先輩と私

豚野朗

出会い

ターン……。

ボールが反対側の壁に当たった。


「やったぁ!先輩、優勝です!」

私はラケットを放り投げて、先輩に抱き着いた。柄にもなく興奮していた。

「そうだな。良くやった、つばさ」

先輩は私を抱きしめ返してきて、私の頭を撫でる。

「最後に決めたの、先輩ですよ」

「つばさがいなかったら、ボクはここに立てていなかったかもしれない」

審判の人に注意されてしまった。

先輩と二人で謝って、相手のダブルスの選手と握手をした。

先輩は帰り際に、「約束を覚えてるよね」と囁いてきたので、私は「はい」と頷いた。



私と先輩は女子テニス部の部員と部長だ。

軟式では無くて、硬式の黄色いテニスボールでやっている。


私は水無月つばさ。皐ケ丘高校の二年生。

先輩は御坂京子。皐ケ丘高校の三年生であり、先述した通り女子テニス部の部長である。


私達の出会いは、一年とちょっと前、私が気まぐれで行った女子テニス部の体験入部のときだった。

その時の私は小中と部活をせずに高校まで上がってきたので、運動神経はほとんど無いに等しかった。運動神経がなかったから、運動系の部活をしてこなかったとも言える。

それまで委員会に所属していたが、当たり前のように六年間ほど図書委員で、当番でなくても毎日図書館に行っては本を読んでいた。

いわゆる本の虫だった。そして友達は、本であった。

その後、高校に入学して、隣の席になった女の子が話しかけてきたのだ。

がちがちに緊張していた私は、その気さくな女の子に誘われるままその子がたった一日で作ったグループに入って、地味な立ち位置だけども毎日友達に囲まれるという幸運にあった。

それから私は金魚のフンのように、その子の後に引っ付きまわっていた。それこそ毎日、学校の間はずっと。今にして考えてみれば、少し迷惑な話だったのだろうと思うけど、その頃の私は友人関係と言うものがさっぱりであったので、仕方がないのかなとは思う。

