伊田家 第十九話 湖畔にて
寛太はそのまま座り込んで、しばらく動けなかった。
湖のほとり。青い空を映す美しい湖面を眺めることもなく、喉に槍を突き刺したまま息絶えた大石猿と向かい合って。
初めて殺した哺乳動物だ。
殺しあったと言っていいだろう。ルールも制限もなく、生存を賭けて争った相手。
食べるためでもない。殺されたくないから殺した。石猿の方からしたら食べるためだったのかもしれないが。
しばらくそうして、ふと槍が錆びるかもと思って抜いてみる。鋭すぎるような気がする白い石槍は、するっと軽い感触であっさり抜けた。
最初に肩を突いた時と違い、手に伝わる肉の感触に大きく心情を揺らすことはなかった。
森を走り回って余計な体力も余分な思考力もなくなり、ただ生きるために必要なことをした。いつになく静かな心境だ。
寛太の心と、森の静けさが重なる。
「錆びることはないか」
謎の材質だが金属のような感じではない。石に近い感じだから石槍と呼んでいるのだ。
とりあえず、べっとりとついた血を流しておこうと湖の方に歩き出す。
「っと、草むらに穴とかあるかもしれないよな」
誰もいないのであえて独り言を言いながら、草むらを槍で軽く叩きながら進む。
不安だと、人は独り言が多くなるらしい。
特に足場が悪いこともなく湖のほとりまで行くことができた。なだらかに湖側に下がっていく。
湖周辺が足の短い雑草ばかりなのは、時期により水位が変わるからなのだろう。冠水するところには木々が生えていないようだった。
水辺で槍についた血を洗い流す。
「ピラニア、とか……いない、よね? サメとか」
血の匂いで新しい猛獣が現れたらゲームオーバーだと、寛太は周囲を伺う。
この場合、水中専用の生き物よりもワニのような水陸両用の動物の方が脅威だったろうが。
恐る恐る槍の穂先を水に沈めて、軽くばしゃばしゃとゆすいでみる。
「……」
水中から何かが飛び掛かってくる様子はなかった。槍についていた石猿の血が水の中に散っていく。
澄んだ水だ。湧き水が集まって出来ている湖なのだろう。数メートル先までは湖底まで見えている。
「洗う前に飲んでおけばよかったか」
綺麗な水だと思ったら、走り続けて疲れた寛太の体が水を欲していることに気づいた。
さすがに石猿の血を流したところの水を飲む気にはならない。
森に囲まれた湖。それほど大きくはない。学校の校庭の数倍という程度で、周囲は森と山に囲まれている。
寛太が立っているのは湖の南端側。その左手側の山脈側から流れ込む小川があるのが見えた。
とりあえず周囲を警戒しながらそちらに移動して、小川のほとりで水を掬ってみた。やはり澄んだ清流だ。
「寄生虫とか、いないか?」
よくよく手の平に掬った水を見てみる。
ボウフラのような、極小のミミズのような生き物がいたりしないだろうかと。
(見るんじゃあなくて観るんだぜ。寛太くん)
目を皿のようにして、好きだった漫画のセリフを思い浮かべながら湧き水を観察するが、不純物は見つからない。
生水を飲むなど避けるべきことだが、このままだと家に戻る前に体力が尽きてしまいそうだった。
「うん、まあ、大丈夫。昨日もここの井戸水飲んでるはずだし」
火を通しているかいないか違いは大きいはずだが、寛太はもう気にしないことにした。昨日、生水を飲んだ子猫たちも苦しんだりしてはいなかったし。
飲んでみる。
「……んー、これはうまいな。まさしく天然水だ」
口にしてからそのままの意味だったと思い返して、もう一度掬って飲む。
喉を通り寛太の体を潤す。染み入る。
とりあえず、ただちに体調を悪化させる影響は感じられない。
山側から岩の間を通って流れてくる湧き水。小川の方には魚などの生き物の姿は見えない。
もう一度、湖の周辺を見渡す。
湖周辺は木々が少なく、足の短い緑色の草と、白や黄色の小さな花が咲いている。白詰草やタンポポのような、だが少し違った草花の様子だ。
先ほどは気づかなかったが、湖を挟んだ岸で、少し大きめの四足動物が地面に顔を向けている。
「鹿っぽいけど、ここからじゃよくわからないな」
足元の草を食べているのだろうということはわかる。茶色と灰色の間のような体毛の、鹿なのか、山羊かもしれない。
そのような生き物が数頭視認できた。いくらか大きさに違いはあるようなので、雄や雌、子供などの群れなのだと思われた。
「……」
ふと、先ほど水を飲むときに足元に転がした白い石槍を、やや強く握り締めている自分に気づいた。
狩猟。
今までそんなことしたこともないはずなのに、自然とそういう意識になっている。
石猿を殺したことでなのか、寛太の中で何かこれまでの日常と心の置き方が変わっているのを感じた。
風が吹く。
草木が揺れ、湖に波紋が広がる。
「……」
風のせいなのか、その草食動物の一頭が顔を上げ、その茶色の瞳で寛太のいる岸の方を見た。
(気づかれた……この距離で?)
