第2話 ある雪の降る夜に。2


 そういえば、春香は焦らすのが好きだった。

娘が春香のおなかに宿った時も「プレゼントがある」と、わざわざ会社にいた俺に電話をかけてきたかと思えば、春香の言ったセリフは「帰ってからのお楽しみ」だった。


(また、焦らされるなんてな。しかも、二度と聞けない言葉で……)


 一人で苦く笑って、何気なく居間から廊下に出た。親から譲り受けた日本家屋は、一人で住むには広すぎる。

妻が生きていた頃はどこかで人の気配がしていて、離れた部屋にいても一人ではないと感じることができた。

また、それが当たり前のことだとも思っていた。


 冬は陽が落ちるのが早い。廊下はすでに暗くなっていた。

しん、と静まりかえる音が聞こえるようで、余計に一人なのだと感じさせられた。

そろそろ戸締まりを、と庭へと続く縁側のガラス戸をガラッと開ける。


 寒いと思ったら、雪が降っている。


 一瞬、その光景に立ちすくんで、息を飲んだ。

しんしんと降る雪景色から目をそらすように、瞳を閉じる。

すーっと肺いっぱいに息を吸い込むと、体の芯まで冷えるような空気が胸を刺す。心まで凍りつきそうだ。


 妻が居なくなったのも、一年前のこんな夜だった。


「だから、雪は嫌いなんだ」


 そう言って、窓を閉めようとした時だった。


「もう、そんなこと言わないの。こんなに綺麗なんだから」


 突然、もう思い出の中でしか聞けないはずの声がした。

狂いそうなほどに焦がれた春香の声だ。間違えるはずがない。

めまいを起こしそうな勢いで、声がしたほうに視線を向けた。


 我が家の庭には、春香が大好きだった桜の樹がある。

今の季節は淡い桜色の代わりに、うっすらと積もった雪が、白い花を咲かせているように見える。

雪が光を反射させるためか、樹の周りが、ぽぉっと明るい。

 

 そこに、春香はいた。

にっこりと微笑んで、桜の樹の枝に座っている。


手を伸ばせば触れられそうな、触れれば体温を感じられそう姿で。


 闘病中の苦しさを隠すような笑顔ではなく、本来の春香らしい柔らかな表情で俺を見つめていた。

いや、健康な時というよりも、もう少し若い頃の姿のような気もする。


 妻を失った悲しみから、とうとう幻覚まで見るようになってしまったのだろうか。

自分の目を疑いながらも、つい思い出を辿るように目の前の彼女を観察してしまっていた。


 春香は童顔ではあったが、初対面の人からも、きちんと大人の女性として認識されていた。


 しかし今、桜の樹の上で微笑む彼女は、ブランコに乗る少女のような無邪気ささえ感じられる。

まるで子どもの頃の春香を見ているようだが、「彼女は桜の樹の精霊だ」と誰かに言われたとすれば、そのような気さえもする。


 信じられない光景には違いないのだが、不気味なのではなく、幻想的なのだ。


 夜の庭で微笑む彼女をぼんやりと見つめながら、やっぱり娘は春香に似てるな、などと、とっくに嫁いだ娘を思い出したり、思考が過去と現在、夢と現を行ったり来たりする。


「ふふ、百面相。考え事してる時の顔、変わらないね。秀志さん」


 雪のような純白のワンピース姿の春香が、手で口元を隠して、くすくすと笑う。

彼女が笑うたびに、胸のあたりまである優しい栗色の髪も、さらさらと揺れている。


(これは幻? それとも幽霊というものなのか?)


 いくら考えても答えなんて出ないが、もうそんなことはどうでもよかった。

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