そうやって、四月の前半を友達を作るという幸運にめぐり合い、友達と仲良く過ごし、四月の後半からは部活の体験入部が始まった。

最初に、その子と行ったのが、女子テニス部であった。

桜は散り終わり、葉桜になっていたころのことだった。暖かな日差しに、爽やかな強い風が吹いていたことを覚えている。

私はその子の後ろに隠れ、先輩方の練習風景を見ていた。練習試合をしていた。

そして私は一人の先輩の練習試合に見惚れてしまった。

その人が御坂先輩である。

御坂先輩の一挙一動の洗練された動きに、私はこの時生まれて初めて感動したのだ。

私は時を忘れた。私の視界の中には、御坂先輩の姿しか入ってこなかった。

御坂先輩は明らかに手を抜き、相手のレベルに合わせていたが、それは決して嫌味には見えなかった。

御坂先輩は相手が打った瞬間から走り出し、追いつくとラケットを振る。そんな当たり前の動作を御坂先輩がやると、御坂先輩の周囲だけ時間が遅くなったように感じるのだ。

「すごい……」と私は御坂先輩を見ながら言ったと、私を女子テニス部に連れてきた女の子は言っていたけど、全く覚えていない。

その日はそれ以外のことを、全く覚えていないのだ。

その時の部長さんが説明をして、練習をさせてもらっていたと言ってもいたが、それについても全く覚えていない。


それから私は一人で、毎日女子テニス部に体験入部し続けた。

私は行く度に、御坂先輩の練習風景に見惚れた。すべてが美しいと感じた。

これは恋愛感情では無かった。

名画を見るような深い畏敬の念である。

御坂先輩に会いに行き、御坂先輩を見るだけで、目を奪われ、心を奪われてしまう。


いつの間にか、私は女子テニス部に入っていた。何時入部届を描き、何時渡しに行ったのかも覚えていない。

気付いた時には、新入生歓迎会の席に座っていたのだ。

まるで突然たたき起こされたかのように、現実に引き戻された。

無理だと私はその時になって思った。これまでまともな運動もしていないのに、テニスなんてのは自殺行為だと。だけど私はそれをこの場で言えるほど、心臓は強くない。

新入生歓迎会は小さなファミレスで開催された。いくつかのボックス席を貸切り、そこで女子テニス部の全員が適当に分配されていた。

今年入部したのは、私を含め、六人だった。

当時の部長の音頭と共に、新入生歓迎会が始まり、がやがやとにぎやかになった。

部長は全ての席を順に回って、話しかけていたが、大抵はそのボックス席の中で話している。

三年生は三年生で集まり、二年生は二年生で集まって、時々一年生と交流していた。

私はあるボックス席に座っていて、自分から話しかけることなどできる訳などなく。ただ俯いて座っていた。ちょこちょこと目の前の皿を少しずつ開ける。

しかしすぐにこのボックス席の雰囲気がおかしいことに気付いた。

ボックス席の全員が、黙ってご飯を食べている。他のボックス席はにぎやかであるというのに。

すぐに私は理解した。

この席は扱いにくい人が押し込まれているのだと。

私はこの時、隣に座っている人が、誰なのかさえ気付いていなかった。

この雰囲気を打破するために、心構えもせずに隣の席の女性に声をかけようとした。もちろんたった一か月の社交性では、出来ることなど限られていた。

「あの……」と隣の席の人に声をかけた。

「なんだ……?」

私はその人の顔を見上げると、その人のことがすぐに分かった。

私の見惚れていた御坂先輩その人だったのである。

突然の邂逅だったので、私はひどく狼狽してしまった。

例えるなら、有名人と突然あってしまった一般人である。

「ひっ!あの……すいません……」

悲鳴を上げて、すぐに謝るという意味不明な行動をとっさにとってしまった。

その時である、向かい側のボックス席に座っていた三年生のグループが「みッちゃん、その子、前に話したみっちゃんに見惚れてた子だよ」と言ったのだ。

私の全身から汗が噴き出た。

「雲居先輩、みっちゃんはやめてほしいのですが……」

「良いじゃん。みっちゃん、可愛いでしょ」

三年生のグループがカラカラと笑った。

「体験入部で、みっちゃんのことばっかり見てたんだから。私達は、完全に無視」

知られてしまっていたという気恥ずかしさと、御坂先輩のじっくりと見る目で、私はすぐにでも逃げ出したいという衝動に駆られた。

三年生のグループは、私のその時の様子を事細かに説明している。

しかし通路側に先輩が座っているばっかりに、私はただその恥ずかしい言葉を逃げることも出来ずに浴び続けることとなった。

私の恥ずかしい体験入部の話を耐えて聞いていると、「名前は?」と御坂先輩が囁くように私に聞いてきた。

顔を上げて、御坂先輩の顔を見たら、キスをしてしまいそうなほど近くに御坂先輩の顔がある。

私はすっかりテンパってしまって、「わ、わわあわわあわ……私は……!」と何回も噛んでしまって、更に恥ずかしさが倍々に増えていく。そしてついに「ふにゅう……」とオーバーヒートしてしまった。頭の中が、真っ白になる。

