第12話 夢のような夢 2


 突然、俺は息苦しさと寒気で目を覚ました。

驚いて飛び起きると、部屋の中いっぱいに桜の花びらが舞っている。


 いや、そんな風流なものではない。

猛吹雪のように花びらが部屋中を埋め尽くし、顔や体にパチパチと音を立てて張り付いてくる。


 呼吸の仕方を間違うと、気管に入って窒息しそうなほどだ。

 

 視界には、桜色しかない。

かろうじて、部屋の中に立ち込める濃霧のようなピンク色が、大量の桜の花びらだということだけは分かる。

 月明かりが、部屋をうっすらと照らしているおかげだろう。

 そうでなければ、完全な暗闇と化している。


 それでも、家具も襖も、布団すら見えない。

片手で握りしめている触り慣れた布が、おそらく布団なのだろう。

もう片方の手では、口と鼻を覆って誤嚥するのを防いだ。


(寒い、寒い……こんなの、おかしいだろ。いくら冬でも、こんなことは有り得ない。桜だって、冬に咲くわけがないっ)


 何とか状況を把握しようとするが、訳がわからないことばかりだ。


 そこで、ハッとした。


 動転している場合じゃない。春香を守らなければ。春香が死んでしまう!

 妻はとっくに亡くなっているというのに、なぜか迷いもなく、そう思ったのだ。


 妻を守りたい一心で、名前を呼んだ。


「春香……春香っ!」


 手のひらで口を覆っているせいで、くぐもった声しか出ない。

そのうえ、ゴウゴウと鳴り響く風にかき消されてしまう。


 声が届かないのならば、と必死で手を伸ばすけれど、隣に居たはずの春香の体どころか布団すらない。

爪がカリカリと畳に引っかかるだけだ。


 体は凍えそうなのに、手のひらはじっとりと冷たい汗で濡れていく。

床に触れた事で、手のひらにも桜の花びらが、べたりと張り付いた。


 焦りと寒さと酸欠で、朦朧としてきた。


「は、るか……」

 

 眠るように意識を手放しそうになった時、春香の声が聞こえてきた。




「こっちよ。秀志さん」


 妻から名前を呼ばれたとたんに、一際強く吹いた風が、花びらを全て天へと攫っていく。


 床に倒れ込みながら見た風景に天井はなく、果てなどないような、紺碧の夜空が広がっている。

桜の花びらは、高く高く昇っていった。


 

 

 次の瞬間、俺は庭を眺めるように縁側に座っていた。

 先ほどまでの凍えるような寒さが嘘のように、ぽかぽかと春の陽気に全身が包まれている。


 着ている服は、普段着のポロシャツにジーンズ。

冬の装いではない。


 まるで、映画や小説の中の場面転換みたいだ、と呆然とする。


 そして、さらに驚いたことに、妻が自分の足の間に座って、同じく庭を眺めていた。


 にこにこと笑う彼女は、眠る前よりも数年分、大人びた顔をしていた。

 俺は春香の腰に腕を回して、後ろから抱きしめている。

 誰かに操られているかのように、気づいた時にはその体勢になっていた。


 ふと、自分の体が、なんだか軽いことに気付く。

不思議に思って、自分の体のあちこちを片手で触ってみた。


 腰が痛くない。

それに、腕の筋肉が衰えていない。

皮膚の感触も違う。

視界も明るいような気がする。


(あぁ、やっぱりそうだ)


 春香の外見の年齢が変わるように、自分の姿も若返っているのだ。


 そして、この景色、この体勢、自分と春香の服装には覚えがある。


 春香はとろみのある素材の白いブラウスに、萌黄色の膝下までのスカートを履いていた。


 20代の新婚時代に、縁側で花見をしていた時の光景だ。

娘は、まだ生まれていなかった。


 これは、夢なのだろうか。


 遠い昔のようで、ついこの間の出来事のように覚えている空気が、目の前を流れている。


 まるで、ホームビデオを観ているようだ。


 春香と再会したことで、こんな夢を見ているのだろうか?

