は龍に乗って、天を翔けることができるじゃろう……』
三度目の稲妻は雷撃となって体を撃った。痛みはなかった。が、それで落ちるスピードが急加速した。空の終わりが見えた。叩きつけられる……!
「うわぁぁぁぁー!」
静寂を破って絶叫する。跳ねるように飛び上がって、
「何をやっとるか、
先生の雷が落ちた。それがまるで耳元で鐘を鳴らされたかのように響いた。
「は……。あ……先生、分かりません」
「何じゃと?」
「どうやって嵐を収めるのですか?」
「あん? 何を訳の分からんことを言っとるか。寝ボケとらんで、しっかり聞かんか!」
「えっ?」
周囲の生徒が一斉に笑った。三十人ほどの学生が座ることができる講堂。講堂を満たしていた冷たい冬の空気がその活気に温まる。笑われた少年はぼんやりとした顔をきょろきょろさせて、事態を呑み込んだ。今は授業中だ。あれは夢だったのかと半信半疑ながら、不覚にも爆笑の嵐を巻き起こしたのは自分なのだと、まだ
「全く、お前と
厳粛さが漂う長身の教授が小さく縮こまった問題児を見下ろして説教する。
「罪不孝より大なるはなし、と『
『孝経』は経書の一つで、儒学におけるバイブルである。孝行の精神の重要性を説いたもので、この塾の講義でもよく取り上げられる教科書である。
「……はい、反省しています」
厳しい目つきで
「やれやれ、お前の将来が思いやられるわい」
初老の教授はこの門生に
幽州は都・洛陽がある
門生の方は名を
早くに父を失い、家は貧しく、
ところが、親の心子知らず。劉備は狩猟や音楽には熱を入れても、勉学になると身が入らない。盧植は劉備の家庭環境も家計状況も聞き知っていたので、同郷の
「わしがお前の年の頃はよそ見せず、いつも集中して師の言葉に耳を傾け、そりゃあ真面目に学問に打ち込んだもんじゃったわい」
盧植が昔を懐かしみながら説教を続ける。その言葉は決して
「お前を見ておると、どことなく我が師を思い出す。わしの師は当世一の学者でなぁ……」
盧植がまた昔話を語り出した。盧植は名門・
盧植の師は馬融、
その容姿は
「わしは師に認められたお陰で今がある。あの時、学問に打ち込んでおらなんだら、どうなっておったか……」
盧植の嘆息に劉備は反省の色を見せて言った。
「先生、これからは心を入れ替えて勉強します」
「調子のいい奴じゃ。……ならば、玄徳と伯珪は明日わしの供をせよ。都でよい勉強をさせてやろう」
盧植は意味ありげな言葉を劉備に投げかけて、にやりとほくそ笑んだ。
「明日ですか?」
「何じゃ、その顔は? まさか都合のいい理由をつけてズルけるつもりではあるまいな?」
「そんなことは……ないですよ」
図星をつかれ、劉備の態度が怪しくなる。
「この世は信賞必罰……とはいえ、今の世はそれが正しく行われておらんから、大きく乱れておるんじゃがの……」
盧植は今度は門生全員に向けて語りかけた。
「将来何をするにしろ、学問があって得をすることはあっても、損をすることはない。道に迷った時には学問が助けとなることもあるじゃろう。身を立て親に孝行を尽くすためにも、今は心して学問を学ぶ時じゃぞ」
「はい、先生!」
門生たちは気持ちのよい返事で師の思いに応えた。
「よろしい。ふ~、もう日が傾いておるわ。今日の講義はここまでとする」
冬の落陽の早さを気にした盧植のその一言で、その日の授業は終わりとなった。
学生たちがぞろぞろと部屋を退出していく中、劉備に近付いてきたのは、
「さすが先生。全部お見通しだね」
従弟の
「ちゃんと先生の講義を聞いた方がいいよ。盧先生みたいな高名な先生に教わることができるなんて、こんな機会は滅多にないんだから」
「ああ」
そんな劉徳然の真っ当な意見を聞いても、劉備は素っ気ない返事を返すだけだった。