私の恥ずかしい過去がまた更新されてしまった。


暖かなモノに頭を乗っけている。そして髪の毛を誰かが優しく撫でていた。

「ん……ん?」

私が目を開けると、何故か目の前に机の横の部分が見えた。

倒れちゃったのかと何となく思っていると、「起きたのかい?」と真上から声がした。

「ひぅ!」

私はまた変な悲鳴を上げてしまった。

その声が御坂先輩のものだったから。

徐々に視界が明瞭になっていくのと同時に、自分の置かれている状況を何となく理解することができるようになる。

御坂先輩にひざまくらをされている。

私は飛び起きて、謝ろうとしたのに、「みみみみみみみみゅ……」と噛みまくってしまった。頭の中の言葉が、声にできない。

御坂先輩は小首をかしげ、「熱でもあるのか?」と私の額に先輩の大きな手が当てられた。

先輩の冷たい手が額に当たると、私の頭の中は感じる冷たさとは反対に、沸騰してしまう。

「ふにゅ……」

私はまた倒れかけてしまい、先輩が受け止めてくれなかったら、床に転がり落ちてしまっただろう。

御坂先輩の豊満な胸に、私は図らずも顔を突っ込んでしまった。

「大丈夫か?」と先輩が私の耳元で言ってきているのだが、私はそれを聞くことのできないほど最高にテンパっていた。

頭の中は高速で動いているのに、今の状況から退避する方法が一切浮かんでいなかった。

先輩の冷たい手が、私の首筋に当てられた。

「ひゃう!」

あまりの冷たさに、私は飛び上がってしまった。

「ずいぶんと熱いな……。宮城先生、この子、熱があるようなので、帰らせた方が良いと思います」と至極真面目な口調で御坂先輩は顧問である宮城先生に進言した。

私は頭の中で、恥ずかしさのあまり絶叫した。穴があったら、潜りたい。

顧問を含め、その場に居合わせた全員がドッと笑った。

穴があったら入りたいということはこういうことを言うんだなと私は、その笑い声を聞きながら思った。

「え……え?」と御坂先輩は未だに何故全員が笑っているのか気付いていない様子だ。

私にとって、これだけが救いだった。

すると顧問の宮城先生、妻子持ちの中年の細身の男性、はポンと手を叩いて、「そうだ。君が御坂さんのダブルスのパートナーになれば良い」と言った。

すぐに「それ、おもしろいかも」「いいね、いいね」と賛同する声が多数上がった。

宮城先生は満場一致の賛同を聞き、「賛成多数ってことで、御坂さんのパートナーはその子ってことで。御坂さんも、それで良いかい?」と言った。

御坂先輩は「異論はありません」とキョトンとした顔で答えた。おそらく、どうしてこの話になったのか、分かっていない。

それを聞いて、満足そうに頷き、「では、みなさん、コップを持ってください」と言って立ち上がった。

コホンと小さく咳をして、「では、御坂さんと……名前は何でしたっけ、あぁ、そう水無月さんのダブルス結成を証して、乾杯!」とコップを高く上げた。

「乾杯!」と言う声と共に、あちこちでコップがぶつかり合う音がする。

私はそれらのやり取りをポカンとしながら、どこか遠い世界の出来事のように聞いていた。

隣にいる御坂先輩ははにかみながら、「どういえばいいのか、分からないが、これからよろしく頼むよ」と私に手を差し出してきた。

私はその手を取って、「はい……」と心のない返事をした。

これが私と御坂先輩とのダブルス結成の流れである。


後で聞いた話だが、御坂先輩は部活の中で飛びぬけて巧い。だから御坂先輩と組みたいという人は、全く現れなかった。

仮に組んだとしても、御坂先輩がすごすぎて、ダブルスなのに、御坂先輩のワンサイドゲームになってしまうようだ。それでなんらかの理由を付けられて、御坂先輩から逃げていく人がいたという。

