二_028 損得非勘定



 何か当てがあるわけではない。逃げ出しただけだ。

 居辛かったから逃げて、後のことはそれから考えようと。


「バカだな、僕は」


 怒られて当然だ。怒らせて当然だ。

 どこをどういう風に走ったのかもわからないが、見知らぬ場所に出てそのまま何となく歩き続ける。

 立ち止まると振り返ってしまいたくなりそうで。


「お金、か」


 そういえば無一文だ。飛び出してしまったものの、自分で宿に泊まることさえ出来ない。

 野宿と変わらないとすれば大した問題でもないが、食料もリュックサックに何か入っているだけ。


「お金、だよな」


 必要なものはお金だ。

 寝泊りするにも食事をするにも、船に乗るにもお金が必要だ。

 わかりきったことだが、今までの人生でお金を必要としたことがなかったから。



 ──いいか、ヤマト。家族以外に大事なものが三つある。お米と、お金と、楽しむ心だ。


 父の言葉を思い出す。曾祖父からの教えだったとか。

 食べ物と、お金と、人生を楽しむことを失くしたらいけないと。


 そういえば父はいつも楽しそうだった。そんな父と一緒にいた母も楽しそうだった。

 黒鬼虎との戦いで腕を折られてしばらく痛そうにしていた時も、名誉の負傷だと言っていた。

 その黒鬼虎の肉を食べて、まずいなーとか笑って……



「父さん、母さん。ごめんなさい」


 失敗したことではない。

 その失敗した自分に耐え切れなくて、妹を置き去りにしてきてしまった。

 多分これは怒られて仕方ないこと。怒らせてしまうことだろう。

 いや、悲しませてしまうだろうか。


「何やってんだか、僕は」


 今更、どんな顔をして戻ればいいのか。

 それでも戻るのが正しい判断だとはわかる。いつの間にか歩みは止まっていた。


「……」


 合わせる顔がないという気持ちはこういうものだろう。何とかするなんて吐き捨ててきたという体裁の悪さもある。

 だが、今日は散々間違えた。

 もっとひどい間違いをしてしまったのだ。これ以上、間違いを重ねる方が愚かしい。

 アスカに罵声を浴びせられても、仕方ないことなのだと受け入れる気持ちで。



「……ここ、どこだろう?」


 改めて夕焼けに照らされた町並みを見渡す。

 見覚えのない通りだ。どれだけ走ったのか、何度曲がったのかも覚えていない。

 いや、どこも似たような建物で、見覚えがあるのかどうかさえわからない。


「どうしよう」


 自分のバカさ加減に下限がない。際限がない愚かしさだ。

 町行く人々は、立ち尽くすヤマトをちらりと見て、家路へと早足に歩いていく。


 家路。

 そういえば、こんな風に一人きりになったのは初めてだった。

 幼い頃に森で迷子になったのだと祖母が言っていたが、そんなことは記憶にない。


「……」


 不安な気持ちを押し隠して、ぎゅっと石槍を握り締める。使い慣れた確かな感触だけが頼りだ。

 泣きそうになる動揺を堪えて、恐る恐る来た道を振り返る。


「……」



 ――これからどうする?


 そう問いかけるように小首をかしげるグレイの姿があった。

 だから思わず、ヤマトの目から涙が溢れてしまったのは仕方のないことだろう。



  ◆   ◇   ◆



 どういう経緯を辿ったのかは覚えていない。

 気がつくと宿の部屋に戻っていて、ベッドにつっぷしているアスカをクックラがやや離れて見守っている状況だった。



「少しは落ち着いたか?」


 フィフジャの声が後ろから聞こえる。


「……うん」


 つっぷしたまま振り向かずに答えた。

 固いベッドの布から古臭い匂いがする。


「あのままアスカまで迷子になられたら困ったからな」


 ヤマトが走り去ってからしばらくは、興奮した頭が何も考えさせてくれなかった。

 しばらく経ってからふと、このままヤマトがいなくなってしまうと不安がよぎって。

 探しに行くと急に走り出そうとしたアスカをフィフジャが拘束した。かなり抵抗したようにも思うが、結局振りほどけなかった。


「グレイが追いかけてくれたから、多分ヤマトは大丈夫だ」

「……うん」

「酔っていたんだ。二人とも、な」


 そう言われて、改めて先刻のやりとりを思い返す。

 確かに、冷静さを失っていた。

 それはヤマトも同じだ。こんな状況で後先考えずに飛び出してしまうなんて。


(私を、置いて行っちゃうなんて……)