「まさか僕の父さんが学費の面倒をみてるからって、どうでもいいって思ってるんじゃないだろうね?」
「まさか! 叔父さんには感謝してるよ、本当に」
劉徳然の
「――――徳然の分はいいけれど、どうしてあの子の分まで出してやるの? 親戚とはいえ、家は別です。我が家の家計だって楽ではないんですよ」
しかし、徳然の父の劉元起は劉備の秘めたる才能を見抜いていた。
「――――いや、我が一族でもあれは傑出している。いずれ大成するだろう。いつか親戚なのを誇れる時がやってくる」
そう言って、妻をなだめたという。
「じゃ、明日は先生の言う通り、しっかり勉強してきてよね」
徳然が帰ろうとするのを劉備が引き止めた。
「何だよ、徳然。一緒に行こうぜ」
「どうして僕が? これは二人のための罰だよ?」
「俺たちには罰かもしれないけど、徳然はもっと勉強したいだろ?」
「そりゃあ……。でも、いいのかなぁ?」
「俺が先生に口を
劉備が早速学舎を飛び出して行って、住まいに戻ろうとしていた盧植にその
「……まぁ、よかろう。それより、きちんと伯珪にも伝えておくんじゃぞ」
「はい」
劉備は勉強熱心な徳然に親身にすることで、この時ばかりは少しでも叔父からの恩に応えようとした。
緱氏県は都・洛陽の隣県で、
盧植が故郷の幽州にではなく、都に近いこの場所に私塾を開いたのには大きな理由があった。
六年前、洛陽で〝清流派〟と呼ばれた正義派官僚たち多数とその関連者が一斉に逮捕・処罰されるという〝
終身禁錮処分が科されると、官吏としての登用の機会が閉ざされ、郷里で一生を過ごさなければならない。これは政界からの永久追放にほかならない。
盧植は文武両道の清流人である。党錮事件の後に仕官したので、直接党錮には関わっていないが、政界を浄化しようとする彼ら清流派人士の志を深く受け継ぎ、洛陽の清流派官僚と交友しながら、子弟の養育も行おうとしていたのである。そのためには洛陽の近くに居を構えるのが最適で、環境も静かな緱氏県を選んだのだった。
その昔、前漢の武帝が
高名な盧植が私塾を開いたニュースは遠く離れた涿郡にもすぐに伝わって、劉備や劉徳然など同郷の子供から、都で優雅な暮らしをする青年たちまでが集まってきた。
都に近い立地は子弟の教育にも都合がよかった。時々、盧植は社会見学と称して、洛陽に門生を連れて行った。洛陽城の郊外には太学(国立大学)があって、全国の優秀な学生が集う。そこを見学させるのは門生を奮起させるよい刺激にもなるし、都の華やかな雰囲気はよい息抜きになる。将来、自分の門生から何人の官僚が育つか分からないが、都の実態を知っておいて損はない。何を感じ取るかはそれぞれでも、何かの
劉備たち門生の多くは講堂に併設された学生寮で生活している。学生の数に対して十分とは言えない広さの平屋。いくつかの部屋に間仕切りされているが、一番端の部屋に幽州からの遊学生たち三人が入っている。学習用の奏案(小型机)と
劉備と劉徳然のルームメイトの青年が暇を持て余し、仰向けに寝転んで呟いた。
「あー、何とかならねぇもんかな?」
「今回ばかりは無理でしょう。これは怠惰な私たちに対する懲罰みたいですから、これを無視したら、破門されてしまいますよ」
劉備の答えを聞いて、その青年は勢いよく体を起こした。そして、
「う~ん、さすがに破門はまずい。先生はあれで筋金入りの堅物だからなぁ……」
壁に立てかけてあった弓を引き絞って、話し相手の劉備に向けて何度も
その青年は
「こりゃ、今日の狩りは諦めるしかないか……。それなら、いっそ
遊び仲間たちと嵩山に入って狩りに興じる予定だった公孫瓚は、ぶつくさ不満を垂れながら、取った弓をまた壁に立てかけた。その代わりに奏案の上に置いてあった剣を
今でこそこんな不良学生の公孫瓚であるが、実は十代で遼西郡の特別遊学生に選ばれて上洛し、まず