自分も活躍してみたいというものは、どんな人にもあるものだから、しょうがないことだった。

しかし御坂先輩はこのことに全く堪えていなかった。

図太いと言うか、鈍いっていうか……。



土曜日から私たちの初部活が始まった。

結果は、分かり切ってはいたけど、散々だった。

学校指定の運動靴を持って行って、学校指定の運動着で部活をしたが、まるで付いていくことができなかった。

アップと呼ばれる準備運動では、千メートルだけ女子テニス部員全員で走ったが、最初の四百メートル付近で体力を使い切ってしまった。

一周回どころか二周回も離され、私は二倍の時間をかけてやっと走り切った。肩で息をしながら、汗がだらだら出て、すごく気分が悪かった。

御坂先輩が走り終えた私にスポーツ飲料と、タオルを渡してくれた。絵家撮ったその場で、それをガブガブと飲む。

御坂先輩の助けを借りながら、グラウンドの端にある二人掛けのベンチに座らされた。すると宮城先生が近づいてきたのが見えた。

「水無月さんだっけ、運動は今までにしたことある?」

私は首を横に振った。口の中がカラカラで、喉の奥で息がヒューヒューと鳴っていた。

「そっかぁ……。もうちょっと詳しく聞いておけばよかったね。御坂さんは、みんなとやっていて良いよ」

「彼女が私のパートナーですから」と御坂先輩は答えた。

この部活では、部員全員が、一人のパートナーを持つことになっていた。しかし例外もいる。

「そうか。なら、彼女が落ち着くまで、見ていてくれる?僕はその間に、あっちを部長に任せてくるから」

宮城先生は、私達をぬかしてアップをやっている他の部員たちの所に行ってしまった。

私は身体が重くて、すぐにでも倒れてしまいそうであった。

御坂先輩は何も言わずに私の隣に座って、私を引き寄せた。

「うっつかると良い。横になるのは、良くない」

お言葉に甘えて、私は御坂先輩にうっつかると、さっきの体勢よりは遥かに楽だった。

「君は……」と先輩が何かを言いかけた。

「はい?」と聞き返すと、「君は、どうしてここに入ったんだ?」と御坂先輩がズバリ聞いてきた。

申し訳なくなって、「邪魔ですよね、ごめんなさい」と即座に謝ってしまう。

呼吸が普段通りに戻ってきた。

「いや、そうではなくてだな……。きついんじゃないか?運動をほとんどしてないんだろう」

「そうですけど……いつの間にか、入っていました」

「なんだ、それは?」

「いえ、御坂先輩に見惚れてたら、いつの間にか、昨日になってて……」

「面白いことを言うな」

「本当なんです……」

その時、「ごめんごめん、待った?」と宮城先生が戻ってきた。

私の顔を覗き込んできて、「大分、良くなったみたいだね。体調はどう?」

「少し頭が重いです」

「そうか。君にはまず、運動ができる体になってもらわないとね」

「はい……」

「それともやめるかい?多分、部の最短記録を樹立できると思うよ」

「あははは……」

私は空笑いをして、御坂先輩の顔を覗いた。御坂先輩はいつも通りで、何の感情も読み取ることは出来なかった。

邪魔になるだけかもしれないけど。

「もう少し、頑張ってみたいです」

「そうか、そうか、それは良かった。御坂さんもサポートしてくれるね」

御坂先輩は「はい」と即答した。

「じゃあ、今日はグラウンドをずっとウォーキングしてもらおうかな。御坂さんは隣で歩いて、話しかけたり飲み物を定期的に渡したりしてほしい。できるだけ長い間、続けてほしい。もちろん休憩は小まめにとってね」

「分かりました」と御坂先輩が返事をした。

「あ……あの……悪いです。御坂先輩は……他の練習を……」と小声で訴えたが、御坂先輩は代わりの飲み物を取りに行ってしまった後だった。

「君は、そんな後ろ暗いことは言わない方が良い。それに御坂さんは全く迷惑だと思っていないよ」

「えっ?」

「あの子があんなに楽しそうなのは、試合以外で見たことがないね」

私は反応に困ってしまった。


それから私と御坂先輩は、準備運動にすら満たない運動を二か月ほどやり続けた。

周りは練習後、試合をやっているのに、私は御坂先輩にサポートされながら、ウォーキングや柔軟体操を続け、やっとこさ、六月の中盤頃にアップで走ってもほとんど息が乱れないようにはなった。

私はそれまで土日を返上して、必死になってその運動を続けた。

そして授業中に、生涯で初めて、爆睡して怒られてしまった。

御坂先輩とは、ゆっくりゆっくりとかたつむりが這うスピードで距離を縮めて行った。

未だに家族構成とか、私のことをどう思っているのかは、聞き出せていないけど、ポツリポツリと簡単なことだけ話し合う関係にまで発展した。


六月の終わりに、ラケットを初めて部活で振った時は、私の喜びは一入だった。

そんな私を見て、御坂先輩が楽しそうに笑ったことを、私は今も心の中に映像としてはっきりと残っている。


私にとって、この女子テニス部は合っていたのかもしれない。

走ったり、ラケットを振ったりする単純な反復動作は、とても楽しかった。

時間がない時でも、勉強は後回しにして、練習を優先した。

これは私のこれまでの人生が、逆転したことに等しかった。

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