 

 もし、夢であるならば、先ほどの桜吹雪も納得がいく。

夢の中であれば、何だってできるのだから。


 肘から手の甲にかけて、ゆっくりと撫でられて我に返った。


「ふふ、若い頃の秀志さんだ」


 そう言った春香が、俺の左腕に軽く抱きついて、猫のように小さく頬ずりをする。


 急に照れくさくなって、春香を抱きしめている腕がこわばった。


 背中のあたりがくすぐったい。

精神まで幼くなってしまったのだろうか……

ふいっ、と妻から視線も外す。

 

 視線を向けた先には、春香が好きな桜の樹がある。ひらひらと花びらが舞い落ちている様子が目に映る。


 しかし、桜色以外にも、何か白いものがちらちらとーー


「雪、か?」


「雪と桜が一緒に舞うなんて、素敵ね」


 春香がそう呟くから、黙って頷いた。


「私の名前の由来、覚えてる?」


「『生まれた次の日に、窓から、春の花の香りがしたから』って昔、聞いたけど」


「ふふ、安直よね」


「名付けって、そんなもんじゃないか?」


 そうかもね、と妻がころころと笑う。


 鈴を転がすような、とはよく言ったものだ。

 彼女の声、特に優しく笑う声は耳に心地よい。



「でもね、春の花で『はるか』じゃなくて、『春の香り』にしたのはね。『目には見えない繊細なものも、感じられるような人になって欲しいから』なんですって。この由来はね、私も気に入ってるの」


 彼女は、スッとひとつ息継ぎをして、そのまま話し続けた。


「目に見えないものを、感じることができたら素敵よね。人にとって、その感覚を持つことは、とても大事なことだと思うわ……今だから、特にそう思う」


(それは『一度死んだから、そう思う』っていう意味か?)


 口に出して尋ねそうになり、慌てて飲み込む。


「だからね、秀志さん。私が伝えたかったことはね、」


 言葉の途中で、春香の口をパフッと片手で覆った。

 驚いた彼女は、大きく目を見開いた。


(その言葉を聞いたら、この時間が終わってしまう)


 おそらく、ではない。確信している。


(春香を連れていかれるなんて、二度とごめんだ)


 たとえ、心地よい春香の声を、二度と聞けなくなったとしても、目の前から彼女が消えてしまうくらいなら、ずっと口を塞いでしまおう、とすら思ってしまう。


 俺の手の上に、春香が柔らかく手を重ねた。

そして、春香の瞳が微笑む。

彼女が『仕方ないなぁ』といって笑う時の目だ。


 そして、ゆっくりと自らの口元から俺の手を外し、俺の胸に背を預けるように、もたれ掛かってきた。

 

 彼女は、そのまま胸の前で祈りを捧げるように指を組んでから、手のひらをくるりと庭に向けて、ぐっ、と伸びをした。


「あぁー寂しいなぁ。秀志さんも、私が居なくなったら寂しい?」


 溜め息とも深呼吸とも取れる吐息とともに、彼女が何でも無いことのように尋ねてくる。


「何、当たり前なこと聞いてるんだっ」


 感情のままに妻を抱きすくめた。涙が出そうになる。


 いや、涙は、もう頬を伝い始めていた。

そして、そのまま顎まで伝い、春香の頭頂部に雫が落ちた。


 春香は首だけを反らして、じっと俺の目を見つめた。

 何秒か? 何分か? どれくらいの時間が経ったのか分からない。

 

 その間、お互いにまったく目を逸らさい。


 間近にいる人の瞳に、自分が映るというのは本当だったのか……

 涙の軌跡を頬に残し、赤く目を潤ませた情けない男の姿が見えた。


 切羽詰まった時でも、人はどこかで冷静な一部分が残るように思う。

 首を反らし続ける彼女を見つめながら、「首、痛くないのか?」という感情が過ぎった。


 しかし、金縛りにあったかのように、口も体も動かなかった。

 伝う涙だけが時折、顎先から雨垂れのように溢(こぼ)れ落ちる。

 

 その一粒が春香の額に落ち、彼女は反射的に瞬きをした。


 そして、淡い桜色の唇が、ゆっくりと開いていく。


「一緒に、行きますか?」


 まるで、商店街への買い物にでも誘うように、春香は穏やかな声で尋ねてきた。


 衝撃を受けた俺の脳は、思わず涙を止めた。

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