森の奥から……

大洲やっとこ

序章 森の奥へ

第一話 森の奥へ_1



 ――大切なあなたが、見知らぬ世界でもどうか幸せでありますように。



  ◆   ◇   ◆



 フィフジャ・テイトーは走っていた。


 とはいえ、体力が尽きかけた彼の足は鉛を引きずるように重く、走っているつもりでも早足にも満たない速さでしか進んでいない。

 体力の問題だけでもない。整備されていない森の中を進むのは平常でも速度は落ちる。


 そもそも進んでいるのか、どうなのか。

 見知らぬ森なのに見たような景色が続く。

 いったいどれほどの時間そうしているのか。少なくとも数日ではないことは認識している。


 ズァムナ大森林に入った時には、他に熟練の探険家が九名いた。彼らと共に大森林の領域に入ってから十日ほどは、不便ながらも地図作成を中心とした探索をしていた。


 その探検家たちがどうなったのか、フィフジャにはわからない。

 何人かの末路は知っている。そう、人生の末路。


 どういった生き物なのか観察する余裕もなかったが、何かに襲われた。

 十一日目に、そういった混乱で二人が命を落とした。森の住民の腹に収まったのだろう。



 進むべきか、戻るべきか。探険家は危険手当込みで雇われているとはいえ、自分の命より高い価値とは言えない。

 成功報酬で残りの人生を遊んで暮らせる程度の金銭だ。生きて帰ってこそ意味がある。


 そんな報酬とは別の欲求。


 およそ人が未だ足を踏み入れたことのない大森林を探索する栄誉。

 探検家などという人生を選んだ人間にとって、それは命と秤にかけてもいい程度の重さではあった。


 誰もがそれなりに自信のある専門家だ。

 死んだ奴は間抜け。生き抜く技能のある自分は生きている。

 結局、襲ってきた生き物を警戒するという方向で、進むことを決めた。


 その結果が、この惨めな敗走だ。




「なにが『人生を変えるチャンス』だよ、エンニィの奴め。くそっ」


 毒づいて、自分の声の響きに思わず周囲を見回す。

 その声を聞いたナニカが、襲い掛かってくるのではないかと。



 縄張り意識が強く、数匹の群れを作って生活する石猿いしざる

 岩をも切り裂く爪牙を持ち、音を立てずに忍び寄る銀狼ぎんろう

 木々の間を飛び回り、獲物の顔に撒きついて窒息させる皮穿血かわうがち

 死肉を漁るだけでなく、弱った大型の動物でも食らう廻躯鳥かいくどり



 あるいは森に入る前に近くの集落で聞かされた、このズァムナ大森林を荒らすものを皆殺しにするという妖魔【朱紋しゅもん】か。

 妖魔というのなら、神出鬼没で世界中の人々の脅威になっている【青小人】とて、今ここに現れないという保障はない。




「……」


 周囲は鬱蒼と茂った植物ばかりしか見えない。日の光も遮られ、太陽がどちら側にあるのかさえ定かではない。

 風とともに、枝と葉が擦れる音だけが聞こえてくる。


 何もいない。いないように見える。いないと信じたい。

 ちょうどフィフジャの額から少し上に、まだ熟れていない小粒の青い木の実がなっていた。



「……」


 おそるおそる手を伸ばして、その実をもぎ取る。少しつぶれて青い果汁が手についた。

 名前は知らないが、食用としてこんなものが露店で売られていた覚えがあった。


「……手ごろな場所の食べ物。近くに獣がいたら先に食べてる……よな」


 フィフジャは、わざと楽観的な想定を口にしてみた。言葉にしたらそういう理屈が現実になるかと期待しての発言。独り言。

 それでなくとも数十日以上逃げ回った体は食べ物を欲している。最初に持ち込んだ食料など逃げ回った際になくしていた。



「なんだ、まあ、俺やっぱり幸運なのか。普通生き延びられないだろ」


 いつ命を失ってもおかしくない状況で、こうして数十日を生き延びている。

 不運ではないだろう。