殺気のようなものが野生動物にはわかるのだろうか。
少なくとも寛太は今、物音を立てたつもりはない。
「――っ」
と、寛太の視線も、自分の後ろ側──その動物が見つめる先に向いた。
「寛太ー! どこだー」
森の方から声が聞こえてきた。鹿もどきはこの声を聞き取っていたのだろうと腑に落ちる。
(ああ、助かった……)
「おーい、こっちだぁー!」
『ウォンウォンッ』
鹿もどきのことを意識の外に置いて大きく答えると、その声を聞きつけた鳴き声が聞こえた。
木々の間から、灰色の大きな体が飛び出してくる。
きょろきょろと首を回して、小川の方で手を振る寛太を見つけると、
『オンッ!』
遅れて健一も姿を現すと、そこで一度足を止めた。森から出た湖との間には、先ほど仕留めた石猿の死体がある。
それに目を向けてから、さくらが走り寄っていく先に寛太を見つけると、やや気の抜けたような笑顔になった。
「無事だったか」
合流して、元気そうな寛太の様子に安堵の声を漏らす健一。
「もう少し走らされたら死んでたかな」
「なんだ、猿のほうじゃないのか」
意外と猿は楽勝だったのだと寛太は笑う。
「そっちの猿はどうなった?」
「爺さんと俺とで仕留めた。日呼壱が先に足を叩き切って、それで」
残っていた猿も片付いたので、それで寛太を追ってきたのだと。
「それにしても、よく見つけてくれたね」
「あの石猿の血がところどころ残っていたからな。さくらがそれを辿ってくれた」
よしよしと寛太が感謝の気持ちを篭めてさくらの耳の後ろを撫でる。
二人と一匹は、並んで小川のほとりから湖を眺めた。
「こんな場所があったんだな」
「さっきまで、あっちの岸に鹿みたいな、山羊みたいな動物がいたんだけどさ。今はもう逃げちゃったかな」
先ほどの生き物の姿はもうない。ここが水場だったり餌場だったりするのなら、また見ることもあるだろうと考える。
「ほう」
湖畔は静けさを取り戻していた。湖でぱしゃりと魚が跳ねる。
「魚か」
湧き水が流れる小川の方は水深が二〇センチもないので、魚の姿はなかった。
この湧き水が源流になるのだろう。この山のあちこちから湧いて、この湖に集まり、またどこかへ流れていくのか。
「広いところでもざっと千メートルないくらいか」
「そんな感じだね」
池や泉と言うには大きすぎるが、湖というには小さめな印象だった。
「魚があると食事には助かる」
哺乳動物を狩猟したり、昆虫の何かを食用にしたりするよりも、魚を釣って食べる方が日本人の食習慣的には抵抗が少ない。
可能なら釣りをしてみるべきだろうと二人で頷く。
「あの猿の死体、どうする?」
あのまま放置していいものかどうか。
運搬するには重過ぎるが、あれを食べに別の肉食動物が来る可能性を考えると、少し悩む。
「湖に沈めてしまうか」
「ワニとかいないかなぁ」
「陸の上で狩りをするような肉食獣でなければマシだろう」
だが今後釣った魚が、この猿を餌にしたと思い返すことになるのには少し気分が悪い。
「とりあえずは、今日はこのままにして帰るか」
「そうしようか。で、帰り道にどんな目印してきたの?」
「……」
ぱちくり、と。
四十代のおっさんにそんなし仕草をしてみせてもらっても、寛太的には何も嬉しくない。遠慮なく言わせてもらえば気持ち悪い。
助けに来てもらった恩があるので、口にはしないが。
「……いやいやいや、ちょっと健ちゃんマジなの?」
「あ、うぅ、ん……そう、だな」
健一は視線を泳がせて、ぽんとさくらの頭に手を置く。
「大丈夫、かな?」
『クゥ?』
「頼りすぎだろ」
狼の雄姿は頼もしいとしても、人としてそこまで依存してはいけないのではないだろうかと。
結論から言えば、さくらは二人の想像以上に頼りになった。
わざわざ、猿の血痕のあるところで鼻先でそれを指し示し、道が合っていることを伝えてくれるほど。
とりあえず寛太は帰りの道程で、木の幹の目立つ場所に槍で傷をつけたりして目印にしておいた。後で矢印なども刻むのも悪くないかと。
そう考えてしまう自分に気づいて、ここに順応して日本に帰ることを諦めているのではないかと不安にも感じた。
◆ ◇ ◆
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