劉寛、
現在劉寛は
公孫瓚は二度目の遊学で盧植の門下に入っても、そのスタイルは一向に変わらず、授業をサボっては狩りに出かけたり、悪友とつるんで羽を伸ばすことをしょっちゅうやっていた。弟分の劉備もそんな兄弟子に付き合わされて、時々授業をサボることがあった。
公孫瓚にとって劉備は同郷かつルームメイト、そして、弟弟子という関係性以上にどこか馬が合う。劉備は普段性格がおとなしく温厚で、目立たず、律義であるため、公孫瓉にとっては扱い易いのである。意外と度胸があるところも公孫瓉は気に入っている。
三人は寮を出ると、門前まで歩いた。雲間から弱弱しく陽光が差し込んでいるものの、ちらちらと雪が舞っている。早朝の寒さに体を震わせながら、盧植の登場を待つ。
明らかに不満そうな顔で
「都なら何か代わりの楽しみを見つけられますよ」
だが、そう言う劉備自身の表情は
「……だといいがな」
公孫瓉はすでに頭の中を都の酒で温め始めたようだ。想像に顔が緩む。
「まるで反省の色がないね」
劉徳然はこの二人には付いていけない、と呆れるだけだった。
ふと、二人の態度が急変した。盧植が現れたのだ。
「今日はズルけずに来たか、伯珪」
「はい、先生。先生のお供とあらば、喜んで」
さすがに師を前にしては公孫瓉も
城門を出て、西への街道を行く。距離が近く、半日もかからないということもあって、師弟共に
「何を黙りこくっておる?」
道中、明らかに不自然な態度の公孫瓉に盧植が聞いた。
「いやぁ、上洛は久しぶりなものですから、少し緊張します……なぁ、玄徳?」
劉備は素早く二度三度頷いて、二人はぎこちなさを緊張として
「ほ~。お前たちも緊張するのか?」
盧植はわざとらしく
「ところで、伯珪。いつも講義をズルけて何をしておる?」
不意に核心を突かれて、今度は
「え? あ、実は弓の腕を磨いておりまして……」
「そう言えば聞こえはいいが、とどのつまり、狩りに興じておるだけじゃろうが?」
その様子を後ろで見ていた劉徳然が、「やっぱり先生は何もかもお見通しだ」と劉備に
「え? あー、それも一つの鍛錬ですから。それに弓だけでなく、剣も槍もやっております」
「学問をしに来ておるのに、何故そこまで武を求める?」
「私が目指すのは、軍を率い、賊を討つ将軍職です。幽州は常に
盧植も納得する真っ直ぐな回答と言ってよいだろう。
鮮卑、烏桓は共に北方異民族で、幽州は長年その侵略に悩まされている。特に鮮卑族は
この五月にも鮮卑が越境侵入して、幽州は大きな被害を出したばかりだった。
幽州からは、大規模な鮮卑討伐軍を編成して元凶を断つべきだという強硬論が度々上がっていて、その意見が朝廷で閣議にかけられているという状況だ。
そのような背景もあって、公孫瓚が思い描く理想はその討伐軍を率いて大きな戦功を挙げることだった。盧植が白い息を吐き出しながら
「ふ~む。わしも幽州の人間ゆえ分からんでもないが……」
一方、同じ幽州人である劉備は、そんな師弟の会話を全く聞いていなかった。
盧植と公孫瓚から少し離れた後方を一人歩く。視線は下を向いている。その先にあるのは、薄く積もった雪で一面白くなった平原に突如口を開けた暗黒の溝。
その
『あんな夢を見たからかな?』
いつだったか盧植の講義でこの地割れが取り上げられたことがあり、その時は、劉備も珍しく講義に聞き入ったものだ。その講義の後、あの変な夢を見る数日前、公孫瓚に誘われて授業をサボり、数人の仲間とこの暗黒の断層を見るためにやってきて、肝試しに縁沿いを歩いてみたり、どこまで深いのか石を落してみたりした。