 フィフジャは探検家ではない。

 探検家を雇った側の監督代理として仕事を受け、同行しただけの人間だ。

 本人の感覚で言えば、厄介なことを押し付けられたという所だが。


 選ばれたのは、彼が若く優秀な人材で、危険に対応する能力ならベテランの探険家にも勝るものがあったからという理由もある。

 雇い主側の都合が良かったということもあるだろう。

 それとは別に、彼は自分の人生を切り開くという目的もあった。命運が尽きそうな状況になっているわけだが。



「うえ、すっぺぇ」


 口にした木の実の渋さに顔をしかめる。

 とはいえ、他に食べられそうなものも見当たらない。

 動物を狩って食う手段もないではないが、現時点でのフィフジャの体力では逆に相手の食事になってしまいかねない。


 とりあえず名の知れぬその実を乱暴にもいで、口につっこむ。

 口の中で溢れた果汁が、忘れかけていたのどの渇きを潤す。フィフジャは水もまともに飲んでいないことを思い出した。



「う、うあ……あぁ」


 思い出したついでのように彼の全身を耐え難い疲労がまとわりつき、そのまま腰を落としてしまう。

 ナニカの気配に、こうして逃げては力尽きて休息して、また逃げてと繰り返してきた。


「結局どれくらい逃げ回ってるんだ……ああ、こないだも三旬(一旬で十日)は過ぎてるって考えてたんだったか」



 森に入ったのは初春、まだ少し肌寒い頃だった。今は日中にはやや温くなった空気を感じる。森の外は初夏に近いのではないか。

 迷っている間、森に潜む見えぬ恐怖に抗い、逃げ回ってきた。


 一番ひどかったのは、排泄してる最中に近くの茂みから物音がして、糞尿をそのままにあわてて逃げ出したときだ。

 着替えもないのだから、その時の湿った感触は、今では尻にこびりついている。


 座り込むと、なんとなくがわかる。

 気にしている場合でもないが、まったく気にしなくなったら人としての尊厳を失うような不安もあるし、逆に開放感もあるかもしれない。



 前向きに考えれば、夜露や果実やらでなんとか食いつなげるのは、ここが大森林という好条件だからと言えた。


「いや、そもそも大森林じゃなかったらこんな遭難してないだろ」


 海を漂流するよりは、生存確率が高いという程度だ。



「来た道を戻ってるつもりだったんだけど、なぁ」


 誰にともなく同意を求める。お喋りな性格ではなかったはずだが、こんな状況で独り言が増えているのがおかしいものだ。

 逆方向だったみたいだな、と。



 混乱していろいろと見失っていた最中に、鬱蒼と茂った森の中で正しい方角を進むことなどできなかった。

 前を逃げていく探険家が、大弓の直撃でも食らったかのように頭を吹き飛ばされたのを見て、進む方向を変えた。


 後ろからついてくる足音が、恐ろしい魔獣だったのか、連れの誰かだったのか。

 確認することも出来ず、その気配が消えてからも当分は走り続けた。



 ふと気がつくと大木のせりだした根の横で目が覚めた。転んで意識を失ったのか、逆の順番で意識を失って転んだのかわからない。

 荷物はほとんど失っていたし、服も泥まみれ。他の探険家の姿はもちろんどこにもなかった。


 それから何十日もさまよっていることになる。正確な日数はわからない。初春だった季節が暖かくなってきているのだから五十日程度だろうか。




「あー、どっちに行ったら出られるんだよ……頼むよ、ほんと……」


 そのぼやきに応えるものは、木々の葉が擦れる音と、虫の声ばかり。



「神様とかさ……本当にいるなら、助けてくれよ」


 答えのない呟きにうなだれながら、フィフジャの意識は深い闇につつまれていった。

 


  ◆   ◇   ◆

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