 普段なら有り得ないことだ。特別に仲の良い兄妹だという自負があるわけではないが、ヤマトはあれでアスカの保護者のつもりなのだから。

 父母に代わって、アスカを庇護しなければと思っている節がある。

 言い過ぎたと思った。口から出た言葉は本心で、取り消すことは出来ないけれど。



「お酒のせい?」

「あの男の常套手段だったんだろう。酒を振舞って判断力を低下させる、ってな。部屋が妙に暑かったのも飲ませるのに都合がいいってことかもしれない」


 そういう算段もあっての酒の振る舞い。

 安酒ではないというのも、相手に飲みたいと思わせるため。

 酒に強い弱いは程度があるだろうが、アルコールが入れば大抵の人は饒舌になる。商売には情報が大事だという趣旨のことも言っていた。


 より有利な取引をする為の経費を使う。結果として後で回収できればよし、と。

 無駄な経費になるかもしれないが、それも踏まえての商売人か。


「ウュセ・キキーエ」

「思ったより狡猾な男だな。商売人としてやり手だと聞いていたはずだったが、油断していた。すまない」


 相手は商売を生業としている男で、この町でも有数の実力者なのに。

 なのにアスカは相手を見下していた気持ちがあった。所詮は文明レベルの低い世界での話だと。

 少なくとも商取引において、ウュセという男はアスカなどより遥かに多くの場数を踏み、多くの利益を上げてきたというのに。

 それに対してヤマトやアスカは未熟な十代前半の子供で、世の中のことをほとんど知らない。


「フィフのせいじゃない」

「いや、俺の油断だ」


 全員の気が緩んでいた。

 魔獣や妖魔を相手にするわけではない、命の危険はないと思って。

 失敗した。


 ウュセにとって今の時点では何の利益にもなってはいないが、少なくともこちらの思惑は外された。

 言い値で黒鬼虎の毛皮を売るか、他の手段を取るか。

 相手側の考えとしては、悪くとも他の商売敵が利を得なければよしというところなのかもしれない。


 諦めて安く手放すか、今年は渡航を見合わせてエズモズとやらに行くか。

 ウュセにすればどちらでもいいのだろうが、アスカ達にとってそれは障害だ。



「もう大丈夫。落ち着いた」


 ぐっと体に力を入れなおして立ち上がる。

 泣いてなどいられない。


「そうか」

「このまま負けてられないもの」

「いやまあ、ああ……元気になるならいいが」


 振り返り、フィフジャの顔を見上げる。

 赤く三本線が頬に刻まれた彼の顔を。



 頬にぴいっと入った三本の線。


「……って、フィフってば何その顔おっかしいぃひぃぃネコみたいぃ」

「お前のせいだお前の!」


 けたけた笑うアスカに怒るフィフジャだったが、安心した様子でもあった。

 アスカを拘束した際に暴れられて頬を引っかかれていた傷跡。


「ん、おかしい」

「クックラまで……ああそうだろうよ。っとに」


 アスカが笑うことでクックラも気持ちが楽になったようで、フィフジャの顔を指差して頷いていた。


「もういい。俺は何か食い物を買ってくる。ヤマトが戻ってくるかもしれないから」

「わかってる。考え無しにどこかに行ったりしない」

「そうしてくれ」


 宿の代金は昨日と同じだけ払った。同じ部屋に泊まっておきたかったので。

 ヤマトがここに辿り着いた時に、違う部屋だとわからないかもしれないから。人数が減ったのに宿泊費が同じなのは損をしているようにも思うけれど。

 どれだけ損をしても、他にいない兄には代えられない。そんな風に考える自分はきっと良い妹だろう。



  ◆   ◇   ◆

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