先生の友人の学者――――名前は忘れてしまったが、その学者の説では、地震は万物を作るエネルギー〝陰陽〟のうち、陰のエネルギーが大きくなりすぎてバランスを壊すことが原因で起こるという。とにかく、吉兆ではない。だから、気味悪がって皆近付きたがらない。そんなところに近付きたがる劉備も変だが、後ろからずっと後を付いてくる連中も変だった。
「何か御用ですか?」
振り返って、劉備が聞いた。少年ながらも、その声は相手の疑義を問い
「お? ……お前に用はねぇよ。お前の師匠にはあるがな」
不意を突かれた三人組の一人が答えた。三人とも全身黒装束で、不敵な表情を浮かべ、不穏な空気を漂わせ、いかにも
「先生はあなたたちに用はないと思います」
それを感じた劉備がぴしゃりとやり返した。
「何だと、くそガキ!」
「生意気な口ききやがって。そこの穴に放りまれてぇのか?」
そんなやりとりで盧植たちが後方の異変に気付いた。弟弟子が不審な
「おい、てめぇ。何、かましてくれてんだ? 俺がてめぇを叩き落としてやろうか?」
公孫瓚が不穏な
「随分態度のわりぃ生徒を育ててるじゃねぇか、先生よ」
黒衣の男の一人が盧植の方に顔を向け、無礼な口をきく。
「下らぬ言いがかりじゃな。用件は何じゃ、物取りか?」
「さぁ、どうだかな?」
三人組がこれが答えだとばかり、一斉に腰の短刀を抜いた。
「皆、逃げよ!」
盧植が弟子たちに指示した。ところが、
「いえ、ここはこの公孫瓉にお任せください!」
その命に反して公孫瓉が勇壮に進み出た。その顔に余裕の笑みと喜色を
「無茶をするでないぞ、伯珪!」
「ご安心ください。何のための武か、日頃の鍛錬の成果をご覧に入れます」
評価
抜剣、気炎を吐いて、
「先生には指一本触れさせんぞ!」
ごろつきどもに……というより、後方の盧植に対して大いにアピールした。
「この馬鹿も先生の弟子かい? なら、一緒に死になっ!」
公孫瓉は飛びかかってきた男の動きを見切って、短刀の一撃をかわし、逆にその短刀を弾き飛ばしてみせた。大言壮語ではないその実力に盧植も思わず
「今度は首を飛ばすぞ」
公孫瓉が
「調子に乗るんじゃねぇ!」
それは逆効果で、残りの二人が鼻息を荒くして公孫瓉を襲った。公孫瓉は二人同時に相手にしても全く動じることなく、それぞれを斬り払って手傷を負わせた。背後で最初の男が落とした短刀を拾おうとしたが、劉備がそれより速く
意もしない形で仲間を失って、残りの二人が慌てる。劉備はその隙に短刀を拾い上げて、戦闘態勢をとった。
「……このガキ、やりやがったな!」
公孫瓚に斬りつけられて腕を押さえた男が劉備を鋭く睨みつけたが、もう一人の仲間も手負いになってしまったのを見て、
「チ……ズラかるぞ!」
黒衣の二人は目的を果たせず、すごすごと退散していった。公孫瓉が追いかけようとしたが、盧植が制止した。
「あれはただのごろつきではあるまい。……都へ急ぐぞ」
あれは自分の命を狙ってきた。濁流派の刺客だとしたら、盧植には心当たりがあった。
『こんなことになるとは、弟子たちを連れてきたのは間違いじゃったか……』
生徒たちの安全を憂慮し、眉をひそめて悔悟する盧植だったが、それを打ち消すのは公孫瓉のはつらつとした声だった。
「先生、早速私の武が役に立ちましたね」
「確かに見事な腕前じゃったな」
盧植が素直に殊勲の公孫瓚を褒めてやった。劉備を見やる。まだ十五の劉備は動揺した様子も見せず、奪った短刀を振って剣の達人を気取っている。
『一見凡庸かと思いきや、なかなか胆の太い奴じゃ。この二人を連れてきたのは不幸中の幸いじゃったかもしれん……。じゃが、徳然は間違いじゃったなぁ……』
劉備・公孫瓉とは対照的に、自分の後ろで腰を抜かして動けないでいる劉徳然を見て、思わず嘆息する盧植であった。
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